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いくつかの偶然。試食

 森伊蔵の電話予約の件を思い出したのは、それから数日経ったころだった。

 しかし、ダイレクトに思いだしたわけではない。いくつかの偶然が重なった。

「あら、色おとこじゃない」

 アパートを出て、最初の路地を曲がったところで声をかけられた。

 振り返ると、結婚で苗字が山口に変わった野菜屋のおばちゃんだった。作務衣にモンペスラックスという服装。手には何も持っていなかった。

「家はこの近くなんですか?」

「違う違う」おばちゃんは、笑顔で首を横に振ると、外国人がよくするように、肩をすくめた。「家を出ようとしたら、車がパンクしていたの。この道は初めて」

 それから、僕の顔をまじまじと見つめて言った。

「これからどこに行くの?」

 正午まで二十分くらいあったが、この時間ならどこでも待たずに食事にありつける。

「久しぶりに、外で食べようと思ったものですから」

 するとおばちゃんは、僕の顔を覗きこむようにして言った。

「野菜不足じゃないの。目が赤いよ」

 ここ一週間ほど、朝から晩まで音声変換作業に没頭していたが、自分で作った食事を三度三度きちんと食べていた。

 雑穀入りのご飯。味噌汁には必ず野菜を入れた。白菜の漬け物も添えた。

 食事の合間には、いつものようにコーラを飲んだが、それ以上に野菜ジュースを飲んだ。 目の充血は、モニターとにらめっこしていたからだろう。

「実を言うとですね」

 そのことを話すと、おばちゃんは、にこっと笑って「質問があるんだけど」と言った。

「舌はどう?」

 いきなりで意味が分からなかった。

「下ですか?」

 おばちゃんの足元に目をやったところで、服装のことを聞かれたのだと思った。

 先日電器店で会ったとき、服装に違和感を感じたことを思い出した。僕は本心を言葉にした。

「似合っていますね、このモンスラ」

「あら、ありがとう」

 嬉しそうに笑ったおばちゃんは「でも、これじゃないの」と言って、自分の舌先をちらっと見せた。「こっちよ、こっち」


 おばちゃんの店の開店予定日は、三日後。

 今はそれに向けて、最後の追い込みにかかっているらしい。

店舗はおよそ十坪。カウンターの前に椅子が七脚。僕はその真ん中に座って、周りを見回した。

 店内ががらんとして見えるのは、入り口からカウンターまでの空間が広すぎるせいだ。たぶん居酒屋時代には、そこにテーブルがいくつか並んでいたのだろう。

 店に入ってから、何も喋っていないことに気づいた僕は「これから新しいテーブルが届くんですね」と言った。

 カウンターの向こうで、包丁を動かしていたおばちゃんが振り返った。

「ここの定員は七人。それ以上はお断りという制度なの」

 店は商店街からも、住宅街からもずいぶん離れている。人通りはほとんどない。場所的に有利なのは、店の周りが空き地だらけということぐらい。でもアルコール目当の人は車では来ないはず。

 この手の店の採算分岐点が、どのあたりにあるのか分からなかったが、話の流れで質問してみた。

「それで商売になるんですか?」

「さあ、どうだろう」おばちゃんは他人事のように言った。「何ごとも、やってみなければ分からないっていうからね」


 試食に出てきたのは、二種類のおでんだった。

 具はどちらも大根。最初が味噌味。次が醤油味。

 いつもなら辛子をたっぷりつけて食べる。だが試食となると、そういうわけにはいかない。

 猫舌の僕は、大ぶりの大根を箸で四等分して熱を冷ました。そして、味噌、醤油、味噌、醤油、という具合に交互に味わった。

「どっちが美味しかった?」

 僕の母も祖母も、料理は得意だった。味付けはそれぞれ違っていたが、どちらも美味しかった。大人になってから知ったのだが、二人ともプロとして十分通用する腕を持っていた。おばちゃんの味は、それに匹敵していた。

「ずるいようですけど」僕は昔母と祖母に言っていたような返事をした。「味噌味も、醤油味も、どっちも美味しいです。これなら繁盛間違いなしです」


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