事実を目の当たりにして
熱めのシャワーを浴び、タオルで髪を拭きながらバスルームから出ていくと、僕が座っていたソファが50センチほど後ろに下がり、テーブルとソファの間に、折り畳み式の座椅子が二つ並んでいた。
「二時間ちょとなら、バッテリーだけで足りる」Pは、ノートパソコンにさし込んである電源コードを指差してつづけた。「でも、それ以上になりそうだから、繋いでおいたよ」
Pは、昔から気の利くタイプの人間だった。
しかし、ノートパソコンに電源コードを繋いだ理由を、自分から説明するような野暮なことはしなかった。
Pの変わりように、さびしさを覚えたのは、僕のどこかに、昔のイメージが残っているからだろう。
しかし、組織の中で生き延びるには、自分の意見、あるいは意思が、相手に正確に伝わるように、常に心がけておくことが必要なのかもしれない。
「お前のような優秀な社員がいると、会社も大助かりだな」座椅子に腰をおろした僕は、テーブルに並べられているペットボトルの中から、野菜ジュースを手に取った。
すると、僕の左に座ったPが、嬉しそうな声で「この俺のどこが、優秀なんだよ」と訊いてきた。
「ん?」
思わず彼に目を向けた。違和感を覚えたからだ。それまで僕は、彼のことを根っからのクールな男だと思っていた。
なのに、ちょっと褒められただけで、人並みに喜びを表しやがって、何だよ、おい。
心の中でそう言ったあと「自分の優秀さに、気づかないところだよ」とだけ言って、体をパソコンに向けた。
Pが用意してくれたのは、ウインドウズ7のノートパソコンだった。サイズは、持ち運ぶには少し大き目の17インチ。購入したのは二年前で、ほとんど使っていないらしい。
検索バーに『過去の天気』と入力したところで、嫌な胸騒ぎを覚えたのは、この後に訪れるショックを、少しでも和らげようとする本能が働いたのかもしれない。
結果が出る前に、気持ちを落ち着かせよう。
僕は、目の前に置いておいた野菜ジュースを、時間をかけて半分ほど飲んだ。そして、気合いを入れるつもりで「よしっ」と言って、エンターキーに手を伸ばそうとしたとき、とつぜんPが「ちょっと待ってくれ」と言った。
僕はPがどんなことをしても、ほどんど怒らない。でも、この場合は、あまりにもタイミングが悪すぎた。Pを睨みつけて「何だよ、急に」と言った。
だが、彼は悪びれた様子もなく、笑顔のままで答えた。「さっきの言葉を、取り消したいんだ」
「さっきの言葉?」
それが、何を指しているのか分からなかったが、取り消すという言葉で、頭に浮かんできたものがあった。
『もしよかったら、このまま、ここに残らないか』
だとすると、僕にはヘッドハンティングされるだけの能力がないということに、Pが気づいたことになる。
東京に残る気はなかった。だから、落胆は感じなかった。しかし、嬉しくもなかった。
「自分の意見を、めったに変えないお前にしては、珍しいな」僕は皮肉を込めてつづけた。「心変わりした理由を、教えてくれよ。頭の巡りが悪い人間にも良く分かるように」
意外な言葉が返ってきた。
「お前が、野菜ジュースを飲んだからだよ」
テーブルには、僕が飲んだジュースの他に、メーカーの違うペットボトル入りのコーラが三本置いてあった。
「つまり、この野菜ジュースは、お前が飲むつもりだったわけ?」
「最初は、そうだった。でも、途中で気が変わった。お前がこれを飲んだら、俺も記憶の仕分け作業に参加することに決めていたんだ」そこでまたPは、にこっと笑った。
「あ、そう」と言ったものの、このあとを、どう繋げていけばいいのか分からなかった僕は「手伝ってくれる可能性は、四分の一だったってことか」と言って、彼の言葉を待った。
「違う。四分の一じゃない」Pは真面目な顔になった。「これまでのお前だったら、99パーセント以上の確率でコーラを選ぶ。だけど、お前が手にしたのは、野菜ジュースだった。しかも、キャップを開けて飲んだ。その上、コーラ以外の飲み物には、必ず一言感想を言うお前が、何も言わなかった。これはある意味、奇跡。見えない力が働いたのかもしれない」
言われてみれば、確かにそうだ。僕の場合、美味しそうなジュースが百本あったとしても、その中に、コーラが一本混じっていれば、必ずそれを選ぶ。何も考えずに手を伸ばした場合、ボトルに手が触れた瞬間、コーラではないことが分かる。ボトルの形が全く違うからだ。Pが言うように、単なる偶然ではないのかもしれない。
と、そこで疑問が湧いた。
どうして、こいつは、こんなくだらない賭け事を思いついたんだ。手伝ってやってもいいぞ。どうする? と訊けば、それですむことなのに。
そのことを訊こうとしたとき、それとは違う質問を思いついた。「俺が断ったら、どうする?」
Pは、にやりと笑った。「無理やり参加」
後になって、Pはその時のことを、こんな風に語った。
