夜の社
社叢林の木々を揺らした温い風が、アキノヒの羽毛とサナギの髪と護役の装束を撫でて去っていく。湿っぽいが、家の中にいては吸えない空気を思い切り吸い込み、四歩五歩と家から離れてみた。さわさわと自然のものではない音が聞こえてくる。声を辿っていくと、護役の家の脇の道を仄かに青く光る提灯の灯りとそれを持つ手に、人間のいでたちではない体貌が夜の丘に浮き出て見えた。
何かあるのだろうかとそれが行ってしまってからそこへ行くと、坂に埋め込まれただけの石の階段が丘の上下に伸びている。下には崩れかけの鳥居があったはずだ。それでは上には何があるか。拝殿だ。守り神様のおわすそこに、妖怪が集まっているのだろうか。
アキノヒは階段を踏みしめ、一段一段跳んで上っていく。途中で何人か妖怪たちが自分を追い抜いていくが、護役がついているにもかかわらず何も言われない。まるで最初から興味を持たれていないようで、二人はそのまますんなりと境内に到着し、アキノヒは旅の目的地である社を見て衝撃を受けた。
祀られる守り神は二柱と聞いているが、一柱に一社ではなく二柱に一社。人間の間では縁結びやら円満な夫婦仲、きょうだい仲の関係するご利益があると言われているようだが、よもや人間の都合で二柱を一所に押し込めたのだろうか。
いや、それは考えられない。アキノヒはすぐにそれまでの疑いを振り払う。千年以上もこの土地を護ってきた守り神に対して、人間が都合を押し付けるものか。何か、理由があるのだろう。
それにしても、とアキノヒは拝殿の前に立つ。人間が数人入ることができるだけの広さであろうそこは、今まで見た中でも小さい方に入る。大きく立派にすることが信仰心の篤さとまでは言わないが、思っていた派手さはない。本島が豪華だったからだろうか。華表諸島という土地にある神社ならば、皆等しく華やかさがあってもいいだろうに。
ご神体が置かれ、数人が入ることができればそれでいいという広さの拝殿の扉は閉められており、既に酒盛りを始めている妖怪たちの何人かがこちらを見ている。中には手を振り、二人を招いている者もいた。
「お二人さん、一杯どうだね。
一人は我らが島の護役様、もう一人は修行者。どちらも新顔だ。たまには新しい顔と飲むのも良い。付き合ってくれんかね」
灯篭の青い灯りに照らされたその姿は、全体を見れば鳩より大きく烏よりは小さい白い鳥だ。しかし首が黒く、風もないのに揺らめいていた。鳥の妖怪が丸い徳利を翼で挟んで掲げて見せる。
「どうします?」
サナギはアキノヒを見下ろす。返ってきたのは、参加しようという力強い答えだ。
「呼ばれたのだ。断る理由がなければ行くのが礼儀というもの」
「そうかなぁ」
晩ごはん食べちゃったけど。そう呟いたサナギを気にせず、アキノヒは誘われるがままに宴の輪の中に入っていく。
久しぶりの酒に目がくらんだわけではなく、他の妖怪と話したかったのだ。酒に釣られたわけではない。決して釣られたのではない。
「新しい護役様、我らはお誘いしたのですよ。ツガ殿から聞いておりませんかな?」
サナギに猪口を渡した小さな蛙の妖怪が寂しそうに言うのだが、サナギは何も聞いていない。
渡された猪口に少しだけ注がれた透明な酒を見、いただきますとすぐに口に含んだ。味も匂いもない水が淡々と喉を通っていくだけなのに、周りの妖怪たちは手を叩いて喜んだ。喋ろうと口を開けると、夏の温い空気が棘のように口の中に刺さってヒリヒリする。
「わぁ、なんか口の中がキュッとする!」
サナギが猪口を返し、口に手を当てると妖怪たちはいっせいに笑い出した。聞いていたアキノヒは、それは嘲るものではなく、含まれる温かみがすぐに分かった。新たな仲間を歓迎したのだろう。
「おお、よい飲みっぷりだ。だが、ちびりちびりとやるのが正しい。これからもここで飲むことになるのだ。覚えておくといい」
頭にヒレを立てた魚が、威勢よくサナギの目の前に跳びだす。
「はひ?」
