☆ Side イービス 2
「手を出しなさい」
「そ、それだけは……っ!!」
「早くおし!! 言われたこともできないの!? これだから平民は!! パーティーで男に色目を使っていただなんて! ヘブライスちゃんがかわいそうでしょ!?」
自分は、少なくとも戸籍上は貴族になったはずだ。だって、キース伯爵のヘブライスと結婚したのだもの。だから平民じゃない!!
けれど冷徹な目でキース伯爵老夫人――義母ににらまれれば、そんな言葉が出ようはずもなく、震えながら手を差し出した。
ビシッ! ビシッ!!
何度となく馬用のムチがイービスの手の甲を打つ。そのたびに手だけではなく、全身に雷に打たれたかのような衝撃が走る。
「まったく! うちの家名をどれだけ傷つけたら気が済むのかしら!?」
キース伯爵老婦人が腹を立てているのは、先日のパーティーでの出来事を耳にしたからだ。
伯爵夫人として初めて連れて行かれたパーティーで、イービスは興奮した。これこそが、自分のあるべき世界なのだと。
連れにはヘブライアスがいるのに、様々な男に声をかけられた。ヘブライアスよりも金回りがよさそうな男。精悍な役者。美を讃える芸術家。イービスはそれらの男の心をくすぐりつつ、自分の魅力に酔いしれた。ヘブライアスも自分の妻に多くの男が関心を抱くのを不快に思うどころか、大いに鼻高々だったようにイービスは感じられた。
風向きが変わったのは、キース伯爵老夫人と同じ年頃の女たちに囲まれてからだ。
彼女らは、イービスの無知を笑った。
彼女らは、イービスのだらしなさを笑った。
彼女らは、イービスの出自を笑った。
行くときはここが自分の生きていく世界だと思ったパーティなのに、逃げ出すように帰ってきたのだ。
そしてあの老害どもは、パーティーでイービスをこき下ろすだけではまだ足らず、キース伯爵老夫人の耳にもイービスの悪口を届けたようだ。
(チクショウ! 元から平民だと分かっていながら嫁に迎えたくせに!)
イービスは元々、勉強は嫌いだった。努力も嫌いだった。
そんなものをしなくても、今までは美人だから問題ないと思っていた。自分くらいの美人ならば、勉強も努力もしなくても、みんなが喜んで道を開けると思っていた。
なのに、あんなに馬鹿にされ、ムチ打たれて。
(チクショウ! チクショウ! チクショウ! みんな死んじまえばいいのに)
結婚してからのイービスは、ヘブライスに振り回されっぱなしだ。
いきなり夜中に酔っ払いが大勢押しかけたかと思うと、その酔っぱらいの中心でヘブライスがイービスに「友達を集めたから酌をしろ」と命じる。高貴な伯爵夫人であるはずなのに、場末の酒場で働く女のように酔っ払いに尻をなで回され、その酔っ払いを瓶で殴ってやったら、気絶するまでヘブライスに平手打ちされた。
そんなひどい夜にも、夜の営みを断るなとイービスにのしかかる。
朝早くから夜遅くまで行われる伯爵夫人教育では、キース伯爵老婦人がキーキーとわめき散らすのをおとなしく聞かなくてはいけないし、寝不足のせいで頭が回らないのだと言えば、息子たんのせいにするのかとさらにムチ打たれ、食事まで抜かれる。
(こんなの、思っていた生活と全然違うじゃない!!)
