第十番歌:声は聞いても違ふ人の顔(三)
三
「……私は、安達太良まゆみに引き寄せられ、その身に憑かされた」
現にいてはならぬ者が、「特別な力」を宿された女の唇を借りて語る。
「…………私が現に降りた事により、生じたひずみが、安達太良まゆみに近しい生徒等へ及んだ」
「ふみちゃん……いえ、大和さん達ですね」
確かめる夕陽に、まゆみ先生に降りた者はぎこちなく首肯した。
「……私の咎が裁かれねば、安達太良まゆみの身を離れられぬ。生徒等の異変が解けぬ。本居殿、安達太良まゆみと生徒等を知る汝に、裁かれたし。『本朝桜蔭比事』に選ばれた汝ならば、この『引き』を断てる」
夕陽は、黒縁メガネを上げ下げした。父に貸された本を、なぜ知っているのか。おそらく、憑依させられて、担任の見聞きした物事を共有したのだろう。霊魂が絡めば、理屈は糠に釘というものだ。
「…………私は、妻と子だに憚った。精神を病んだ原因を、明かさなかったのだ。重荷を背負わせたくなかった。終には、私は黄泉へ先立った……」
真淵先生の糸のような目が、小刻みに震える。夕陽に代わり、罪状をまとめた。
「家族に遠慮をして、生涯を閉じた……あなたの仰る『咎』ですか」
「……むべなり」
「あなたがどういうお方か、予想がつきましたよ」
クスクス、と声を立て、真淵先生は歌劇調に物申した。
「判事は、彼女に務めさせましょう。裁きは公正に、平等に。この世を出直したあなたの悔いと憂いを、除いてさしあげます」
胸に手を当て、もう片方の手は平らにして夕陽を指す。主役に抜擢されたのだから、躍り出て決め台詞ひとつすれば一興だというものの、
「うちにできるでしょうか。亡くなられている人を裁いた例は、ないのですが…………」
やすらひて、スポットライトの内へ踏み込めずにいた。
「夕陽さん、あなたが、日本文学課外研究部隊の皆さんを救うのです。微かですが、僕がお力添えをいたしますから」
「皆を……」
まだ逃げるのか。お慕いする先生にここまで言わせておいて、断るのか。ヒロインのあり方や女心より第一に、本居夕陽は仲間を見捨てるのか。考えなくとも、結論はあった。
「任せてください。うち、頑張ります」
夕陽は、ひとまず二〇三教室へ帰った。待機を頼むためであったが、ふみか達に心配をかけたので謝りたかったのだ。まゆみ先生の身柄は、真淵先生が附属空満図書館へ送った。そこの司書でもある彼は、融通を利かせられる。また、まゆみ先生に乗り移らされた咎人が久々に書物にふれたいと所望したからだった。
「えらいお待たせして、ごめんなさいぃ!」
入室してすぐに、夕陽は頭を下げた。しかし、返事は無く、ため息の四重奏が吹かれた。
「怒るんは当たり前やんねぇ……堪忍してください!」
四人はしおれた葉のような首をだらんと左右に振って、非難しないの意思表示をした。
「意気消沈っ、やる気出ねえ」
華火の人格と替わったふみかが、長机に突っ伏していた。赤いヒロイン服をとりあえず着たが、はなびグリーンに変身したわけではなくて、戦意がわかないようだ。
「色が、違う……です」
唯音の人格と替わった華火が、地べたに三角座りをしてつぶやく。活発に戦える緑のヒロイン服が、効率の良さを追求するいおんブルーに沿わないらしい。
「あひゃー、フリル分ガ欠乏シてマス。アがラナいデス」
萌子の人格が入った唯音は、ロッカーに寄りかかっていた。装飾が少ない青いヒロイン服は、もえこピンクの個性に風穴を穿っているみたいだった。
