57. どうすればあいつを助けられるんだ
男が去り、廻堂家には薫の重苦しい沈黙と可乃子の泣き声だけが残った。
いつまでも泣き止まない可乃子の頭を引き寄せ、「もう泣くな」と薫が諭す。
「だってだって樹里ちゃんが……!」
「お前が泣き続けたってあいつが戻ってくるわけじゃねぇんだぞ。……おい、サクラはどうした? 姿が見えねぇがどっかに隠れてんのか?」
サクラの居場所を聞かれた可乃子の顔色が途端に青くなる。
「あっ! お兄ちゃん大変なの! サクラが全然動かなくなっちゃったの!!」
可乃子は自分のジャンパースカートの前ポケットからパールピンクの電脳巻尺を震える手つきで取り出した。
「ほら全然動かないの! サクラ、壊れちゃったの!? それともお兄ちゃんが前はよくしていたフェイントっていう状態になっちゃったの!?」
手渡されたサクラに視線を落とす。
サクラの電飾ランプはまったく反応していない。完全に電源は落ちていた。
しかし薫は混乱している可乃子をまず安心させるために、「大丈夫だ」と先に結果を口にしてからその原因を教える。
「これは完落ちじゃねぇよ。たまたまこの電源スイッチがどこかに当たって一時的に落ちただけだ」
壊れてしまったわけではなさそうだった。
しかし、FSSから支給されたばかりで新品同様なはずのパールピンクの硬殻は、なぜかその右上隅部分が醜くへこんでいる。
薫は傷の深さを確かめるように、そのへこんだ部分を親指の腹で撫でた。
「……どうしてこうなった?」
サクラが傷ついている理由を聞かれた可乃子は、その時の様子を何一つ漏らすことなく薫に伝えようと必死に話し出した。
「樹里ちゃんが連れて行かれそうになった時、サクラが頑張ったの! 巻尺を全部出して、樹里ちゃんを連れ出そうとした男の人たちの腕にグルグル巻きつけていっぱい引っ張ったの! 『 その方はMyマスターが大切に思ってらっしゃる大事な方です! あなた方にお渡しするわけにはいきません! 』 って言って男の人たちを一生懸命止めようとしたの!」
「…………」
「でも男の人たちは一杯いたからサクラの力だけじゃ止められなくて……、止めろって怒鳴られてもサクラが巻尺を離さなかったから、怒った男の人たちの一人がサクラを掴んで壁に投げつけたの。そしたら凄い音がしてサクラが急に動かなくなっちゃったの……」
この本体の大きなへこみもその時についたのだろう。
「……そうか。たぶんその時に電源スイッチが当たってこいつは落ちちまったんだな」
薫はもう一度その傷をゆっくりと撫でてやった後、電源スイッチを入れた。
それまで完全に消灯していた電飾ランプが、まるで呼吸を取り戻したかのようにゆっくりと点滅を始める。
『 ……Myマスター……、お戻りになったんですね…… 』
最初に繋がったのは外角センサのようだ。
傷ついたサクラが接眼レンズで自分の主を正面に捉える。
「無茶しやがって……。大丈夫か? 俺の声は聞こえるな?」
『 はい……聞こえます……。方位角センサに異常は見られません 』
聴覚センサ、接触センサ、共に内部異常が無い事を専属操作者に報告し、サクラは自分の音声を消音一歩手前の小音量にまで意図的に下げる。
『 申し訳ございませんMyマスター……。サクラはあなたの大切な方をお救いすることができませんでした…… 』
「何言ってやがんだお前は」
薫は己を責めるサクラをその手の中にしっかりと掴み、その満身創痍の身体に話しかける。
「そんなことはねぇ。お前はよくやったよ。女だてらにたった一人で大勢の野郎共と戦うなんて 無茶しやがって。立派だったぞ」
『 Myマスターッ……! 』
感極まるあまり、ビブラートがかかったサクラの音声が小刻みに震える。
「このへこんじまった部分は補修施設に連れて行って直してやる。それまで我慢しろ」
『 はいMyマスター……。でもこれからどうなさるのですか? 樹里様が…… 』
「…………」
薫は再び黙り込む。
今すぐにこの家を飛び出してもなんの解決にもならないことが分かっているからだ。
樹里が連れ戻された蕪利区画は特殊区域。ふらりと気軽に立ち寄れるエリアではない。
区画内に入るには常時閉められている封鎖門を通り抜けなければならない。
ゲートを通過するには身分証を提示して門衛の身元チェックを受けるのだが、蕪利内に入る理由も同時に調べられるため、己の身元を保証できる証明書があるだけではやすやすと侵入することはできないエリアなのだ。
「お兄ちゃん……、可乃子たち、これからどうしたらいいの? どうしたら樹里ちゃんを助けてあげられるの?」