手の甲は醜く腫れ上がり、皮がずるむけている。むき出しになった肉は血まみれになっており、イービスは浅く荒い呼吸を繰り返すのみだ。
「母上。その辺にしてよ」
たるんだ腹を揺らしながら、鶏の足の丸焼きを片手にヘブライスが部屋に入ってきた。
「まあまあ! ヘブライスちゃん!」
老婦人の声は、まるでお気に入りの俳優と話しているかのようにトーンが上がる。
「これからパーティーに行くのに、パートナーなしじゃみっともないだろう?」
「そんなこと言ったって……。ヘブライスちゃんの隣に立つのが無教養な平民女だなんて、みっともないわ。せめて貞淑だけでも身につけさせてあげなくちゃ」
「母上は優しいんだな」
「ヘブライスちゃん……」
二人は恋人のように見つめ合う。イービスにとっては、まったく胸くそ悪い光景だ。
「私、気分が悪いので、パーティーには行けそうにもありま……ゴフッ」
ドンッと腹に衝撃がきた。ヘブライスがイービスを殴ったのだ。
「俺にパートナーなしで行けって言うのか!?」
(ちっ! 今までヘブライスはいつも一人でパーティーに行っていたんだったわ。一人で行くパーティーに行くほど屈辱的な事はないって言っていたのを忘れていたわ)
イービスはよろよろと立ち上がりながら、へつらうような笑みを頬に浮かべた。
「ち、違うのよ。わ、私……こんな手で……パーティーに行ったら、何か失敗しそうで……。ヘ、ヘブライスの名誉を傷つけちゃうんじゃないかって……ただそれだけが心配で……」
「ああ。そうか」
ヘブライスはポンと手を打って、笑みを浮かべた。そして回復ポーションの瓶をイービスの手の上に傾ける。
魔塔が作る回復ポーションは高価だが効果は確かで、イービスの裂けた肉はみるみる塞がり、腫れも引いた。それどころか、昔作った傷跡さえ残さず、まさに苦労知らずの貴婦人の美しい手になる。
イービスは、自分の手をうっとりと見つめた。痛い思いはしたけれど、ここまで手が美しくなるならば、悪くない。
「母上。もう見える場所にムチを打つのはやめてよ。ポーションの無駄使いになるから」
「ええ、ええ、ごめんなさいね。これからは、太腿とか人目につかない場所にするわ。それに、そういうところに傷を付ければ、よその男に見せる気にならないからちょうどいいでしょ?」
「さすが母上。頭いいね!」
「まあ、まあ。おだてても何も出ないわよ」
母と息子の睦言のような語らいにイービスはヘドが出そうになる。
(冗談じゃないわ! 私のきれいな太腿をムチ打って傷を付けるつもりなの!? そんなことになれば、こんな男を見切って、この前のパーティーで口説いてきた侯爵家の親戚って男にステップアップできなくなるじゃないの!)
すでにイービスの頭の中では、次の男に乗り換える準備をしていた。けれどそれに必要不可欠なのは、イービスが美しくあり続けることだ。
そう思えば、これからパーティーに出るのも悪くない。少なくとも美しく着飾ることができるからだ。
「私、パーティーの身支度を整えてまいりますわ」
そう言ってその場をイービスが去ったことを、果たしてキース伯爵もキース伯爵老婦人も気付いたのか。けれど気付いたとしても、二人ともイービスの方にチラリとも目を向けなかった。
イービスは着替えてヘブライスを玄関先で待っていたが、同じように着飾ったキース伯爵老婦人と腕を組んで階段を降りてきた。
「え? お、お義母様も一緒にパーティーに行かれるのですか!?」
「ええ、もちろんよ。あなたが貞淑な妻でいられるように見張らないといけませんからね」
「母上に感謝するんだぞ」
義母と一緒にでかけるだなんてぞっとする。けれどそんな気持ちを押し込めて、にっこりと笑った。
「ええ。ありがとうございます」
結局、パーティー会場には夫と義母が二人で腕を組んで扉をくぐっていった。これではキース伯爵のパートナーはキース伯爵老夫人だ。白けた気持ちで続いて扉をくぐろうとした瞬間に、勝ち誇った顔で振り返るキース伯爵老夫人の唇に気がついた。
『イ・ン・バ・イ』
イービスは、持っていた扇をギュッと握りしめた。
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