「ちょっ、無理。しかたなく着たけれど、外出たくない」
ふみかの人格が入った萌子が、パイプ椅子に潜って縮こまっていた。大好きな絶対天使に近づけたこだわりの桃色のヒロイン服は、ふみかの信条とする「地味」を大幅にコースアウトしたそうだ。
「好みのんやなかったら、気合いかて入らへんやんなぁ」
夕陽は、ピアノ教室のコンサート、講義の研究発表の際、一張羅で自己を奮い立たせてきた。露出が多くてタイトな服で臨まざるをえない日が来れば、万全の態勢でも失敗しまうだろう。
「……?」
黄色のヒロイン服に「変身」していると、ある物らが目に入った。四人の脱いだ普段着だった。
ふみかの赤いパーカーが、椅子の背もたれに引っかけられていた。そこにカーゴパンツとトップスがまとめて重なっていた。
机に唯音のブレザー、カッターシャツ・ショートパンツが、お店に並んでも文句はつけられないほどきれいにたたまれていた。
華火のセーラー服とジャージの上着は、ホワイトボードの裏にハンガーにかかっていた。
萌子の手抜き服は、机に一枚ずつ等間隔に置いてあった。
「なんでやろう?」
それぞれの服に対する扱いは、いつも通りだった。皆、勘所がつかめなくて、変身を手伝ってあげたのだろうか。入れ替わっていても、お着替えはひとりで充分なのでは?
「……調べてみいへんとね」
胸元の黒い細紐を締め、髪の黄色いリボンを結んで、夕陽はゆうひイエローに変身を完了した。
顧問が引きし黄泉人の咎を裁き、友垣の心の置き場所を正せ。
「いざ、戦闘開始や」
垂れがちの眼を叱咤し、ゆうひイエロー、勇壮に出陣!
希臘の神殿に似せた知識の砦―附属空満図書館。その扉とキャンパスをつなぐ石階段のわきで真淵先生が、ヒロインの足音がだんだん大きくなってゆくのを聞いていた。
「見極めさせていただきますよ……」
夕陽の人柄と才覚を崇めている(と彼は公言してきた)の一本で、協力を申し出たのではない。「例の案件」の偵察も兼ねていたのだ。
日本文学国語学科教員の「裏側の」務め、学内の「呪い」による騒ぎを収め、「呪い」の行使者を捕らえる事。「呪い」とは、奇跡を実現させる術。標野になった運動場、A・B号棟前広場に泳ぐ鯨、第二体育館の人喰い林檎、時を凍らせた灯籠の月、暴風雨を杯にする猿、童にさせる折り紙を配る雪洞…………先月より発生した、白い雲と不思議の数々。これらを倒した者は、なんと夕陽が属する「日本文学課外研究部隊」であった。
偶然(を装ったかどうかは、彼のみぞ知る)夕陽に会えば、「呪い」の気配が耳をこそばゆくさせるではないか。共闘をしつつ、行使者を探すねらいだ。
「真淵先生、本日はよろしくお願いいたします」
日本文学課外研究部隊の夕陽……ゆうひイエローだったか、が深々とおじぎをした。厳しくしつけられたのだとうかがえる。真淵先生は、胸元のブローチに軽く触れた。蒼天のような青さの丸い石がはまり、下部に古風で落ち着いた色のリボンがついた婦人用だ。夕陽と接していると、どうしても指が求める。かつての持ち主と重ねてしまうから。
「先生?」
栗色のうねった髪と、黄のリボンが揺れた。真淵先生は、いかん、と我に返る。
「ご無礼を。さて、いかがいたします?」
「聞き取りをしたいです」
目的を言い当ててやれたが、真淵先生は控えた。出過ぎた真似は、してはならない。
「先に『ひずみ』を解けるかもしれません。二限の後、大和さん達に会った人に状況を教えてもらえたら、て」
