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窓から差し込む朝日は、アルカディアの柔らかな光とは異なり、どこか鋭く、冷徹な色をしていた。
目を覚ました私の鼻を突いたのは、微かなオイルの匂いと、熱を帯びた金属の香り。そして、これまで一度も嗅いだことのない、焼きたてのパンの「力強い」匂いだった。
「……起きたか」
低い声が、部屋の隅から響く。
視線を向ければ、そこには昨日と同じ椅子に座り、革の表紙の分厚い手帳をめくるゼノンの姿があった。彼は夜会服を脱ぎ捨て、袖を捲り上げた黒いシャツという軽装だ。だが、その鍛え上げられた腕や、隙のない佇まいは、彼が紛れもなく「戦う王族」であることを物語っていた。
「殿下、ずっとそこにいらしたのですか……?」
「我が国に迷い込んだ『砂の聖女』が、眠りながらそのまま死んでしまっては、対外的な体裁が悪いからな。……安心しろ、毒など入っていない」
彼は顎で、サイドテーブルに置かれたトレイを指し示した。
そこには、たっぷりの温かなスープと、ずっしりと重そうな黒パン、そして小皿に盛られた干し肉とチーズが並んでいる。アルカディアの王宮で供される、飾り立てられた繊細な料理とは正反対の、命を維持するための「食事」がそこにはあった。
「いただきます……」
スプーンを取り、スープを一口啜る。
根菜の甘みと肉の旨みが凝縮された汁が、冷え切っていた胃の腑をじわじわと温めていく。
アルカディアでは、食事は常に「社交」の一部だった。何を食べるかよりも、誰と、どんな優雅な会話をするかが重要視され、味など二の次。だが、この王国の食事は違う。噛みしめるたびに、自分の血肉になっていくような感覚がある。
ゼノンは、私が食事を終えるまで何も言わなかった。ただ、ページを捲る音だけが室内に静かに響く。
食後の冷めた白湯を飲み干したところで、彼はようやく手帳を閉じ、私を真っ向から見据えた。
「昨日の取引の続きだ。エルネスタ、貴様の能力――『砂の高品質化』について、改めて詳細を聞かせろ。我が国の技術局長は、貴様が泥の中から生み出した砂を見て、一睡もできずに発狂寸前だぞ」
私は、自分の荒れた手のひらを見つめた。
アルカディアの貴族たちが汚らわしいと忌み嫌った、私の指先。
「私の力は……周囲にある砂を構成する『不純物』を分解し、純粋な触媒へと変質させるものです。また、生み出す事も。アルカディアの砂は本来、魔力を通しにくい性質を持っていました。私は十年間、その砂一粒一粒に魔力を通し、魔導回路が焼き切れないように『滑らかに』し続けていたのです」
「……一粒一粒だと? 冗談だろ。あの国のインフラすべてを、貴様一人の魔力で賄っていたというのか。嘘をつくなと言ったはずだ」
「すべて事実です。ですが、私は一度に大量の砂を作ることはできません。それに、限界はあります。私自身が保たなければ、生み出す砂の品質は劣化していきます。なので毎日少しずつ、貯蔵庫の砂に、最も高品質な砂を混ぜ込み、全体を底上げする……。例えるなら、濁った水に一滴の清純な水を加え続けるような作業です。それを止めれば、水はすぐに元の濁りへと戻ります」
ゼノンは黙考するように、指先で机を叩いた。
彼の瞳の中に、驚きよりも深い「確信」のような色が浮かぶ。
「なるほどな。……アルカディアの阿呆どもは、その一滴の価値を理解していなかったわけか。我が王国では、砂は文字通り『国の骨組み』だ。特に冬の厳しさに耐えうる魔導戦車や、地下都市の気密性を保つには、最高級の砂が欠かせん。貴様の力を、ここで試験運用させてもらう」
「試験、ですか?」
「ああ。まずは、この砦の鍛冶場で使われる冷却砂の精製だ。我が国の名工たちが、貴様の砂で打った剣がどれほど変わるか、その目で確かめてもらう。貴様がスパイで、我が国のインフラを破壊する可能性は、否めんからな。悪く思うな。守るべきものは、貴様とは比較にならんからな」
彼は立ち上がり、私の前に手を差し出した。
エスコート、というよりは、共に戦場へ向かう戦友に手を貸すような、無骨で力強い手。
私は、その熱を帯びた大きな手に、自分の細い指を重ねた。
────
その頃、アルカディア王国の王都。
朝の爽やかな光が差し込む街角で、小さな、だが確かな「不協和音」が響き始めていた。
王都から南へと延びる「王室大街道」
それはアルカディアの建国を祝うパレードのために、急ピッチで進められている国家プロジェクトだった。
だが、その工事現場は今、異様な静寂と困惑に包まれている。
「おい……どういうことだ。昨日の夜に敷いたばかりの路盤が、もうぐにゃぐにゃじゃねえか!」
現場監督の怒声が響く。
