ペーパーレス化に逆行
「ご自由にお使いください」
ウエイトレスが持ってきたのは、3冊のレポート用紙と、2種類のボールペン。そのどれもが未使用だった。
「えらくサービスがいいんだな、このサウナ」
レポート用紙を捲ってみると、縦書き、横書き、罫線なしの三種類。
アルコール以外の飲み物や、最新式の電動マッサージチェアなどの備品すべてが無料。そんなものより、こっちの方が感動が大きかった。
「女性客には、女性用のものが用意されているのかな?」
「そりゃ、当然だろう」罫線なしと、3色ボールペンを選んだPは、ウエイトレスの後ろ姿を目で追いながら「実を言うと、ここも俺たちが関わっているんだ」と言った。
どうやら、このアイデアは、Pのグループの誰かが考えたものらしい。僕たちを迎えにきた運転手のどちらかなのだろうか、それとも。
僕は、しばらく考えてから質問した。
「お前たち六人で、いったい、どれくらいの企業を受け持っているんだ」
Pは何も答えなかった。笑っただけだった。
でも業務秘密を守るため、と言うような堅苦しいものではなかった。ただ単に、僕たちに残された時間が少ないことを気遣ってのことだろう。
「さっきの奴を、まとめてみよう」
Pは最初のページに「無口な、でしゃばり兄ちゃん」と書いた。ミミズが這ったような僕の字に比べて、とてもきれいな字だった。
そのことを言おうとしたところで、あることを思い出した。
「この十年で、お前はずいぶん変わったみたいだけど、一番変わったのは、それかもしれないな」
ん?
顔を上げたPは、不思議そうな顔をして「それって、何?」と言った。
「それだよ、それ」僕は、あごをしゃくった。「お前がメモしているところなんて、一度も見たことはなかったぞ」
「ああ、これのことか」Pは納得したような表情を浮かべると、ボールペンを置いた。そして、ソファに寄りかかると、足を組んで真正面から僕を見た。「どう思う? 俺の変わり具合」
怒りに似たものを覚えた。
と言うのも、このポーズを取るときは、彼がとても重要な話をするときに限られていたからだ。言い方を変えると、長い話が始まるというサインでもあった。
『何でこんなときに、そんな恰好をしなけりゃならないんだ。どう考えてみても、俺の質問の中に、重要なものなんてないだろう』
当然、そのときの僕は、そう思った。
しかし、後から考えてみると、何気ない質問から始まったPとのやりとりの中には、僕の人生を左右する、とても大事なものが含まれていたのだ。
どうでもいいだろう、そんなこと。時間の無駄。はやく先に進もうよ。
と言おうとしたが、やはり、それはいけない。メモの話を持ち出したのは、僕。親友と言えども、礼儀違反。僕はひとつ息を吐いてから言った。
「たぶん、お前が会社人間になったという証拠だよ」
思いつきを口にしただけだったが、Pは満足げな顔で「さすがはお前だな。良いポイントを突くじゃないか」と言った。
別に嬉しくはなかった。
忙しさに忙殺されて、物忘れがひどくなったから、仕方なくメモするようになったんだろう。というニュアンスを込めて言ったからだ。
でも、僕は「ありがとう」と言った。そして、Pの自尊心を、少しくすぐってやった。「お前に褒められると、どんなことでも嬉しいよ」
これで、メモの話は終わると思った。しかし、そうではなかった。カップに残っていたココアを飲んだPは、勢いがついたように、話をつづけた。
「ペーパーレス化が進むこの時代に、何で、ボールペンとメモ用紙を使わなくちゃならないんだ、って思わないか?」
何か気の利いたことを言って、話を打ち切ろうと思ったが、何も思いつかなかった。
というより、面倒くさかったのだ。だいいち僕は、会社人ではない。人材派遣会社に登録はしているが、会社勤めをするつもりもなかった。メモの効用を聞いたところで、何の役にも立たない。
「さぁね」
わざとぶっきらぼうな声で言ってみた。そうすれば、心理が分かるPが、話をやめると思ったからだ。
しかし、そのもくろみは、見事に失敗した。Pの問いかけに、僕の方が食いついてしまったからだ。
「京というスーパーコンピュータを知っているか?」
テレビの特番で見たことがある。確か七年ぶりに、世界一を奪還した日本のスパコンだ。でもどうして、このタイミングでこんな話が出てきたのだろう。
「知っているけど、それが何か」
「俺はな」と言ったPは、もったいをつけるように、十秒ほど間を置いた。「その「京」に匹敵するような、超小型パソコンを知っているんだ」
そこで言葉を切ると、笑みを浮かべて僕を見た。
どうやら次の言葉は、僕が言わなければならないらしい。となると、ここは本気で考えなければならない。
Pの言葉を頭の中で繰り返すまでもなく、手がかりはすぐに見つかった。
スーパーコンピュータとパソコン。その違いだ。
スーパーコンピュータは、科学的な技術計算や軍事目的に使う大規模なコンピュータ。
パソコンは、パーソナルコンピュータを略したもの。つまり、個人用。
パソコンの歴史は比較的新しい。僕のうろ覚えの知識の中で、世界で最初のパソコンと言えば、アップル。そのアップル社の歩みを雑誌で見たことがある。裸の基盤に、キーボードを繋いだだけの写真がいくつも載っていた。
そういえば、今日行った秋葉原は、誰でも電子部品が買える街としても有名。
まさかと思ったが、言ってみた。
「お前のグループに、スティーブ・ジョブズみたいな、とんでもない頭脳の持ち主がいるんじゃないだろうな」
「ハハハハ」Pは気持ちよさそうに笑った。「俺のグループは優秀だけど、そこまでの人間はいないよ」と言うと、Pは僕に顔を近づけた。「少しは、目が覚めたか?」
「なんだよ、おい。今の話は、冗談だったわけ?」
「そんなことはない」Pは、そこでウエイトレスを呼んだ。そして、コーラとジンジャーエールを頼んだあと、にやっと笑った。
「これから、そのパソコンのセッティングを試してみようぜ」




