残り少ない時間の中で
どうして『美しすぎる郷土史家』にハートマークがないのだろう。
単なる付け忘れだろうか。
Pがコーヒーを淹れている間に、全ての項目に目を通してみた。
しかし、何度見返しても、マークがついている項目は『トリエステ浮上』と『美しい脚の持ち主』の二つだけだった。
となると、この二つには、何か共通するものがあるはず。
美しい脚の持ち主と言えば、あのマドンナのこと。マドンナは実在の人間。でも、トリエステは、僕の妄想が勝手に作り上げたキャラクター。共通点らしきものは何もない。
「これを飲めば、眠気が覚めるぞ」
Pが、淹れたてのコーヒーをテーブルに置いたとき、謎が解けたような気がした。
単なる言い間違え。
Pの目は、すこし充血していた。考えてみれば、僕たちは昨日も今日も一睡もしていない。それにPの仕事は、夜が遅いと言っていた。さすがの彼も、疲れの溜まりすぎ。
俺の、と言うべきところを、お前の、と言ってしまったのだろう。
とそこで、あることを思い出した。
映像を学んでいた頃、Pとマドンナは、常に反対意見を言い合っていた。いわゆる、犬猿の仲。でも、お互いに相手を認めていることは、他の誰もが知っていた。
卒業以来、マドンナのことは一言も言わないが、彼女に好意を持っているのかもしれない。
そう言えば、マドンナもトリエステも、自分の言いたいことを、ズケズケ言うわがままタイプ。ひょっとすると、Pは、このあとマドンナの話を始めるつもりなんじゃないだろうか、でも、彼は、自分の言い間違いに気づいていないようだ。だとすると、僕の方からその話を切り出した方が、話はスムーズに進む。
そんな結論に達したところで、急に時刻が気になった。
「今、何時?」
Pは、あくび混じりの声で「もうすぐ、夜が明ける」と答えた。
「え?」
長話をした覚えはなかったが、ノートパソコンで確認すると、Pの言うとおり、もう少しで、午前五時というところだった。
だったら、Pの理想の女性像なんて、どうでもいい。予定通りにいけば、あと数時間で羽田を発たなければならない。このコーヒーを飲み終えたら、帰る準備に取りかかろう。
そんなことを考えながら、カップに口を付けたところで、気が変わった。舌がヤケドしそうな熱いコーヒーだったからだ。
「お前さあ」
平気な顔で、コーヒーを啜っていたPが顔を上げた。「何?」
「眠気を取るだけだったら、ライターか何かで、俺の舌を焼いてくれればよかったんだよ」
冗談が通じたらしく、Pはハハハと大きな声で笑った。
僕は、その笑顔を確認してから続けた。
「さっきのアレ、お前の好みだったんだよな」
「好み?」
「俺が好きなのは、おとなしい子なんだ。コンビニにいた女の子のようなタイプ」
Pは眠たそうな目を開いた。「コンビニの女の子?」
「さっき、お前、言ったよな。俺の理想の女は、マドンナとトリエステだって」
「ああ、言ったよ」
どうやら、Pは、まだ自分の言い間違いに気づいていない。そう勘違いした僕は、少し間を置いてから、ゆっくりとした声で言った。
「あれは、俺の、じゃなくって、お前の、ってことだったんだよな?」
僕の言い方がまずかったのか、Pは首を傾げた。そして、しばらくしてから、真顔になって「いや、違う」と言った。「お前の理想の女が、あの二人だと言ったんだ」
人を見る目が、人一倍鋭いPから、そんな言葉が返ってきたのはショックだった。僕は、人の特技は、時間経過と共に、更に磨かれていくと信じていたからだ。
しかし、ここで、ああ、そうですかと、意に沿わない言葉で終わらすわけにはいかない。
「残念でした」と僕は言った。「俺は、あの手の女は大の苦手なんだ。見当違いもいいところだぞ」
「あらら」呆れたような顔になったPは、コーヒーカップを置いた。そして念を押すような声で「お前は、俺の性格を知っているよな」と言った。
僕は小さくうなずいた。「たぶん」
「他人に干渉されるのが大嫌いだから、他人にも干渉しない」
それは僕も同じだ。僕は少しぬるくなったコーヒーカップに口を近づけた。「で?」
「そんな男が言うくらいだから、きっと大事なことなんだろうな、と思うのが普通なんじゃないかな?」
言われてみれば、そうかもしれない。答は別にして、質問だけはしてみよう。
「物静かな女の子を嫁さんにしたら、この俺に何が起こるんだ?」
「お前の良さが死ぬのさ」即答したPは、急に思い出したように、話を変えた。「お前、本当に今日帰るのか?」
僕の良さが何なのか訊きたかったが、恰好を付けて、Pの質問に答えた。「お前も知っているだろうけど、俺は一度言いだしたら、絶対に変えない性格なんだ」
「分かった」Pはさっと起ち上がった。「この続きは、サウナでしようぜ」
僕もそう思っていたところだった。東京までまったくの手ぶらでやって来た僕は、昨日もサウナで肌着を買って着替えたのだ。
「じゃあ、この話もだな」僕が、一番最後に書き込んである項目を指差すと、Pはニヤリと笑った。
「もちろんだよ、その『無口な、でしゃばり兄ちゃん』のおかげで、お前と俺は再会できたわけだからな」




