【 19 】 だからお前もその心づもりでいろ < :後篇 >
「やっぱそいつが出てんのかよ」
漸次は曇った表情でそう呟いたが、先ほどまでの切羽詰まった様子は見受けられない。
もしサクラの身体に非常事態が起っているのであれば、漸次さんはもっと慌てているはず――。そう判断した樹里は希望をこめて問う。
「薫と私で対処しなくても大丈夫なエラーなんでしょうか?」
「そうだな。お前らは何もしなくていい。しかしそれにしてもお前の旦那には呆れるぜ」
「薫に呆れる……?」
サクラが無事そうな事に安堵する前に、気になる台詞が出てきた。
「ではサクラが動かなくなった原因は薫にあるということなんですか?」
「おっと、そういう意味で言ったんじゃねぇんだが……」
なぜか漸次は言葉尻を不明瞭に濁し、取ってつけたように白い歯を出す。
「スマン、ただの独り言だからお前さんは気にすんな。とにかくルーキーには大したことねぇから心配すんなって言っといてくれよ」
「良かった……。あの人も心配しているのですぐに伝えてきますね」
ようやく安堵の吐息をつけた樹里の背後で、菩庵寿の引き戸にはめられている格子模様の曇り硝子がビリビリとした音を立てて一斉に震える。今にも破壊しそうな勢いで古めかしい引き戸を薫が乱暴に開け放ったせいだ。
「オッサン!! 原因は分かったのかっ!?」
「薫!? あなたサクラを置いてきちゃったの!?」
しかし薫は返事もせずに重々しい店の引き戸を片手で叩きつけるように閉めると、漸次が映し出されているGoldfinger-Xへと突進する。
「どうなんだよオッサン!? 俺のサクラは無事なんだろうなッ!?」
モニターに映っているスキンヘッドの大男をその場所から引きずり出しかねないほどの剣幕で噛みつき、作業台を両の掌でぶっ叩くと、引き戸に続き激しい衝撃音が店内を奔った。
緻密な作業に適しているだけではなく頑丈さも売りの作業台ではあるが、薫が余計な衝撃を与えたせいで、樹里が正面の空間にスライドさせたばかりのCasquette Walk内の映像がまた台面上へと吸収されてゆく。
「なんだお前も戻ってきたのかよ? さっきはえらく声を落としてボソボソと喋ってたが、もういつもの癇癪持ちなお前に戻ってんな。だがやっぱその方がルーキーらしいぜ」
「うるせぇ!! んなことどうでもいいだろうが!! いいから早く答えろ!!」
「分かった分かった、まずは安心しろや。緊急性の高いエラーじゃねぇからそこで特に対処してもらうこともねぇし、今夜サクラをわざわざ蕪利に連れて来んでもいいぞ」
「じゃあサクラは直るんだなっ!?」
「あぁ直る」
自信に満ちた顔ではっきりと断言する漸次。
そしてサクラが無事なことをすでに知っていた樹里は穏やかな微笑を浮かべると、薫の側に近づき、その隣に寄り添った。
しかしこれでようやく菩庵寿の中の緊迫した空気が緩まるかと思いきや、まだ怒り沸騰中の薫は追及を止めようとはしない。
「ふざけんじゃねぇ!! “ 直る ” っつー言葉だけで納得できっかよ!! なんでサクラは急に動かなくなったんだよ!? 俺が納得できるように説明しろや!!」
「おいルーキー……、お前さん、その状況で俺になんでと聞いてくんのかよ? いくらなんでも無神経すぎねぇか?」
甘えるように薫に身体を寄せている樹里を顎で軽くしゃくり、漸次が逆に問い返す。
しかし漸次の言わんとする意味が全く読み取れない薫は樹里を横に侍らせたままで吠え続けた。
「そりゃあどういう意味だよ!? いいからさっさと言えよ!!」
「なんでお前は事あるごとにそうやってすぐにカッとしちまうんだよ……。お前さんの脳味噌は活火山で出来てんじゃねぇのか?」