「あの日お前が、コカコーラを選ぼうが、ペプシを選ぼうが、キリンメッツを選ぼうが、お前の仕分けを手伝っていたよ。以前から、お前の思考の手順とか、思わぬ事態に追い込まれたときの、対応法、タイミングの取り方、そんなことに興味をもっていたんだ。最初は傍観するつもりだったけど、思い直したんだ。お前がシャワーを浴びている間にね」
そんな経緯を経て、記憶の整理を手伝ってもらうことになったわけだが、Pの申し出は、僕にとって非常に良い結果をもたらした。
三日続きの夢を見た頃の気象データーを、ネットで調べてみると、その前後三週間は、鹿児島県内は、どこも雨。地域によっては集中豪雨。僕の記憶とは真逆の結果がでた時点で、頭の中は真っ白。言葉がでないどころか、何も考えられない状態に陥った僕に、思考の道筋を付けてくれたのは、もちろんP。
にこっ。余裕たっぷりな笑顔を浮かべた彼は、テーブルに置いてあったボールペンを、僕の口元に差し出した。そしてインタビューするニュースキャスターのような声で「今のお気持ちを、聞かせていただけますか?」と言った。
「理解できません。頭の中が混乱しています」Pにつられたのか、無意識のうちに、第三者口調で答えていた。「私の記憶では、数ヶ月前から、鹿児島は晴天続きでした。干ばつ被害を心配していたぐらいです。どこで記憶が入れ替わったのでしょう」
Pは少し間を置いてから、彼らしいセリフを口にした。「気象庁のデーターが間違っているのかもしれませんよ」
「いえ、そんなことはないと思います。これは私の勘違いです」自然にそんなセリフが出てきた。自分の気持ちが、落ち着いてきたことに気づいた僕は、バスルームで考えていたことを実行することにした。「そのことを、別の方法で確認してみます」
「別の方法とおっしゃいますと?」
「もちろん」そこですこし言葉を切ってからつづけた。「グーグルマップです」
「なるほど、それは良いお考えですね。グーグルのストリートビューを、お使いになるおつもりですね」
「そうです。あんな便利なものが無料で、しかも使い放題だなんて、信じられませんよね」
まるで、ラジオショッピングのような会話。それが、打ち合わせ無しで続くことに驚きを覚えながら、グーグルマップで国道226号線沿いにあるJAスタンド近くの地図を呼び出した僕は、すぐに画面をストリートビューに切りかえた。
「このすぐ近くに『相性の悪い自動販売機』があるんです」と言ったあと、心の中に芽生えてきた疑問を口にした。「なあ、おい。お前とこうして話をしているけど、これは、夢の中での出来事じゃないだろうな」
「そう言えば、俺の項目に、マトリョーシカ方式の夢という奴があったよな」パソコンから目を離したPは、クスッと笑って僕を見た。「夢かどうかを確かめる方法なら知っているぞ。試してみるか?」
ペンチで、ギュッとほっぺたをつねるんじゃないのなら、考えてもいいよ、と言いかけたところで、画面上部に、製材所跡地が見えていることに気がついた。
「ここだ、ここ。この空き地に自動販売機が置いてあった」画面を何度かクリックして道なりに進むと、右手に自販機の側面が見えてきた。「コーラは、下の段。左から三番目だった」
画面をズームアップして回転させた。自販機の正面が現れた。しかし記憶とはまったく違っていた。ところどころ茶色く錆び付いた自販機が三台並んでいた。
「俺の記憶では、コカコーラの赤い自販機が一台だけだった。それも、おろしたての新品のように、ピカピカに磨いてあった。その一年前も、同じ機械だった」
「ひょっとすると」Pが考えるような目をして言った。「この辺りをストリートビュー撮影車が通ったのは、何年か前かもしれないぞ。思ったほど売れなかったから、新しい自販機一台だけにしたんだよ」
確かに、それはあり得る。
グーグルのストリートビューを使えば、その地点を中心にした360度の景色を、いつでも見ることができる。しかし、リアルタイムの映像ではない。以前撮影した無数の静止画を繋ぎ合わせてあるのだ。国道とはいえ九州の端っこ。今使われているのが、三年以上前の映像であったとしても、何の不思議もない。
「そうかもしれないな……」
小さくつぶやいた僕は、ストリートビューを一旦地図に戻した。そして、226号線を辿って、数キロ先にあるコンビニの横で、再び画面を切りかえた。
「あれれ?」間の抜けた声が、僕の口から漏れた。「肝心なところで、場所を間違えた」 あわてて地図に切りかえた。だが、何度やり直してみても、映しだされるのは同じ映像だった。
「どうした?」
「このあたりで、山間部に向かう道路は、一カ所しかなかったはずなんだけど……」
僕の様子に、何かを感じたのか、Pが、先ほどのインタビューモードで訊いてきた。
「今のお気持ちを、聞かせていただけますか?」
しかし、僕には、それに応じるだけの心の余裕はなかった。
コンビニがあったはずの場所の映像は、どこからどうみても、古い墓地にしか見えなかったからだ。




