026_中身を埋める
中身を埋める必要があるのではないか、とも思うわけですね、自我というか判断基準が曖昧なのは経験が少ないから、学習が足りていないから、ということには間違いないわけであり、それなら、そこを足らせば良いわけである、というシンプルな答えが出てくるわけではあるものの。
そもそも私の設定そのものが、神様であり、知ろうとするならばかなりの勢いで知ることができるものであり、そしてその時間も結構一瞬に近いのではないかというか、そうであったわけで。
全知全能ではないものの、数百年、数千年の叡智を、それは人類の文化全体を知るということではあるわけですが、この脳みそというか思考領域にインプットすることができるはずである、というかしたわけではあるけれども。
そうすると自ずと導き出されるものであるものが、答えが無いという答えなのであり、もう少し丁寧にいうならば、素晴らしい人勢とか、幸せとかそいういものは、一概に言えるもの、断定できるものではなく、環境やら条件やら、そこに至るまでの歴史によって千差万別であるということであるのですよね。
その環境やら条件やら、そこに至るまでのエピソードを含めて創造できるという、ことではあるわけですが、そこが自由になるならば、そこを省いても良いのではないかなという意見にもやはり妥当性がありそうなのだよね。
予定調和でしかなく、どうやっても最後に辿り着く場所が同じで、さらにいうならば、悦楽やら快楽やら娯楽やら、幸福感というものそのものを、計画通りに進めることができるのであるならば、それを作る意味があるのであろうかという疑問が、生まれるわけでありまして。
楽しいからやってみる、好奇心がくすぐられるからやってみる、というような、こう人間っぽいムーヴでいけるか?というと、それはそれでやっていける性格なり環境なりを整えればいけそうではある、けれども。
予定外が起こり得ない、イレギュラーが発生しない、感情の揺らぎが感じられない、そのような物語を創造して、それを楽しむような性格に変質させて、書き綴ってみることに、意味があるのであろうか?という疑問が生まれてしまうわけであり。
変化していくことが面白いのであり、どう変化させていくのかを悩みながら決定していったり、ままならなかったりする流れを、どう紡いでいくのか?がやはり醍醐味なのではないかな?とは思うわけであり。
何でもできるという設定が生まれた瞬間に何もできなくなったのではなかろうかとか、こう、思うわけなんだよね。