まゆみ先生は、昼休みに倒れたと考えられる。直後に「特別な力」が暴れたのだろう。木曜の二限、ふみかは「中世文学研究D」を、萌子は真淵先生担当の「国語学基礎演習B」を受講した。唯音は、水曜日から金曜日までは、化学科の実験科目で助手に入っていると夕陽は聞いたことがある。華火は、任意の進学対策講習が午後にあると話していたが、木曜は出席していないはずだ。国公立の一次共通試験は受けない、そう記憶している。
「同じ講義を取っている人がえぇかな……ふみちゃんと一緒なんは、るりちゃんとたまちゃんやったわ。萌ちゃんは」
ひとり口に出して考えるヒロインに、教員は微笑ましくなった。
「与謝野さんなら、この頃、島崎くんと親しくされていますよ。別の講義ですが、教室が隣り合っていましてね。担任の僕としましては、悩みの種が減り幸いです」
定員四〇名きっかりの真淵学級は、約五〇名の大所帯を抱えるまゆみ学級に比べて仕事量が少ないようにみえる。だが蓋を開ければ、逆転しているのである。ひと癖ふた癖ある学生の世話に、苦労させられていた。
「演劇部の人ですよね。前に課外活動でお会いしました。せやったら、唯音先輩は額田先輩に、華ちゃんはクラスメイトの尼ヶ辻さんに、やね」
手をやわらかに叩いて、ゆうひイエローは戦法を固めた。
「始めに、秋津館へ参りましょう。作法和装部です!」
「仰せのままに」
空満図書館を背に、坂を下ってゆくと秋津館に至る。一階は学生食堂、二階は文化部の部室群、三階は体育部の部室群、四階は学科団と学生自治会の本部といった、学生生活を充実させる建物だ。
「オープンキャンパスと、OB・OG・旧職員会で訪れるぐらいですねえ」
「真淵先生は、日本文学国語学科の卒業生でしたよね。安達太良先生も…………そや、取り憑いた人は、どないされていますか?」
「常設展示をご覧になっていますよ。お子様が学ばれた跡を、たどりたいのだそうですね。念のため、監視は置きましたが」
図書館を満喫してくれている。司書を志すゆうひイエローにとって、嬉しいことだった。お子さんは現役生なのだろうか、それとも、とうに巣立っているのだろうか。近くにいれば、対面させてあげたいのに。
「あなたのお慈悲は、黄泉をも越えますか」
「ふええ、そんなぁ、あ、作法和装部はこちらです、入りますよぉ!」
頬の紅潮を隠すようにして、先んじて部室に乗りこむゆうひイエローであった。
◇文学部日本文学国語学科二回生・作法和装部 和泉たまおの証言
おつかれ、あれ? 夕陽と、真淵先生。お熱いね。今? 空いているよ。ここに寄っているのがよく分かったね、さすが。
ふみかに変わったところがなかったか、ね……。食堂誘ってみたんだけど、二〇三行くから、てふられちゃった。でも、研究棟までは道いっしょでしょう。来週、司書課程の発表、レファレンスのテーマかぶっているね、ふみかは資料何を使ったかなて訊いていたの。はじめは、普通に答えてくれていたんだけど、横断歩道渡ったぐらいに、機嫌悪くなったかんじでね「自力でやれよばかやろうっ」て叱られたな。ふみか、めったに声を荒らげないし、温厚な子なのに、ぽかーんだったね。
で、いきなり髪を結びだして。私、手直ししたかったよ。輪ゴムはないでしょう、髪が傷んじゃう。もっとかわいくしなきゃ。ふみかてワイルドよね。去年の体力測定覚えている? そう! 前髪のびてうっとうしいからて、輪ゴムでまとめたの。夕陽がヘアピン持っていたおかげで止められたけど。輪ゴム常備しているよね、パーカーやペンケースに絶対あるじゃない? 美意識アップさせたい!