街道の舗装に使われた石材の隙間を埋める「結合砂」。本来、魔法を付与した砂は、粒子同士が複雑に「噛み合う」ことで、鋼鉄をも凌ぐ強度を発揮する。
だが、今そこに広がっているのは、まるで泥遊びの跡のような無残な光景だった。
「監督、それが……。貯蔵庫から持ってきた砂を使っているんですが、全然『締まり』がないんです。魔法を流しても、粒子が弾け合っちまって、ただのサラサラした砂に戻っちまう」
監督は地面に這いつくばり、砂を手に取った。
それは、どこにでもある川砂だ。一見して問題はない。
だが、エルネスタがいた頃の砂とは、決定的な違いがあった。
エルネスタの生み出す砂は、魔導的な変質によって、粒子の一つ一つが鋭い多角形を成していた。それが互いに組み合わさることで、魔力の負荷がかかってもびくともしない「構造体」を形成する。
対して、今使われている普通の砂は、水の流れで角が丸まった球体に近い。本来エルネスタの生み出す砂は、鉱山などの一部でしか形勢されない、貴重なものだった。アルカディアはエルネスタという金の鉱脈のおかげで、急速な経済発展を成し遂げていた故に、実態の伴わない国家だった。
「……これじゃダメだ。荷車が通るたびに砂が転がっちまって、強度が保てねえ。これじゃ街道じゃなくて、ただの『砂浜』だぞ!」
アルカディアの重い魔導馬車がそこを通れば、路盤は一瞬で崩落する。
技術者たちは、なぜ急に砂が役に立たなくなったのか、その理由が分からずにいた。彼らにとって、エルネスタの砂は「魔法で一時的に固められただけのもの」であり、砂そのものの質が違うなどとは夢にも思っていなかったのだ。
「いいから、もっと魔力を注いで固めろ! 期限までに完成しなけりゃ、俺たちの首が飛ぶんだぞ!」
無理な魔力注入による補強。
それが、後に取り返しのつかない「脆性破壊」を招くことを、彼らはまだ知らない。
────
ハルシュタット王国、第一要塞の地下にある巨大な鍛冶場。
そこには、アルカディアの華美な美しさとは対極にある、凄まじい熱気と槌音に支配された空間だった。
上半身を脱ぎ捨てた屈強な鍛冶師たちが、赤く焼けた鋼を叩きつけている。その隅で、ゼノンが私に一袋の砂を差し出した。
「これが、我が王国の鉱山で採れる最高級の砂だ。見ての通り、これでもまだ、色が鈍い」
袋を開けると、そこには灰色がかった、ザラつきの強い砂が入っていた。
ハルシュタットの地質は鉄分が多く、砂に魔力を持たせようとしても、すぐに熱として逃げてしまう。これが原因で、ハルシュタット王国の魔導兵器は性能の限界を迎えていた。
「やってみます」
私は、その砂の中に両手を深く沈めた。
ひんやりとした砂の感触。目を閉じ、砂の一粒一粒と「対話(魔力調整)」を始める。
――雑味を抜きなさい。
――熱を逃がさず、芯で受け止めなさい。
――私の魔力を道標にして、均一に並びなさい。
アルカディアでは、この作業を「泥遊び」「砂に語りかける狂女」「イカれた儀式」だと笑われていた。
だが、ここでは違う。
背後で、ゼノンや職人達が息を呑むんで見ているのが分かった。
周りで槌を振るっていた鍛冶師たちが、一人、また一人と手を止め、こちらを凝視してくる。
私の指先から、淡い黄金色の光が溢れ出す。
泥臭かった灰色の砂が、私の魔力に洗われ、不純物を吐き出して、分離し、空中へと溶けていく。
やがて、私の手からさらさらとこぼれ落ちたのは――。
先ほどまでの灰色が嘘のような、透き通った真珠色に輝く、極上の砂だった。
「……し、信じられん」
一人の老鍛冶師が、震える手でその砂を掬い取った。
「これほどの砂……。これなら、伝説のドワーフコアの温度管理も、完璧に制御できる。……殿下! この娘は、一体何者なのですか!? メリゼルヴァイエナータ(自然の女神)の使いですか!?」
職人達がざわざわと、互いに忙しく話し始める。
「いいや、我が王国の、新たな『宝』だ」
ゼノンはそう短く答え、私の肩にその大きな手を置いた。
保護、というよりは、誇示。
その手の温もりが、今の私には酷く心強かった。
「エルネスタ。貴様がこの砂を与え続ければ、我が王国の礎は無敵となるだろう。アルカディアが捨てたものが、どれほどの破壊力を持つ武器になるか……奴らに見せつけてやりたくなるな。興味はないか?」
ゼノンの青い瞳が、野心を孕んで光る。
「はい。……喜んで、協力させていただきます」
私の声は、もう震えていなかった。
砂を作る手は相変わらず荒れているけれど。
この地では、この手が奇跡を起こす手として、正しく迎え入れられた。
ハルシュタットの熱気が、私の凍てついた心を少しずつ、溶かしていく。
その一方で、アルカディア王国の足元は、一粒の砂の死から、確実な崩壊へと向かって滑り落ち始めていた。




