頭の中に浮かんでいるもの
その超高性能パソコンが、僕の脳のことだと言われても、別に腹は立たなかった。
人間の脳が持つ潜在能力は、スーパーコンピュータに匹敵するという記事を、何かで見たことがあったし、話の流れに気を配っていれば、勘違いなどせずにすんだことに気がついたからだ。
それにしても、どうしてPは、僕の脳とスーパーコンピュータを同次元で語ったのだろう。僕の脳は、他の人より優れているとでも言いたいのだろうか。
そんな思いが、浮かんで消えた。
しかし、いくら友人とはいえ、そんなことを、そのまま口に出すわけにはいかない。
「だとすれば、この地球上の人間は、誰だってスーパーコンピューター級の頭脳の持ち主ということになるよな」
と言って、かすかな期待を胸に返事を待ったわけだが、僕の脳は、十人並だったようだ。「お前の言うとおりだ。人類はみんな平等」Pはそう言ってから、すこしおどけた口調でつづけた。「でも、ほとんどの人間は、その使い方を知らない。もちろんこの俺も、その中の一人なんだけどな」
そんな謙遜なんていらないだろう。お前は俺と違って、他の人間より、頭ひとつ飛び抜けているじゃないか。
そんなことを考えているところに、飲み物がきた。
「お代わりは、ご自由です」ウエイトレスは、笑みを浮かべて、そう言った。
「カンパーイ」
僕たちは、むかしやっていたように、グラスを持ち上げて、乾杯の真似をした。
ワイングラスに似た小ぶりなグラス。氷は入っていなかったが、コーラはキンキンに冷えていた。これまで飲んだ中で、一番美味しいような感じがした。
「お前の脳のどこかに、初期設定が終わっていないところがあるのかもしれないな」
ジンジャーエールを飲みながら、Pはそんな事を言った。
これが、本物のパソコンに関することなら、あ、そう、と聞き流してもよかったのだが、僕の脳の内部の話となると、そうもいかない。思い当たる節はいくらでもあったからだ。
「やっぱり、病院に行った方がいいのかな」
本気でそう言ったのだが、Pは、あっけらかんとした声で答えた。
「いろいろ試してからでも、遅くはないと思うよ」
「なんだよ、おい」むっとした僕は、腕組みをしてソファーによりかかった。そして、しばらくしてから口を開いた。「人ごとだと思って、気楽なこと言うんじゃないよ」
しかし、Pは冷静な声で、それに応じた。
「他人事だからこそ、分かることがあるんだ」それから、真面目な顔でつづけた。「時間がなさそうだから、脳の整理整頓から始めようか」
あまりにも簡単に言われたものだから、つい確認してしまった。「それって、俺の頭の中のことだよな?」
「そりゃ、そうさ」
こうもあっさり言われると「じゃあ、どうすればいいんだ」と言うしかない。
「自覚はないだろうけど、お前の頭の中は、ごっちゃごちゃ。足の踏み場もない。でも大丈夫。散らばっているやつを、分類してやればいい」
「分類? どうやって?」
「新しいフォルダーを、いくつか作るのさ」
Pは即答したが、僕には、何をどうすればいいのか、まったく見当がつかなかった。
グラスを持ったまま、ぽかんとしている僕に、Pが言った。
「世の中には、世紀の大発明とか、大発見というものがあるけど、大抵の場合、それを発明発見した本人はもちろん、その関係者のほどんどが、どうして、今までこんな簡単なことに気づかなかったんだろうって、頭をひねるらしい」
「今の話と、俺の脳の間に、共通するものがあるのか?」
「あると言えば、ある」Pは胸を張るような仕種をした。「お前の脳を整理する方法を、たった今、みつけたんだ」
「ほんとうに?」
「ああ、間違いない。その証拠に、どうしてこんな簡単なことに、今まで気づかなかったんだろうと、俺は思っている」
信じがたい話だった。嘘だろうと言おうとしたが、とりあえずは聞いてみることにした。仮に作り話だったとしても、今回の東京土産のひとつになりそうだ。