私からは、以上です。そうだ、るりこが後でふみかと会っているんじゃないかな。講義終わったら演習室にダッシュしていたもの。演劇部に顔を出してみたら? 三限は入り浸っているみたいよ。
作法和装部の二部屋置いて隣に、演劇部はあった。出入り口を横滑りさせると、黒いカーテンに通せんぼうされた。「ふぉへんよー」と不明瞭な声が飛んで、のれんよろしくめくってくれた。曽我さんは、出前のピザを詰めて、リスの頬袋のように膨らんでいた。部員と遅めのご飯だったという。
◇文学部日本文学国語学科二回生・演劇部 曽我るりこの証言
焦ったー。あんまり訪ねてこなくってさ。おつかれー。なぬ、モトちゃん、真淵先生とデート? わーやめて、冗談! 揺さぶられたらピザ戻すでしょーが。
うん、演習室にいたよー。ふみかっち? あー、電話で廊下出たら、本読みながら歩いてたよ。逆さまだったのが気になった。なんかしゃべっていたんだけどさ、標準語でぶっきらぼうな調子は、ふみかっちらしくないよねー。内嶺県の最南端は東陣式アクセントなんだって。こないだ国語学の授業で聞いたんだわ。おー、ふみかっちのおばあちゃん、そこ出身なんだ。ダテにふみかっちの女房役やってないのう、このこのー。
有力な情報だったかーい? 大和夫妻もいいけど、本命と急接近のチャンスだよー! ファイト!!
秋津館を離れ、ゆうひイエローと真淵先生は、次の聞き取りに進んだ。
「収穫はございましたか」
「はい、現時点では」
ヒロインに、従者のごとく教員が付いてゆく。学生と先生の図はいずこ。
「額田先輩は、あおぞらホールにいらっしゃるのでしたよね」
「あのお方に、呼んでいただいたのです」
「あのお方、ですか?」
真淵先生は、咳きこむように笑い、なぞなぞを出した。
「額田さんは茶道部に入られています。茶道部の顧問といいますと?」
ゆうひイエローの瞳が、きらめいた。
「宇治先生ですね! 四回生の担任でもあります」
「お見事です。横のつながりを利用しました。そうでした、夏祭さんのお友達も案内されたそうですよ。少しは気を利かせるではありませんか」
生真面目な宇治女史のくしゃみが、聞こえたような、ひが耳だったような。とかくしている間に、A・B号棟の一階、学生のたまり場・あおぞらホールに到着。
中央の大テーブルで、サーモンピンクのジャケットとデニムスカートの、おでこが広い女子学生が手を振っていた。学科を越えた唯音の親友、額田きみえである。傍らでジュースを飲んでいるセーラー服三人娘もいた。華火のほかの空満高校生と会うのは、初めてのゆうひイエローだった。
◇文学部日本文学国語学科四回生 額田きみえの証言
おつかれ、夕陽ちゃん。うんうん、宇治先生から伺っているよ。今日の昼、唯音におかしなところがあったか、だったよね。私は直接会っていないんだ。でもでも、砂子が何か頼まれたらしくって。あ、砂子は私の同級生ね。安部さん、で分かる? 共同研究室に通っているソバージュの。
唯音、服を至急貸してくれってお願いしたらしいよ。砂子、衣装持ちだからさ。二人は、前からからみがあったよ。二回の時に私が紹介したんだ。それでそれで、義理堅い砂子は、滅多にわがまま言わない唯音の力になりたくて、メロス並みに寮へ走って、渡してあげたわけ。服の詳細か……赤ネクタイ、白カッター、黒のブレザーとショーパンだったと思う。化学科で卒業記念にお芝居でもするのかな。唯音、学祭の劇部門で助演女優賞もらってさ、ハマったのかも。
よどみなく話せていて、泣けたってさ。砂子の方がおかしくなっていたよね。唯音は元からそうなんだけど。だよねだよね? です、ます、の発音がきれいなのも、前々からなんだけどさ。ねえねえ?
