マサナリの決定
潜竜の島から、新人の護役が挨拶に来た。
それだけなら問題ない。
しかし、それはただの護役であれば……という話である。
時鐘島の護役長であるマサナリは、施設で騒いでいる子供たち──主に騒がせている狼の姿の妖怪──に大声で注意をして、丸い顔に張り付いている白の混じった太い眉を吊り上げて足早に宿舎に戻り、自分の部屋で机に向かった。
現在の状況を軽く整理しよう。
新人の名はサナギという。装束の一部に縫いつけられた白い鱗の模様が示す通り、龍に護られた潜竜島の護役だ。
しかしやって来たのは、彼女一人だけではない。
サナギを預かる身であるマサナリは腕を組んだ。サナギよりもこの千松をどうするか。それが問題なのである。
この島に、護役の守護霊としてやって来たとなれば、特別に構うことはない。以前経験したように、新人護役のみに指導すればいい。
かつてよその島からの挨拶回りで守護霊がついてくることはあったが、この千松という守護霊はマサナリの目から見ても特殊で、この島に大きな不安を落としていた。誰の目にも見えるという事実が、自分の島の島民に不安を抱かせてしまっている。
ほんの数日前、千松はこの島にやってきて突風のように神社へ乗り込んできたと聞いた。その腕に千松と共によそから来た女性サナギと、うちの護役を両腕に抱えて。
二本の脚で駆ける、どす黒い色の体をした狼。その姿を見てしまった島民たちは、なんと思っただろう。
考えるまでもない。答えは恐怖そのものだ。
護役としてはこれを取り除かねばならない。
それこそ、何をおいても。
開けられていた窓から網戸越しに、温い風が頭を撫でる。
外からはいつものように、にゃあごと子を呼ぶ母猫の鳴き声。いつもと変わらない、外の音だ。
しかたがない。
マサナリは一人頷き、汗を拭いて立ち上がる。部屋を出て、目指すところは電話機。受話器を持ち上げ、抵抗のあるダイヤルを、力を込めて回した。
やるしかない。嫌われることになるが、こちらも自分の島が最優先なのだ。
数回の飛び出し音の後、電話の向こうの人物が応答した。
「はい、こちら華表ラジオ局です」
朝、サナギはいつものように暑さと息苦しさを感じ、千松に抱き着かれた状態で目を覚ます。時計を見れば、マサナリが起きるよう言いつけた朝の五時を過ぎ、潜竜にいた時と同じような時間になっていた。
先日のマサナリの剣幕を思い出し、サナギは騒ぐ。
「千松くん! 千松くん! 起きてー!! あと暑い!」
しかし睡眠欲の強い千松の耳には全く届いておらず、代わりに二人の目付け役である雀の妖怪アキノヒが跳び上がった。
「なんだ、どうしたのだ!」
「遅刻! 千松くん起きないの!」
「なんと! 千松殿、起きよ!」
アキノヒが千松の耳に向かって叫ぶが、なんの反応もない。
「ツガさんに、千松くんを起こすヒケツを教えてもらえばよかった……あ、そうだ!」
よいしょ、よいしょとサナギは身をよじって、千松の腕から脚に向かって抜けようとした。時間と体力を消耗したが、なんとか抜けることはできた。
「朝からこんなに体力を使うとは思わなかったよ! いつもはツガさんが千松くんを引きはがしてくれたのに」
泣きそうな弱った声で言いながらサナギは着替え、アキノヒはその声に一括する。
「自分の守護霊くらい、自分で御せるようになれ!」
「千松くんは御するとか、そういう言葉を使う関係じゃないよ!」
ケンカをしている場合ではない。簡単に言い合いをして、サナギは一人で食堂に向かった。
食事は必ず食べなければ、この後もたなくなる。自分一人しかいない食堂で急いでラジオのスイッチを入れ、昨日の夜に用意された白米と焼き魚を温めて腹に流し込みながら、ラジオの内容は右から左。しかし各家庭では、この放送はしっかりと聞かれていた。
