キリエ
小学生の一日が終わり、高い声のざわめきが遠ざかって校庭へ流れていく。高校二年生のキリエはいつもは中高生側の校舎で聞いていたのだが、今回は二階の職員室のすぐ横の、一般生徒たちが開かずの教室と面白がって噂をしている教室──護役の集会室で聞いていた。
目の前では、椅子にふんぞり返った中年の男性教諭が腕で直接汗を拭っている。
「授業中なのに呼び出して、悪いな」
キリエから氷のたっぷり入った麦茶を手渡され、どこかのクラスの担任のこの男は暑い暑いとこぼす。対するキリエはセミの喚くこの季節に、湯気の立つ麦茶を自分の方に置いて席に就いた。
「いいよ。聞き逃したところは後で聞くから」
年上に向かって、キリエはまるで友達に対するかのように砕けた口調で話し、熱い麦茶に息を吹きかけながら口に流すのを、その教諭は信じられないといったこわばった顔で眺め、冷たい麦茶を流し込んだ。
教諭はしっとり濡れるコップを両手に包んだまま、憎々しげな眼目キリエに向ける。
「プールの件、どうなってる?」
噛みつくような口調を向けられ、キリエはやっぱりその話かと苦い表情を作って見せ、ちょっとねぇ、と他人事のように突き放す口調で話す。
「夏に入ってから今の今まで、子供たちはプールに入れなくて困ってるんだけど」
学校のプールに異変が起こったのは、今年の春の終わりごろだった。特殊な不法滞在者が現れたため、夏までに何とかせねばと護役の子どもたちが相手に話し合いを持ちかけたり強引に引きはがそうとしたりしたが、相手が悪く、子供たちは負け続けており、経験豊富なキリエでさえも手を焼く始末。
いつもと違う非日常的な時間であるプールの授業がないという衝撃と失望はキリエにも理解できる。なにしろキリエ自身のみならず、他の護役の子どもたちもプールに入りたいのだ。
「こっちも難航してるんだよね」
腕を組んで難しい顔をして見せるキリエに、教諭は貧乏ゆすりを始めた。
「子供たちはプールに入りたーいって毎日合唱してるんだよ。もしかして、昔のことを根に持ってわざと解決してないなんてことはないよな?」
「あ? 今なんつった? もういっぺん言ってみ?」
失言に、教室内が凍り付く。教諭はしまったと口を開けたままキリエの表情を窺うが、案の定キリエは怒りに燃える目をしていた。
何もしていないわけがない。しかし相手が悪く、今までプールが奪還できていないが、諦めてなどいない。それを、何も知らないくせに何もしていないと誤解されたことに腹が立つ。
「お前、あたしをそんな目で見てたわけ? お前がしたことの復讐を、なんで無関係の子供たちに向けると思ってんだよ」
椅子の音を立てて乱暴に立ち上がると、キリエは教諭のいる机を一言ごとに蹴りつける。
「お前に! 全部! 返しただろうがよ!」
教諭は悲鳴を漏らし、腰が抜けたのか立たない脚に転びながら床を這い、震える手で教室の戸を引いて出て行ってしまった。
「キリエ、やりすぎではないかと……あの……」
キリエの肩の上では水浅葱色の水干を着た白い鼠が、おどおどと自分の守護対象に声をかける。
「やりすぎって、ひと月を百鬼夜行に紛れてあいつの家に行って、みんなで騒いだこと? それとも今のこと?」
鼠は泣きそうな声で、今のことですと答えた。
「まぁ昔のことは、さすがにうちの護役長にも怒られたけど……お勤めがあるのに夜更かしするなって」
でもそれは終わったことだし、今のは悪くないでしょとキリエは堂々と言い切った。
「だいたい、二十年前に痛い目にあわされたのに、最近忘れてたみたいだから思い出させてやっただけだよ」
「あ、あの人、最近評判が悪いですものね」
嫌な奴を追い払ってすっきりはしたが、話の本筋はそれではない。キリエは麦茶を片付け始めた。
誰にでも理解できるように教員たちに掛け合ってプールを「故障中」とし、通常の体育の授業を続けてもらったが、夏の太陽の下で通常授業をするなど体に良いわけがない。
夏休みに入ればプールの開放がある。決して広くはないが、海よりは安全に遊べる場がないといけない。しかしプールに巣くってしまったアレをなんとかできるだろうか。
「あー、あたしもユウトもヒナゴもアリアもケイタもチヨも。ウズモは身体が小さいからしょうがないけど、勝てないもんなぁ」
コップをしまい、がっくりと項垂れる。
学校での怪異や妖怪の揉め事は、通っている子供で解決すべしと言い渡されている以上、護役長他は頼れない。どうすればいいだろう。
「……キリエ、アリア、ユウト、ウズモ、ヒナゴ、チヨ、ケイタ……」
学校に通っている護役一人一人の名を挙げていき、キリエはふと最後の一人の名を口にした。
「サナギ」
潜竜の護役ですか? 今、ここにきている人ですよね? ネズミが肩の上で声を上げる。
「護役なんだし、実力を見る意味でも連れてこよう!」
思い立つや、キリエは小学生側の校舎に走った。小学生の授業は終わっているが、まだ教室にいてくれと祈りながら。