「分かった」残りのコーラを飲み干した僕は、ウエイトレスを呼んで「できれば、もう少し大きめのグラスでお願いします」そう言って、二杯目のコーラを頼んだ。「
「自分の考えをまとめるには、文字にするのが一番なんだ。それも、なるべく短く」Pは会社の経費を例にとって、話し始めた。
「経費、たった二文字だけど、この中には、色々なものが含まれている。ざっと言って、交際費、接待費、地代、家賃、水道光熱費。光熱費には、電気ガス水道料金。電気代には、空調器具。照明。パソコン。仮に、光熱費の経費を削れと言われた場合、昼間は窓際の照明をつけないとか、トイレの電気、」
「もういいよ」なおも続けようとするPを止めた。「俺に関係ない世界の話だと、余計に頭がこんがらがってしまう」
「悪ぃ、悪ぃ」恥ずかしそうに頭を掻いたPは「つい、会議での癖が出てしまったようだな」と言ってから何か考えるような目で、しばらく僕を見つめたあとで「今、お前に必要なフォルダーは、三つか、四つだな」と断定したように言った。
「えらく自信たっぷりに言うじゃないか」
「それぐらい簡単なことだということさ」
上から目線で言われたような気がした。「だったら、教えてくれよ」当然僕の口から、そんな言葉が出る。
ところがPは、用意しておいたようなセリフを言った。「それが、他人から教えてもらっちゃ駄目らしい」
「らしい? 一体誰が、そんなこと決めたんだ」
この種の質問に、Pは昔から、同じ言葉を返してきた。てっきり今度も、神様だよと言うだろうと思った。しかし返ってきたのは、別の言葉だった。
「言い伝えだよ」
僕は、一瞬、言葉に詰まった。「神様、じゃ、なかったのか?」
Pはにこっと笑った。「うちの会長は、とある田舎の長老から聞いたというから、元を辿れば、そういうことになるのかもしれないな」
「もう一回り大きいものもございますが」と言って、ウエイトレスがテーブルに置いたのは、中ジョッキ。六分目ほどのところで、炭酸の泡が弾けていた。
「美味いだろう、ここのコーラ」とPが言った。「いわゆる、生コーラってやつなんだ」
生ビールは知っているが、コーラにも生があるなんて知らなかった。
「ここで、炭酸を入れるんだ。ブシューッってな。今のお前には、うってつけの飲み物だ。脳の活性化には、著しい効果をもたらす」
冗談だろうと思ったが、僕はジョッキを目の前にもってきてから、質問した。
「何が脳に利くんだ。コーラのエキス? それとも炭酸?」
「相乗効果」Pは笑いながらカウンターを振り返った。「特に、コーラソムリエの心意気」
Pの声に、先ほどのウエイトレスが、にこっと笑うと、Pは僕に視線を戻して「あと10秒してから飲んでみろ」と言った。
ウエイトレスが見ていなければ、断るところだったが、それを受けることにした。
サン、ニィ、イチ,ゼロで、ジョッキを傾けた。
一口目を飲んだとき、何かが変わる。そんな予感めいたものを感じた。
喉元で弾けた炭酸が、脳細胞の中に溶けこんでいくような錯角を覚えたからだ。
量と効き目は、正比例するかもしれない。
元が単純な僕は、そんな風に考えた。
残りのコーラを一気に飲み干した次の瞬間、
バチバチバチ。
頭の中で花火が破裂したような音が聞こえた。ような気がした。
「あれっ?」思わず声が出た。静かになった頭の中に、三つの文字が並んで浮かんでいた。
「ちょっと、これ借りるぞ」
僕はテーブルのボールペンを掴むと、レポート用紙に、その文字を書いた。
『夢』『現実』『妄想』
「やったね」Pが派手なガッツポーズをするのが見えた。でも、僕には、なぜ彼が、そのような動作をしたのか分からなかった。
僕は、その文字を眺めながら、Pに訊ねた。
「この三つで、俺の頭の中が整理整頓できるはずはないよな」
目を輝かせて僕を見ていたPが、怪訝そうな顔をして訊いてきた。
「閃いたんだろう? この三つ」
僕は正直に答えた。
「閃いたんじゃない。映像として、今も頭の中に浮かんでいるんだ」