「華火ちゃんについては、君達にバトンタッチするよ」
きみえの言葉を受け、三人娘が起立して「よろしくお願いします」と試合さながらに挨拶した。くせっ毛の長身(一七〇センチあるきみえよりずっと高い)の娘が、尼ヶ辻。筋肉でがっちりした十字剃りこみの娘が、前栽。ストレートヘアーの厚ぼったい唇の娘が、平端。みな陸上部だそうだ。
◇空満大学附属空満高等学校全日部三年生 尼ヶ辻とこよ・前栽たくみ・平端ノリカの証言
尼ヶ辻(以下、尼):なっちゃんが言っでだ、メガネの巨乳のお姉さんなんだな~! ハッ、すみませんなんだな!
平端(以下、平):こいつ、シメていっすよ。
前栽(以下、前):先輩、反応に戸惑ってるやろ。なっちゃんの話、しよ。
尼:午前のラストの授業が、早めに終わったんだな。んで、クラスで「卒業生を囲む会」の歌の練習することになったんだよ……なったんです
平:練習の体制が整うまで、おしゃべりタイムなんすよ。あたしは、いつもの、トコ、あーすんません、尼ヶ辻さんと、前栽さんと、夏祭さんとでぺちゃくちゃしてました。
前:その時は、夏祭さんに不自然なところは無かったです。歌っている間も、一生懸命にやっていました。夏祭さんは、誤解されやすいけれど、いつだって熱意あるので。ちゃうなーて感じたのは、トコ、言ったれ。
尼:練習すんで、委員長さんが今後の予定表を配っでたんですだ。パートに分かれでやる、だよね、前栽? んだ。なっちゃんがトコ達の分をもらいにいったんですけど、委員長さん明らかにヤな顔してたんですよ~。
平:あいつ、いいコちゃんぶってるけど、なっちゃんには敵意むき出してやんのよ。演技ヘタクソだっつの。
尼:いじわるでぎないよに、トコついでいっだら、夏祭さんが雷に打たれたようにその場でしびれで動けなくなっだんです。クラスの皆、何だ何だ? って集まっだら、なっちゃん、折ってたスカートを戻しで長ぐしだんですだよ。かんわいいポニーテールをほどいで、首の後ろでふんわり結っでましだ。
前:悟ったような目になってたしな。リアルな「豹変」やったわ。
尼:イメチェンしだ夏祭さん、委員長さんの耳にこそこそ話しでましだ。そしたら、委員長さん一瞬、真っ青になっで。
平:平静装ってたのバレバレっしたよ。あいつ、手震えていたじゃん。胸がすいたわー。先輩、夏祭さんは敵に回さない方がベストです。ガチで。あいつ、なにあんなにビビってたんだろ? 推薦取消の件?
前:推薦消された理由で脅された、かもね。なっちゃん家は空高の偉いさんとパイプあるやろ、たまたま会談を目撃しちゃってネタ拾ったとかかねえ? ファミ公先輩調べやと、喫煙か万引き容疑が濃いってよ。先輩、舎弟ネットワークあるやん。
平:あーね。つか、マジで? ま、外面だけ女子だし、絶対、素行はワルだとにらんでた。
尼:委員長さんはど~でもい~んだなっ! 本居先輩、夏祭さんの敬語はすんげくギャップ萌えなんですよ~! 語尾の「ですっ」が、初々しぐで、キュンキュンするんです!
