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領地の製紙工房から荷が届いたのは、ゾンマーフェルト男爵夫妻が王都を発った翌週のことだった。
油紙に包まれた、試し漉きの紙。金箔と銀粉が、品よく漉き込まれている。それには工房長の簡潔な報告書が添えられていた。
――今季より入った娘の一人、手先が殊のほか器用にて、既に漉き込み紙を任せられるほどの技量。
名前は、書かれていなかった。わたくしも、問い合わせるつもりはない。
一枚を抜き取り、窓の光にかざす。漉き目は細かく均一だった。指の腹で撫でると、繊維がきれいに揃っているのが分かる。良い紙だ。
(……殿下へのお返事は、これにしましょうか)
婚礼の日取りについて、レオンハルト殿下から書状をいただいていた。その返事を書こうとして、ふと殿下がこの十年お使いの紙と、厚みを比べておこうと思いついた。
わたくしは、机の一番下の抽斗に手を掛けた。開けるのは、あの婚約破棄の夜から初めてのことだった。
十通の手紙は、仕舞ったときのまま、そこにあった。
一番古い一通は、わたくしが九つの誕生日に届いたものだ。広げると、まだ幼さの残る、それでも丁寧な字が並んでいた。王宮の庭の話。読み終えた本の話。季節の鳥の話。
厚みを比べるだけのつもりが、気づけば二通目、三通目と読み進めていた。そして、手が止まった。
――今年も、東の花壇に菫が咲いた。
一通目にも、その一文はあった。二通目にも、三通目にも。言い回しは年ごとに少しずつ大人びていくけれど、どの手紙にも必ずどこかに一行だけ、菫が咲いたことが書かれている。十通、すべてに。
(……菫)
思わず、自分の目元に指先を当てていた。心が乱れると濃くなる、わたくしの瞳の色。
わたくしは十年間、この一行を季節の挨拶として読み流してきた。王宮の庭の、ありふれた春の便りとして。
(十年、一度も愛など囁かなかったくせに――ですって?)
囁いていたのだ。毎年、一行ずつ。わたくしが気づかなかっただけで。
最後の一通を、指先で挟んで擦った。わたくしが選んで贈った、侯爵領の紙だった。殿下はこの紙に、十年ずっと同じ一行を書き続けていた。
わたくしは手紙を丁寧に揃えて抽斗に戻し、新しい紙を一枚、机に置いた。
日取りについての用件を三行で書き終えて、ペン先を止める。それから、もう一行だけ書き足した。
――東の花壇の菫は、来春、ご一緒に拝見しとうございます。
読み返して、頬が熱くなるのが分かった。書き直そうかと一瞬迷い、やめた。
(この一行は、頭の中の帳面には付けないでおきましょう)
◇
婚約の継続を改めて確かめる書面に署名を終えた日、わたくしは王妃アマーリエ陛下の私室に招かれた。
侍女も女官も下がらせた、二人きりの茶の席。王太子妃教育の十年で、一度もなかったことだ。
アマーリエ様は窓辺の長椅子に、膝掛けを掛けて座っていた。夏だというのに、アマーリエ様の手元にはいつも膝掛けがある。冬の湖面を思わせる琥珀色の瞳が、わたくしを静かに見た。
「座りなさい、エレナ」
「失礼いたします」
アマーリエ様自身の手で、茶が注がれた。わたくしは息を詰めた。王妃が手ずから茶を注ぐ相手は、王家の身内だけだと教わっている。
「婚約破棄の夜のこと、聞いたわ」
「お騒がせいたしました」
「あの子が自分で筋書きを書いて、自分で始末をつけようとした。……そう聞いたとき、わたくしは何もしなかったの。陛下が声明をお出しになったときも、ただ頷いただけ」
陛下は茶器を両手で包まれた。
「冷たい母だと思ったでしょう」
「……いいえ」
「嘘が下手ね。あなたのお母様なら、もう少し上手に仰るわ」
陛下は窓の外へ視線を移された。
「十二年前、あの布告が出されるきっかけとなったくだらない噂。その時にわたくしがどうしたか、あの子から聞いているかしら」
「……はい。少しだけ」
「その噂を初めて聞いた夜、わたくしはあの子の部屋の前まで行ったわ。中で泣いている声が聞こえた。でも、扉は開けなかった」
「……」
「わたくしがあの子のもとへ駆けつければ、きっと宮廷はこう言うわ。『王妃は噂を恐れている。ならば噂は本当なのだ』と。だからわたくしは、扉を開けることができなかった」
アマーリエ様の声は平坦だった。十二年前の話を、昨日の天気の話のように語られる。
「あの子の部屋に入っていったのは、クロード殿下だったわ。わたくしは、それを扉の陰で見ていたの。……あの方に、母親の役を取られてしまった」
(ああ……)
あの夜、泣いていた六つの殿下は、扉の向こうに母君が立っていたことを知らない。今も、知らない。
「陛下。そのお話を、殿下には」
「言わないで」
アマーリエ様は短く仰った。
「言えば、わたくしが十二年黙っていた意味がなくなるもの。あの子は、母に疑われていたかもしれないと思いながら、それでも王太子として立ってきた。それはもう、あの子のものよ。今さらわたくしが取り上げていいものではないわ」
わたくしは、茶器に目を落とした。
四阿で男爵夫妻を見送ったあの日、殿下はご自分に問うておいでだった。父上と母上に、似ているだろうかと。
(殿下。似ていらっしゃいますわ)
言わずに守る。守ったことすら、相手に背負わせない。婚約破棄の夜、殿下がわたくしを学園の慣例の中に押し込めて守ろうとなさったのと、同じ形の守り方だ。殿下は確かに、この方に育てられたのだ。