「なんだと!? 脳味噌が火山でできてるわけねーだろ!! んなもんが詰まってたら死んじまうじゃねーか!!」
今のやり取りを聞いていた樹里がこらえ切れずにクスリと笑う。
薫は自分にくっついている樹里をギロリと睨み、「亭主が馬鹿にされてんのに笑ってんじゃねぇ! 女房なら亭主を庇うのが当り前だろうが!」とどやしつけた。
ごめんなさい、と謝る樹里。
つい先ほど武蔵がこの短気男を散々こき下ろした際に樹里はちゃんと薫を庇っているのだが、当の本人はその事を知らない。
「樹里、悪いがルーキーと二人きりで話しがしたい。お前さんは席を外してくれないか?」
何から言うべきか考えあぐねていた漸次が唐突にそう言いだした。
なぜ自分が人払いされるのかは分からなかったが、素直な樹里ははい、と頷く。
「悪いな。終わったらまた呼ぶからよ。ちょっとの間あっちに行っててくれ」
「分かりました。薫、私、サクラの様子を見てくるわね」
樹里がサクラの様子を見に店の外に出てゆく。しかし気の短い薫は樹里がまだ店内から姿を消していないのに、Goldfinger-Xにがっしりと覆いかぶさるような格好でサクラが落ちてしまった理由を執拗に問い質し始めた。
「原因はなんなんだよオッサン!! もったいぶらずに早く言えや!!」
「だから落ち着けって」
正面の空間にあったモニターが再び台面の位置に戻ってしまっているため、漸次側から見える光景は菩庵寿内の薄暗い天井と怒鳴り散らしている薫の顔面のみだ。
店内の様子が分からない漸次はもう樹里はこの場にいないものだと思いこみ、今回の騒動となった原因を口にする。
「過負荷だよ」
「過負荷だと!?」
「あぁ。それが起きちまうと機体の保護を最優先させるために強制的にあれの動作が停止するようになってんだ。お前さん、サクラに無理をさせすぎたんだろ。ろくに休ませないであいつを無茶苦茶にこき使っちまったんじゃねぇのか?」
黒いサングラスの奥からうっすらと見える垂れ目で探るように見られ、サクラの今日一日のはしゃぎっぷりを最初から最後まで一通り回顧した薫はうっと言葉に詰まった。
「た、確かにそうかもしんねぇ」
「やっぱそうか……。全くお前さんにも困ったもんだよ。だがな、そんな深刻なツラはしなくてもいいぜ。あいつをこのまま数時間置いとけばまた元通り起動できるようになるからよ」
「マジだな!?」
「あぁ安心しろ。しかしお前さんにも恐れ入るぜ。愛玩少女が初物で物珍しいからってよ、一体今日一日で何発サクラとヤったんだよ? いくらお前が若いからとはいえ暴れすぎだろ」
「い゛っ!?」
「お前さんの絶倫ぶりには呆れ果てるぜ、と言いたいところだが、とは言ってもこのトライアルをお前さんに無理やり押しつけたのは俺だしなぁ……。だからよルーキー、この件はお前の嫁さんには伏せておくことにしようぜ。樹里にはただの単純なメカトラブルだったとだけ言っておけ。もし樹里から突っ込み喰らいそうになったらよ、詳しい事は俺に聞けって言っとけよ。その時は俺がうまくごまかしてやる。俺のせいでお前ら夫婦が揉めたりすんのは申し訳ねぇからな。そんでサクラの件だが一応念のために明日の朝そっちに顔を出す。それまであいつはそのままにしとけや。じゃあな」
「待ちやがれオッサン!! 何勝手な事を言うだけ言って切ろうとしてやがんだ!! こっちの話はまだ終わってねぇぞ!?」
「なぁルーキー……、俺は今日プライベートで色々ごたごたがあってよ、疲れちまって寝るとこだったんだ。頼むから寝かせてくれや。サクラはなんでもねぇからもう今日は俺に連絡してくんなよ? じゃあ明日な」
大欠伸をしながら漸次が通信を一方的に切断してしまったため、台面の映像が一気に消える。
身に覚えのない疑いを払い損ねてしまった薫は苛立たしげに舌打ちをしたが、明日オッサンが来た時に言やぁいいかと思い直した。