前:確かに。
平:めちゃカワだった。ああいうキャラもありかもな。
尼:なっちゃんの意外な一面を見せでもらっだんだな~。
セーラー服の襟は、元来、海風で上官の指示が聞き取れなくなるのを防ぐためにあるのだと、物の本に記してあった。現代の女子高生は、海風よりもきつい噂や疑惑をがっちりつかんで日々を送っているのか……ゆうひイエローは、感服せずにはいられなかった。
A・B号棟の次は、C号棟へ。黄色のヒロインと国語学担当の教員が探す人物は、萌子の同級生だった。中講義室二より、学生がぞろぞろと退出していく。三限目「日本文学概論B」は、日本文学国語学科一回生必修の専攻科目であるが、惜しくも単位を取得できなかった上級生が混じっていたのだった。
「僕にお任せを」
真淵先生は音を立てずに姿を消すと、数秒にして青年を引きずってにこにこ歩いて来られた。されるがままになっているひ弱なレトロ眼鏡の男子こそが、お目当ての島崎くんだった。
◇文学部日本文学国語学科一回生・演劇部 島崎戒の証言
与謝野さんに、何かあったでありますか。なぬ、自主休講でありますか。本居先輩、ノートを取ったでありますと、配付プリントも確保しておりますでありますと、お伝えいただけますでありますか。うはっ、真淵先生!? 先輩に頼むな、でありますか。身の程を弁えろ、でありますか……。そうでありますよね、小生、横柄でありました。
二限が先に終わって、与謝野さんを待っておりましたであります。二人で休講と教室変更の掲示を確認し、研究棟へ行くのが此の頃の習慣でありました。特に変更が無かったでありますから、A・B号棟を去ろうとしたのでありますが、与謝野さんがお手洗いに直行したのであります。どうやら、新しいコスプレの着替えだったのであります。本居先輩、御存知では無かったでありますか。先週配信された音楽ゲームのレギュラーメンバー、茂作田滋実子でありますよ。過激系バンド「ハラペーにゃ」のダウナー系ドラムっ娘であります! 真淵先生、笑顔ですごまれると居づらいであります……。
与謝野さんのマキシマムザハート語完全コピーは賞賛すべきでありますが、滋実子のキャラを徹底ぶりには瞠目であります。時折、マキシマムザハートが残っている部分が見受けられたでありますが、誤差の範囲でありますよ。小生、感極まってスケッチ十パターン描いてしまいましたであります。
「島崎くんの想い、実を結ぶとえぇねぇ」
「小生は、あくまで同志でありますから……」
「萌ちゃん、日曜は泰盤市のヲタク街に通っているみたいやよ。メイドさんのカフェに誘ってあげたらどないやろ」
「迷惑防止条例に抵触するでありますよ」
「たまたま、やったら違反せぇへんよ。同志なんやからぁ」
学生達のやりとりを、安らぎの曲にして壁際に憩う真淵先生であった。
まゆみ先生の力にかかったヒロイン四名が、当時どういった様子だったのか、おおかた把握できた。
「真淵先生、安達太良先生を第一体育館の前へ呼び出してくださいますか」
「かしこまりました」
かいがいしく補助をしてくださった「愛しの」先生が、ひざまずく。位の高い人のように扱われて、ゆうひイエローはたいそう困った。堂々と振る舞うのは礼儀に外れているし、おどおどしては、冗談を真に受けるつまらない学生だとがっかりさせそうだ。うちのままでいよう。それが無難だろう。
「うちは隊員に集まるよう連絡します」
「恐れ入りますが、夕陽さん」
「はい……?」
「この世を出直された方を裁けば、『ひずみ』を解くお手間が省けますよ。あのあなたが遠回りをされなくともよろしかったのでは、と、僕は愚かにも考えているのです」
ゆうひイエローが、組んだ手を胸にして答えた。
「取り憑いた人は、ご自身を責めてしまう傾向があります。人格の入れ替えが起こったことも、重く受け止めてはりました……ですから、『ひずみ』はあなたのせいではない、と伝えたくて」
「心の荷物を軽くさせるためにですか。海など足元に及ばない情け深さですねえ」
「世話焼きなんですよ、うちは」
ヒロインは、腕にはめている時計型通信機を操作しはじめた。幸せを招きそうな色のリボンが、彼女の髪とともにそよいでいた。