「時鐘島の皆さんに、お知らせです。
本日は護役長のマサナリさんから、重要なお知らせがあるそうです。
お時間のある方は、午前九時に禊月神社に足をお運びください」
サナギが境内に駆け付けた頃には、既に境内や拝殿の中を護役たちが掃除を始めていて、サナギは恐々とマサナリに近付く。
「遅い!」
拝殿を背にしたマサナリの怒りに染まる顔を見て、サナギは身を竦ませた。
「昨日は何時に眠ったんだ!」
「わ、九時です!」
何時だったか、覚えていない。わからない。その言葉を飲み込んで、嘘の時刻を答える。せっかく仲良くなった子供たちとの関係を悪化させたくなかったサナギは、子供たちの部屋に行って遅くまで喋っていたのだ。サナギが部屋に帰ったのは、千松が部屋に戻ってどれくらい経っていただろう。
「潜竜にいた時もここまで寝坊していたんじゃないだろうな? 我々は守り神様のお世話と、島の人々に手本を見せるという大役を担っているのだ。少しでもだらしない姿を見せれば、誰も神様に敬意と信仰を抱かなく……」
言い終わる前に、マサナリの目が辺りをキョロキョロし始める。その目に、昨日衝突した狼の妖怪の姿が映らない。サナギは次に言われる言葉を想像して身構えた。
「守護霊はどこだ」
「部屋にいます!」
「なぜいない? 呼んで来い!」
「私の挨拶回りだから! 千松くんは、えっと、オマケ! 私のオマケで来たので、ここにいなくってもいい、かなぁ……って……」
仮にも守護霊をオマケ扱い! その言葉にマサナリは意表を突かれ、大きく息を漏らしてしまった。聞いていた数人の護役も同じように吹き出したが、すぐに咳払いをして竹ぼうきで参道の掃除を再開する。
「守護霊は、いついかなる時も護るべき人間から離れることはないはずだ。なぜ側にいない?」
なぜ側にいないか。それを答えるのは簡単だ──ただ眠っていたいだけ。しかしこの護役長に言って通じるかどうか。サナギは余計に怒られるのがわかっていたので、答えることはできない。
「千松くんはぁ……」
「言ってみろ」
サナギにとって正しい答えなど言えず、マサナリが納得しそうな答えを探してみる。
「千松くんは、い、います! ここに!」
見えないけど! と後ろを指すが、先ほど部屋にいると答えてしまったために、嘘をついたことを責められてしまった。
諦めてまだ眠っていることを答えれば、なんと情けない! とまた責められた。
何をやっても怒られる。やっぱりここは嫌だなぁと泣きそうになっていると、助けの一声が降ってきた。
「そこまで」
涙を拭って顔を上げると、マサナリの後ろに聳える守り神様の顔。優しく微笑んでいるように見えた。
「マサナリ、お前は新人をいびることが仕事ではないだろう?」
「しかし、ヅナ様! この者は己の守護霊もろくに」
「お前に守護霊はいないからわからんか。ここの守護霊はほとんどが妖怪上がりだ。中には自覚の薄い者もいる」
守り神は黒く大きな爪が覗く熊の手をマサナリの頭に置き、優しい声でマサ見下ろして次いでサナギをじっと見る。
「サナギも千松も、未熟者としてここにいる。守護霊ならば俺が見ているから、お前は人間を見ていろ。それ以外なら、お前のすることに口は出さない」
それはつまり、千松と離れ離れになるということだろうか。
「なに、心配はしなくていい。お前たちを引きはがすわけではない」
サナギに表情を読んだ禊月ヅナは、先回りして答える。
「お前たちは、守護され守護する関係を崩さなくていい。マサナリがお前を指導するが、俺は千松を遠くから見ているだけだ」
離れ離れにされはしないと言われて、サナギは上がっていた肩をゆっくりと下げた。それを見て、禊月ヅナは「それでも」と続ける。
「今日はどうしても、あの守護霊に出て来てもらいたい」