サクラを失ってしまうという恐怖からようやく解放され、緊張していた筋肉が一気に弛緩してゆく。そのせいで緩んだ口元から零れたのは無意識の愚痴。
「ったくビビらせやがって……。寿命が百年縮んだじゃねぇか」
「百年も縮んだらもうここにいないじゃない。でもサクラが無事で本当に良かった」
てっきり店内には自分しかいないと思っていた薫はガバッと後ろを振り返ると戸口にいた樹里を凝視し、「お前サクラのとこに行ったんじゃなかったのかよ!?」と叫ぶ。
すると樹里はほんの少しだけ気まずそうに、
「だって薫ってば私がここを出て行く前に漸次さんに怒鳴りまくって話をどんどん進めちゃうんだもの……。だから私も全部聞いちゃったわ」
「お、おい!! お前まで勘違いすんなよ!? 俺はサクラとは絶対にヤってねぇからな!?」
これ以上の冤罪は真っ平ご免だとばかりに薫が抗議をすると、樹里はしとやかに目を伏せてコクリと首を縦に振った。そして急に薫から視線を逸らし、両手を当てたその白い頬をほんのりと桜色に染める。
「えぇもちろんあなたを信じるわ……。だ、だって、もしサクラがああして動けなくなるぐらいまであなた達二人が外でずっとエッチをしたのなら、薫は今日私とこんなにいっぱい出来ないと思うもの……」
己の実体験に基づいた理論をはにかみながらも披露してきた樹里に、薫は天井に顔を向けてぶっと盛大に噴き出した。そして恥じらう樹里に吊られるようにこちらも鼻の頭を赤らめ、貞淑な妻を全力で怒鳴りつける。
「こっこのバカ野郎ッ!! 何くだらねぇこと言ってやがる!! あいつは俺の半身だぞ!? 腐っても自分の片割れとなんかヤらねーよ!! お前も俺の女房ならそこんとこきっちり覚えとけや!!」
「はい。しっかりと覚えておくわ」
「ったく女のくせに下衆な勘繰りしやがって!! お嬢様が聞いて呆れるぜ!!」
「あら、私はもうお嬢様じゃないわ。今はあなたの奥さんよ」
刺々しい嫌味を柔らかな微笑みで受け流され、薫は「ケッ」とそっぽを向く。
いつもならここですかさず大きな舌打ちをし、“ 何度言やぁ分かるんだ!! 女房なら亭主に口応えすんじゃねぇ! ”と得意の口癖で樹里を叱りつけているところだ。
しかし今の薫はそれをしない。
それどころか悪戯に夢中になっている最中を偶然見つけられてしまった子どものように不貞腐れた顔で、
「わ、悪かったな」
とボソボソとした小声で突然反省の弁を述べた。
驚いた樹里はえっ、と言い口に手を当てる。今まで薫から謝ってもらったことなどほとんどないからだ。
「どうして私に謝るの? 薫は何も悪くないのに」
「……さっきよ、サクラに顔向けできんのかってお前に言われて頭が冷えた。マジで感謝してる」
「それでまだ蕪利に向かわないで家の前に残っていたの?」
薫は汗で立ち上がりの悪くなった鶏冠頭をガリガリと掻き、
「あぁ。だが頭は冷えたけどよ、もしサクラがマジでこのまま俺のとこに戻ってこられねぇんなら、俺があいつにしてやれることは何もねぇのかを考えてた」
「そう……。それであんなに真剣な顔をしていたのね……」
樹里は小声で呟くと、薫が手にしている煙草に視線を走らせる。
「でも薫が煙草を吸っていたなんて知らなかったわ。私に隠れていつから吸ってたの? 生地に匂いが移るから煙草は吸わないって昔私に言ってたのに」
「隠れて吸ってなんかいねぇよ。大体いつもお前が家にいるのにどうやって隠れて吸う機会があるんだっての。今だけ吸おうかと思ってそこで買っただけだ」
薫が封を開けたばかりの煙草の箱を樹里の前にかざしてみせる。