それをお伝えできる日はきっと、ずっとずっと未来だろう。
陛下はふっと表情を緩め、話題を変えられた。
「そういえば、図書館に新しい女官が入ったでしょう。あなたが推薦した、ゾンマーフェルト男爵の娘」
「……はい」
わたくしは、指先が動きそうになるのを止めた。
「あの娘が整えた書架、わたくし好きなのよ。目録を引くと、手を伸ばしたところに、ちょうど欲しい本があるの。誰かに教わったわけでもないでしょうに、わたくしの手の届く高さを知っているみたい」
陛下の琥珀色の瞳が、わずかに和らいだ。冬の湖面に、薄く陽が差したような色。
その色の中心はやはり、ミア嬢の瞳と寸分違わなかった。
「……はい。とても優秀な方ですわ」
わたくしは、それだけを答えた。
墓場まで持っていくと決めた秘密の重さを、このとき初めて、本当の意味で知った気がした。
◇
控えの間の扉が、叩かれることもなく開いた。
「アマーリエ、ここにいたか」
国王フリードリヒ陛下だった。供も連れず、いつもの飄々としたお顔で入ってこられると、慌てて立ち上がろうとしたわたくしを手で制し、卓の上の焼き菓子を一つ摘まれた。
「甘すぎるな」
「陛下のために焼かせたものではございません」
「そうか」
王妃陛下のつれないお返事にも、国王陛下は気にした風もなく菓子を齧っておられる。それから、ふとわたくしに目を向けられた。
「リンデンタールの娘」
「はい、陛下」
「先代がよく言っておった。王の子とは、王が我が子と呼んだ者のことだ、とな」
「……」
「血筋だの家格だのと騒ぐ連中への、皮肉のつもりだったらしい。私も若い頃は、ずいぶん乱暴な理屈だと思ったものだ」
陛下は二つ目の菓子に手を伸ばしかけて、やめられた。
「近頃は、悪くない理屈だと思っている」
それだけ仰ると、陛下は王妃陛下の膝掛けの端を直し、来たときと同じように飄々と出て行かれた。
わたくしは、閉じた扉をしばらく見つめていた。
今のは、ただの先代の思い出話だったのか。それとも――。
(……読めない方)
頭の中の帳面を捲っても、どの頁にも書き込めなかった。十年王宮に通ってなお、盤面の端に座るこの方の手筋が、わたくしにはまだ見えない。
王妃陛下が、茶器の向こうで小さく笑われた。
「あの人、ああ見えて、あの子が十歳になるまで寝顔を見に行くのを欠かしたことがなかったのよ。実は、今でも時おり。……これも秘密よ」
◇
半年ほどののち、王立図書館の一室で、わたくしは久しぶりにミア嬢と殿下、三人で顔を合わせた。
ミア嬢は、書架の間に山と積まれた古い目録を前に、両袖を括り上げていた。指先はインクで黒く汚れている。
「エレナ様、ご覧になってください。三十年分の索引が、めちゃくちゃなんです。楽しくて、楽しくて」
「……それ、楽しいことなのかしら?」
「もちろんです!」
ミア嬢の胸元に、もうあの古びた守り袋はない。代わりに書架の鍵と政務女官の印章が、細い鎖で下がっていた。
書物の山の隙間から、殿下が細い眉を持ち上げた。手元の走り書きを、こちらへ回す。来年度の穀物備蓄と、貴族院の保守派の重鎮三方への根回しの案。わたくしは目を落として二行だけ読んで、口の端を上げた。
「殿下」
「なんだ」
「その案、不合格ですわ」
「……またそれか」
「ええ」
わたくしは、殿下を見上げた。
「一生、そう申し上げますわ」
殿下が笑う。ミア嬢も、書架の陰で声を殺して笑っていた。
ふと、窓の外を見た。夕陽が王宮の白い塔を、赤くも金色にも見える色に染めていた。血筋、家格、生まれ。そんなもので決まる椅子に、わたくしたちは座っていない。
わたくしたちは自分で選んで、ここに座っている。
◇
翌春、王都の大聖堂。
わたくしは白いドレスの肩に、あの夜と同じショールを羽織っていた。リンデンタール侯爵領随一の織り手による、この世に二枚とない薄絹。母が衣裳部屋の奥からこれを出してきたとき、ドレスはもう、このショールに合わせて仕立てられていた。母はやはり、何も言わなかった。
祭壇の前で、殿下と並んで立つ。
大司教の祝詞が、高い天井に長く響いていた。参列者の視線が背中に集まっているのが、振り向かずとも分かる。
その時、隣で殿下の指先が、かすかに動いた。
身体の前で、指先を組もうとする動き。緊張すると、この方の指は震える。それを隠すための癖だ。
婚約破棄の夜、わたくしはその震えを、広間の向こうから見ていた。
今は、隣にいる。
わたくしはショールの陰で、殿下の指先にそっと自分の手を重ねた。
殿下は前を向いたまま、ほんの少しだけ息を吐かれた。重ねた手の下で、指先の動きが静かに止まった。
(審査は、まだ続いておりますのよ。殿下)
祭壇の奥の窓から、春の光が差し込んでいた。東の花壇の菫も、そろそろ咲く頃だろう。
◇
――レオンハルト一世は生涯において、一度も動揺を公の場で晒さなかったと伝えられる。
謁見した他国の使節は、こぞって記している。
その表情も視線も、指先の一つに至るまで、優雅でありながら力強かった、と。
――『エーデルガルト王国年代記』第七巻より
前作は「王位継承など全く想定していなかったけれど、血統に従い女王となった主人公」を書きましたが、その逆はどんな展開になるだろう? と思って書いたのがこの作品です。
また、これまでの話は各話が長すぎて読みにくいかもしれない、という反省から短く分割することを心がけてみました。お付き合いいただき、ありがとうございました。