何のことだろうかと鳥の妖怪を見ると、人間や我らとの付き合いに、酒は不可欠だからなと笑って言った。
アキノヒも酒を飲む。あの護役には、酒の味がわからないらしい。ほんの少しでもこんなにも深く、長く味が残るというのに、なんとも可哀想なことだ。
「私はアキノヒと申す。修行の身だ。あなたたちから見た守り神様はどのような方々なのか、教えてもらいたい」
すると皆がよく来たと口々に、労りの言葉と共にかわるがわる酒を注いでいく。
華表諸島にかかわらず、妖怪の多くは自分の場所から離れたがらない。だからこそよそからやってくる修行者を労り、話を聞きたがる。酔えば口が軽くなるのは人間も妖怪も変わらない。いい気分にさせてよその土地の話をしてもらうのだ。
「土地によって、神社で宴をするのは知っていらぁ」
ろれつが回らない舌でアキノヒはフラフラになりながらも話しを続ける。
「神様もお入りになられ、夜が明けるまで話に花を咲かせたものよぅ」
「どんな話をしたんです?やはり、神様になるために何をしたらいいかとか?」
「すぉぉのとおぉり!」
その通りって言いたいんだろうなぁとサナギはふらつきながらも妖怪たちの質問に答える雀の妖怪を、ハラハラして見守る。アキノヒくらいの大きさなら自分が両手に乗せて連れ帰れるが、サナギの話も聞きたいという妖怪たちに囲まれて、切りのいいところが見つからない。やはり千松について質問されて一通りのことは答えた。やはり、妖怪が守護霊になるというのを聞いたのは初めてのようで、アキノヒの話に聞き入る者、千松についての話に聞き入る者と二つのグループに分かれていて、簡単には立ち上がれない。
「お披露目の時にお見かけしました。新しい護役様」
サナギの手と同じ大きさの蜥蜴が、サナギの膝の上に前足を置いて見上げた。
「なんとお可愛らしい。ツガの代でこの島が廃れるかと心配しておりましたが、一安心です」
蜥蜴の言うことに、サナギはどういうことかと問うてみた。妖怪たちの間では、この潜竜島の護役はツガ一人。護役は守り神の世話役であり、それがいなくなれば島民は守り神を感じなくなる。次第に守り神は忘れられていき、加護を失ったこの島はやがて海に沈むだろうと聞くと、サナギはここに集まる様々な姿をした妖怪たちを見回した。今のサナギには護役が守るべき人間と妖怪の境界のことは理解できていないが、もしかしたらもっと大きなものを守っているのかもしれない。流されるままに護役という地位に就いてしまったが、自分もツガが抱えているそれを同じようにして生きていくのだ。
「大変だ」
トラックに乗って島を一周した時、老若男女たくさんの人も、妖怪も見た。赤ちゃんを抱いたお母さんも、千松の着物を作ってくれたお婆さんもいたし、手がたくさんの妖怪と仲良く並んで手を振ってくれたお婆さんも、診療所の先生も、肌の焼けたおじさんも、犬を連れた男の子も──妖怪たちだってここに住んでいる。潜竜島を沈めるわけにはいかない。
「私、帰って勉強しないと!」
蜥蜴が膝から落ちたのも気にせずにサナギは急いで立ち上がると、離れたところでだらりと喋り続けるアキノヒを持ち上げて手に乗せ、皆に頭を下げてから急ぎ足で境内を後にする。
青い灯りに浮かぶその背中を、全員が笑顔を浮かべて静かに見送った。
「あの娘。それなりにやる気はあるようだ」
「お前も護役に認めたではないか、ヒ。その上でその言葉は、いささか無責任だぞ」
「おや、玲瓏の双子龍様。今日は遅いお出ましで」
「あの娘がここに来ることはわかっていた。あの甘えた顔を見たくなかっただけだ」
「繕うでない。あの娘がたやすく我らの姿を見るには、まだ早いと思うただけよ。ツガとて、護役になりたての頃はこうして顔を見せずにいたもの。懐かしいの」
「それより、そこの蜥蜴」
「はい、ヒ様」
「あの娘に余計なことを吹き込むな」
「事実でありましょう?
護役がいなければ、この島々は存在できないのですから。
我らの住処を守るため、あの護役にはしっかりしてもらわないと困ります」