どうして急に、と言いかけた樹里だったが、目の前で見せられたパッケージが薫がこの世で唯一人尊敬する人物、亡き父、幸之進の墓参りの際に必ず供えている物と同じだと気付き、その問いは胸の中に静かに仕舞った。
「じゃあサクラは無事だって分かったし、もうそれは要らないわよね?」
「あぁ。捨てといてくれ」
「うん」
樹里は薫からその不要物を受け取り、ダストボックスへと入れる。
「……ねぇ薫、あなた今年の昇進試験を受けるの?」
「あ? なんだよ急に」
あくまでもさりげない風を装って尋ねてみたが、薫に不信感を与えてしまったようだ。
樹里はこの質問をしたことを後悔し、場を取り繕うように近くにあったブラを収納するアクリルケースの蓋を意味なく開け、
「ううん、別に変な意味で聞いたんじゃないわ。今年試験を受けるつもりだって前に言ってたのを今急に思い出しただけよ。だから聞いてみただけ」
と答えた。
開けられたアクリルケースの中は何も入っていない。
薫はその空っぽのケースを横目でチラリと観た後、「まだ分かんねぇ」としかめっ面で答えた。
「じゃあもしかしたら今年は試験を受けない可能性もあるの……?」
若き下着職人はふうと大きく息を吐きだし、椅子の背に大きく寄りかかる。そして頭の後ろで手を組むと、斜め四十五度付近の何も無い空間を睨むように見つめた。
「この間御子舞に行って清水の爺さんとこに顔出して来たんだけどよ、今年試験を受けるっつったら爺さんにガッツリ小言を喰らっちまった」
「えっ長次郎さんにお説教されちゃったの!?」
「おう。あのジジイ、目ん玉をひんむけるだけひんむいて怒鳴ってきやがった。“ このうつけ者が! お前にはまだ早い! ”だとよ」
「そ、そう……」
つい先ほど武蔵から指摘された下着職人としての薫の欠点。
容赦の無い意見ではあったが、的を射た部分もあると気付いてしまった樹里は、遠慮がちに自分の意見を口にする。
「私も今年はまだ受けない方がいいと思うわ」
すると薫は頭の後ろで組んでいた手を解き、店舗内の空間から樹里へと顔を向けた。そして先ほどよりもさらに不審さを増した視線を妻に送る。
「おい、お前確かこの間俺に “ 試験頑張って ” とか言ってなかったか? なんで急に変わってんだよ?」
「ち、違うわ。私は薫に頑張ってほしいと思ってる。でも国宝職人の長次郎さんがそう仰ったのなら、今回は止めた方がいいんじゃないかなって思っただけよ」
動揺を極力表に出さないようにしながら苦しい言い訳をすると、不審げな目つきで樹里を見ていた薫はやがてまた元の何も無い空間へと視線を戻し、
「……申し込みの締め切りまでまだ時間があるからもうちょい考えてみる。受けるならやっぱ一発で合格してぇしな」
と、この若さですでにマスター・ブラの肩書きを手にした下着職人としての目には見えないプライドと本音を覗かせた。
「そ、そうね。まだ時間があるならよく考えてみるといいと思うわ」
どうか薫が今年の試験参加を思いとどまりますように、と願いながら樹里は空のアクリスケースを持ち上げる。
「薫、このケースの中何も入ってないからあっちの棚にしまってもいい?」
「いやこれから迅速生産で一つ作るから出してんだ。そのままにしといてくれ」
それを聞いた樹里は作業台に表示されている時刻に目をやる。台面に表示されている情報はもうすぐ日付が変わりそうな時刻だ。
「薫、そのラピッドが終わったらもうこれからは無茶な働き方はしないのよね……?」
「あぁ。約束するって言っただろ。これが終わったら明日からは早く寝るようにするって」
明日は店を開けなければならないのにこの人はこれからまだ働こうとしている――。
今日はもうこのまま自分と一緒に休んでほしい樹里は小さく唇を噛みしめた。
だが同じ件を何度も蒸し返されることを極端に嫌う薫の性格を熟知しているがゆえにその感情を堪え、「うん。そうしてね」とだけ告げて話題を変える。
