脳の検証開始
何かが起こりそうな予感を覚えた僕は、息を止めてしばらく様子を窺った。しかし、何ごとも起こらなかった。
なんだ、気のせいだったのか。
がっかりしながら、視線を少し上に動かしたところで、不意に、僕の脳裏に映像が浮かんできた。
でもなぜかそれは、先ほどのPの横顔だった。
レッドソックスのユニフォームを連想させる真っ赤なはっぴを羽織った二人の女の子に、にやけた顔で、名刺をねだっている。
こいつは、昔から女には目がなかった。でも、とてもクールな態度で接していた。傍から見ていても、かっこよかった。そんな彼を、こんなふうに変えたのは、何だったのだろう。何がこの十年間に起こったんだ。でも、それはそれとして、どうして、こんなときに、こんな映像が浮かんできたんだろう。
映像の高速逆回転が始まったのは、そんなことをぼんやりと考えていたときだった。
「大丈夫か、おい」
どこかで声がした。
「誰?」
目を開けると、すぐ近くに、うろたえたような顔。Pだった。こんな表情の彼を見たのは初めてだった。だが、そのことよりも、自分がどこにいるのか気になった。
あたりを見渡すと、何のことはない。先ほどまでと同じ、Pのマンション。しかし、少し変わったところがあった。
テーブルから、寿司関連の容器が全て消えていた。その代わりなのか、コーラと緑茶の、ペットボトルが置いてあった。
僕の経験からいけば、この状況下で、考えられることは、ひとつしかなかった。
どうやら、変な関西弁を使う自転車屋のおじさんから聞いた現象が、僕にも起きたらしい。
僕は、自分の気持ちを落ち着かせるために、コーラのキャップを意識してゆっくりと開けた。そして半分くらい飲んでから「何だよ、お前のその変な顔は」と言った。
その声に安心したのか、Pは「変な顔はどっちだよ。人を驚かせやがって、この野郎」
と言って、へたり込むように、ソファに腰をおろした。「お前は、まばたき一つせず、文字どおり固まっていたんだぞ」
予想していたとおりの言葉に、安心した。
自分の記憶が飛んだ理由が、はっきりしたからだ。
医学用語で、何と言うのか知らないが、僕が今体験したのは、映像業界でフラッシュバックと呼ばれる現象の長時間版。しかし、自分の動揺がまだ続いている今、そのことを口にしないほうがいいかもしれない。
「時間的には、どれくらいだった?」感情がこもらない声で訊いた。
「最初から見ていたわけじゃないんだ」Pはボトルの緑茶を飲みながら答えた。「俺が後片付けをしている間だったから、長くても三分。ひょっとすると、キッチンからここに来るまでの、数秒間だったのかもしれない」Pはそう言うと、僕の斜め三十度くらい上を指差した。「お前が睨んでいたのは、あのあたりだった」
「ふーん」僕は、その空間に視線を向けた。そこには何もなかった。映像らしきものもなかった。「なるほどね」僕はそうつぶやいてから、先ほど体験したことを口にした。
「実を言うと、ついさっきまで、俺の頭の中には、映像が映しだされていたんだ」
「頭の中?」Pはボトルを置いて、身を乗り出した。「その映像って、わらぶき家のパソピア?」
「いや、そうじゃない」僕は首を振った。「全部だ」
Pは、何か考えるように、眉間にしわを寄せた。「全部って、どこからどこまで?」
「三日続きの夢を見た日から、今日まで。お前が寿司屋の女の子に、情けない声で、名刺をくれって言ったところまで。それも、行って戻って、三往復」
「同じ映像を三回?」興奮した声で言ったPは、気持ちを落ち着かせるように、ボトルのお茶で喉を潤した。「すると、今日までのことを、全部思い出したと言うわけだな」
「たぶん、そうだと思う。三回ともまったく同じ映像だったから」と言ったところで、過大な期待を持たれるのを予防するために「でも」と言って、言葉を切ってから「分からないところは、分からないままなんだ」とつづけた。
真剣な目で僕を見つめていたPは、十秒ほどしてから「せっかくだから、ここで、お前の頭の中を整理してみようか」と言った。
僕のそのつもりだった。でも、一応その理由を訊いてみた。
「整理? 何のために?」
「お前の脳の仕組みを調べるため」
僕と同じだった。「調べて、どうするつもりなんだ?」
「どうもしない。たぶん、俺のいるところで、その現象が起きたと言うことは、俺にもそれを楽しめということなんだろうよ」
これも同意見だった。「どうやって、整理するつもりなんだ。俺の頭の中を」
「それは、お前自身で考えろ」
その答は想定外だったが、僕の口から即座にこんな言葉が出てきた。
「パソコンを、貸してくれ」
予想していたかのように、Pがにこっと笑った。そして、昔、答合わせを楽しんでいたときのような声で「何のために?」と訊いてきた。
「まずは、俺の脳の中から、現実だけを選び出すんだ」
その後を、Pがつづけた。
「つまり、お前が、三日続きの夢を見たころの、鹿児島の天気を調べるわけだな」
そうだ、という代わりに僕は起ち上がった。
「今夜も徹夜になりそうだ。気分を切りかえるために、シャワーを浴びてくる。その間に、パソコンとICレコーダーを揃えておいてくれ」