忘れていた大事なこと
「まあ、気にするなよ」Pは笑いながら、冷蔵庫から取りだした缶ビールを開けた。「あれが、あの一座の特徴なんだ。男は女に、女は男に扮して、最後の場面で、それをわざとバラす。すると、観客は涙を流して大爆笑」
それから急に真面目な顔になった。
「あいつに閃きが走ったのは、支配人から、あの話を聞いた瞬間らしいぞ」
「あの話?」
「ほら、あれだよ、あれ。お花畑。ここに書いてある」Pはスマホを僕に向けた。「屋上に花の種を撒けば、違う世界が現れる。あの言葉で閃きましたって」
差し出されたスマホに、その文字があった。でも、首を傾げざるを得なかった。
確かに僕は、そんな話をした。支配人が感心したような声で「さすがは、会長が見込まれた方ですな」と言って、僕を見たのも覚えている。
しかし、あれは、屋上の清掃が成されていなかったことに対する皮肉以外のなにものでもなかった。支配人は、それに気づいていなかっただけ。
だいいち、あんな見晴らしの悪い場所を花畑にして、何になるというのだ。手間と費用がかかるだけ。ホテルの集客アップに繋がるはずがない。
自慢じゃないが、僕はこれまで、何かに役立つ話をしたとか、生活の向上に繋がるようなアイデアを出したとか、そんな気の利いたことをしたことがない。たぶんこれからもないだろう。
と改めて考えてみると、支配人のあの言葉は、つまらないことを言った僕に対する当てこすりだった可能性もある。でも、いまさら、それを確かめるつもりはない。
僕は、屋上からの眺めを思い出しながら言った。
「息子は、屋上に上がったことが一度もないはずだよ。あそこに立てば、分かると思う。屋上に出たとたん、周囲の高層ビルから、好奇の視線が注がれるってことが」
「それがな」スマホをスクロールしていたPが、顔を上げた。「今日初めて屋上に上がったらしいんだ。一座の団員を引き連れてな」
落胆する息子と、団員の表情が脳裏を過ぎった。
「だったら、あの空間では何も生み出せないって事が、身にしみて分かったはずだよ」
Pは、その言葉を待っていたかのように言った。
「そんなに謙遜するなよ」
「謙遜?」僕は顔をしかめた。「どうしてそんな言葉が出てくるんだ。俺の性格を知っているだろう」
「だって、ここに書いてあるんだから仕方ないだろう。お花畑という短い言葉で、それを言い表して下さった謙虚さも見習うことにしますって」
わけが分からなかった。お花畑のどこに、後継者問題を解決させるほどのパワーが隠されているというのだ。
僕がそのことを口にすると、Pにも、やっとそれが伝わったらしい。
「確かにそうだよな。何が閃いたんだろうな、お花畑から」と言ったあと、彼は、にっと笑って「じゃあ、本人に直接訊いてみようか」と言った。
僕としても興味はあった。でも、それよりもっと大事なことがあることに気づいた。
「それより先に」と僕は言った。「お前と俺の話をした方がいいんじゃないか?」