「薫が急に私に謝ってびっくりしたけど、あの時私が止めなくてもきっとあなたは漸次さんに無茶なことはしなかったと思うわ。だってあなたは口は悪いけどとても義理固い人だもの。でもあんなに豹変して我を忘れてしまうくらい、あなたにとってサクラは何よりも大切な存在なのね」
「…………」
「そろそろサクラを家の中に入れてあげましょ。車の中に寝かせたままだもの、可哀想よ」
しかしなぜか薫は椅子から立ち上がらない。
樹里は先に戸口へと行き、もう一度薫を急かした。
「ねぇ早く薫。あなたじゃないとサクラを運べないんだから」
「……おい樹里。こっちに来い」
「え?」
「いいからこっちに来いって。サクラを運ぶ前にさっきの話を先にしとく」
「さっきの話?」
樹里は不思議そうに薫の台詞をオウム返しで呟いたが、
「……あぁすっかり忘れてたわ! いい話か悪い話かを私が判断するって話のことを言ってるの?」
「おう。今話してやっからそこに座れや」
「それならサクラを入れてあげてからでもいいじゃない。誰かに連れて行かれちゃったりしたら大変よ」
「ロックかけてきてっから大丈夫だっての。いいから座れって」
「もうっ、一度言い出したら聞かないんだから……。分かったわ。座ればいいのね」
樹里はGoldfinger-Xまで戻ってくると指し示された椅子を通り越し、薫の右太ももの上に丸く柔らかいヒップをストンと預ける。
「おわっ!? なんで俺の上に座るんだよ!?」
「あら、さっきサクラにはここに座らせてあげてたのに私はダメなの? 私、あなたの奥さんなのに」
サクラがOKなら自分もこの場所に座る権利があると澄ました顔でアピールしてきた樹里に、薫は「お前なぁ……」と呆れた顔で脚の上に座っている妻を見上げた。
「あいつと張り合ってどうすんだよ。アホか」
「張り合っているわけじゃないわ。ダメなら降りるけど」
「駄目だなんて言ってねぇだろうが。ここがいいならおとなしく座っとけ」
脚の上から降りようとした樹里の細い腰を掴み、その場に留めさせる。
許可をもらった樹里はとても嬉しそうな表情で薫の脚の上にきちんと座り直し、「それで話ってなに?」と尋ねた。
薫はわざとらしい咳払いをした後、本題に入るきっかけとしてこの話題からスタートさせる。
「あ、あのよ、言っとくが俺が大事にしてんのはサクラだけじゃねぇからな?」
「それはもちろん分かってるわ。だって、私も、そして可乃子も、いつもあなたが守ってくれているもの。もしかして話ってそのことなの?」
「いやそれじゃねぇ。べっ別に全然大した話じゃねぇんだけどよ、まぁなんだ、昔お前は蕪利から家出してきてうちに転がり込んできただろ?」
「えぇ。あの時ここの玄関先で帰れ帰れってあなたに何度も怒鳴られたわ」
「仕方ねぇだろ。あの時はお前の事情も全く知らなかったし家出してきたって言いやがるからああ言うしかねぇだろうが」
「でも結局一晩ここに泊めてくれたのよね。それで次の日私がこの家を出て行こうとしたら追いかけてきてくれて……。だけど薫ってば私に追いつくなり、一宿一飯の恩義も知らないのかとか散々怒鳴り散らして、挙句に私のスーツケースを取り上げてさっさと家に戻って行っちゃうんだもの。私、あの時何が起きたのか分からなくて呆然としたわ」
「んなもん黙ってここから出て行こうとしたお前が悪いんだろうが」
「あの時ちゃんとあなたにお別れの挨拶とお礼はしたつもりなんだけど……」
自分の正当性を主張する樹里に、「ケッ、あんなもん挨拶でもなんでもねぇよ」と鶏冠頭の天の邪鬼が渋い顔で毒づく。
「まぁそんであの後お前を居候させてやることになって、俺の試験勉強を手伝わせたりとか、可乃子の面倒を見てもらったりとかでなんだかんだと色々あっただろ?」
「そうね。それに私が蕪利に戻されてあなたと離ればなれになってしまった時期もあったし。……急に昔話なんか始めてどうしたの?」
「ど、どうしたっていうかだな……、つっつまりだ、家出してきたお前を駅前で可乃子が拾ってきたんだろ?」
「えぇ、これからどこに逃げようかって思案していた私に可乃子が話しかけてきて、お兄ちゃんと二人きりで暮らしているから気兼ねしないでうちに泊っていって、って誘ってくれたの」
「つーことはよ、あの時もし可乃子がお前をここに連れてこなかったらよ、俺とお前は出会ってなかったってことになるよな」
「……えぇそうね」
「だっだからよ、」
するとそれまで訝しげながらも夫の話を聞いていた樹里は眉をひそめて薫の顔を見上げる。
「ねぇ薫、さっきからずっととりとめのない話ばかりして一体何が言いたいの? 私に言いたい事があるならはっきり言って。それがいい話か悪い話かは自分でちゃんと判断するから」
「だから今それを言ってるじゃねーか!! ごちゃごちゃ言わねぇで黙って聞いてろっつーの!!」
「…………分かったわ」
不満げな表情だが、樹里はその横暴な命令に従い、おとなしく口をつぐむ。
「だっだからよ! お前も蕪利でやるべき事をやって、で、それを全部終わらせて、そんでまぁ、お前がまた俺んとこに戻って来てだ、んで縁あってお前とこうして所帯を持つことになったがよ、お前と一緒に暮らして、そんでだ、まぁなんつーか、もしなんだ、その、」
話が支離滅裂になってきているのは自分でも分かっている。
あと一息のところまできたのにうまく言い出せない自分自身への苛立ちが溜まり、薫は鶏冠頭をいつもより倍増しの強さでガリガリと掻いた。
しかしここまで来たらもう後は勢いで言ってしまうしかない。
ついに薫は腹をくくった。
「だっだから次の人生でもし俺が電脳巻尺に生まれ変わらないで済んだらよっ、今度は俺がお前を見つけ出してそんでまたお前と一緒になろうと思ってる!! だからお前もその心づもりでいてくれや!! 話はそんだけだっ!!」
―― ようやく、言えた。
どう贔屓目に見たとしても、女が喜ぶキザな台詞とやらには昇華しきれていないだろう。だが薫にとってはこれが全身全霊を振り絞って口にした、樹里への一世一代の気持ちだった。
しかしこの魂の告白を受けた肝心の樹里は、薫の右脚の上で瞬きもせずにぽかんとした表情をしている。
「な、なんだよ、ずっと黙りこみやがって……。なっなんか言えよ!」
「プッ、クスクス」
我に返った樹里が口元を押さえておかしそうに笑い出す。
「あ!? 何がおかしいんだよ!?」
「だ、だって…」
声にまだ笑いの感情をたくさん残したまま、薫の脚の上で樹里は言う。
「だって私たちまだ結婚したばかりなのに、薫ってばもう次に生まれ変わった時の話をしだすんですもの。それに “ エスカルゴに生まれ変わらなかったら ”、だなんてとてもおかしくて……。さっきお夕飯の時に可乃子が言ってた事を気にしてるのね? でも大丈夫よ、きっとあなたは生まれ変わっても武蔵にはならないと思うわ。だって薫の方が断然気が短いもの」
「ぐ……」
図星を突かれて言い返せない薫の首筋に樹里がしっかりと抱きつく。
「こんなに真剣に話してくれたのに笑っちゃってごめんなさい。でも薫の気持ちはすごく伝わってきたわ。ありがとう」
そして一旦身を離すと不機嫌そうな薫の顔を幸せに溢れた輝くような笑顔で覗きこみ、
「あのね薫、私も次に生まれ変わってもあなたの奥さんになりたい。この先何度生まれ変わってもずっとずっとあなたの奥さんでい続けたいわ。だからその度に絶対に私を見つけ出してね」
と優しく告げたのだった。