涙声で可乃子が薫にすがりつく。
しかし樹里を助ける方法を思いつけない薫はその小さな背をそっと抱き、包み込むようにサクラを手の中に握りこんだままでただずっと険しい表情を続けるばかりだった。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
「ただいま…」
12月22日土曜日。
樹里が六万坂の身内に連れ戻されて一週間が経っていた。樹里からは何も連絡が無い。
外から帰ってきた可乃子の声に、客の訪れない静まり返った店内で一心不乱に下着を製作していた薫は縫い針から雪のように真っ白い絹糸を外した。そして左の手首につけていた腕針刺に空の縫い針を刺すと作業台から立ち上がる。
大股で玄関まで行くと、可乃子が脱いだ靴を揃えているところだった。
「あ、お兄ちゃん。ただいま」
樹里が連れ去られてから可乃子は明らかに元気がない。
薫はそんな可乃子を労わる素振りも見せず、険しい顔で問い質す。
「お前、今日一日誰とどこで遊んでた?」
可乃子は「えっ」と少しびっくりしたような顔で遊び相手の名前を答えた。
「チカちゃんと公園で遊ぶって言ったじゃない」
「そのチカって奴が午後店に来たんだよ。お前を遊びに誘いにな」
可乃子がハッと小さく息を飲む音に、薫の視線に鋭さが増した。
「……なぜ嘘をついた?」
いつもならすぐにキレて大声で怒鳴り散らす薫が今日は怒鳴らない。
ただ低い声で可乃子に訳を聞くだけだ。そんないつもと違う兄の様子に、薫が本気でマジ切れしている事は可乃子もすぐに感じたようだ。
「ご、ごめんなさい……」
と目を伏せ、とても小さな声で謝る。
しかし薫はその程度の謝罪で許すつもりは毛頭ない。
「謝ったって許さねぇよ。なぜ俺に嘘をついたのか理由を言え。場合によっちゃメシ抜きだ」
薫はそう宣告すると高い位置から凄まじい迫力で可乃子を睨みつける。
怒鳴り散らさないだけではなく、何があっても自分が食わせていく、と誓ってくれた兄が食事を与えないとまで言い出したことに、どれだけ本気で頭に来ているのかを完全に理解した可乃子は、小さな手で頭を抱えてぎゅっと目を閉じるとますます脅えたようにその身を縮めた。
『 Myマスター、可乃子様があなたを怖がっていらっしゃいます。どうかお気を静めてください 』
可乃子を庇ったサクラに対しても薫は怒鳴らない。
「うるせぇ黙ってろサクラ。俺はこいつに聞いてんだ。言え、可乃子。黙ってちゃ分かんねぇだろ。俺は嘘をついた理由を正直に言えっつってんだ」
「か…」
可乃子は冷静に憤っている兄の方を見ないようにするため、目を閉じたままでおずおずと本当の事を話した。
「蕪利に行ってきたの……」
「何っ!?」
薫は可乃子の告白に動転する。
この下町から蕪利までの距離は相当な距離があるのだ。
「お前蕪利までどうやって行ったんだよ!? 金なんか渡してねぇだろうが!?」
「今までずっと溜めてきていたお小遣いを使ったの。何とか往復できるぐらいはあったから……」
可乃子はここで目を見開くとその瞳から脅えていた影を消し、代わりに強い意志と真っ直ぐな光をこめて驚いている兄を見上げた。
そしてこの一週間、ずっと小さな胸の内に堪えていた感情を薫にぶつける。
「可乃子、樹里ちゃんに会いたかったの! だから入り口で樹里ちゃんの名前を言って会いたいから通してって頼んだの! でも警備の人が身分証がないから駄目だって通してくれなかった! 樹里ちゃんきっとここに帰りたいって思ってるよ! だって樹里ちゃんはここから出て行く時、お兄ちゃんに “ 今までありがとう ” って伝えてって言ったけど、笑ってそう言ったけど、でも涙浮かんでたもん! だからお兄ちゃんお願い! 蕪利に行って樹里ちゃんを連れて帰ってきて!」
しかし薫は妹のその懇願には応えなかった。
「……今下着を作っている最中だ。あと少しで終わるから居間でおとなしく待ってろ。すぐにメシにしてやる」
そう言い捨ててまた仕事に戻ろうとする薫の態度に、可乃子は泣きそうな顔で叫ぶ。
「お兄ちゃん! 樹里ちゃんがどうしてるのかお兄ちゃんは心配じゃないの!? 」
「…………」
「ねぇ答えてよ!! お兄ちゃんは樹里ちゃんが大切じゃないの!? お兄ちゃんは樹里ちゃんに会いたくないの!?」
店舗へと去りかけていた荒い足取りを止め、薫は肩越しに後方を振り返ると突き刺すような目つきで可乃子を見た。
「……仕事中だ。いいから早く中に入れ」
それだけを告げると薫は再び可乃子に背を向けた。
「お、お兄ちゃん……」
可乃子のか細い声が聞こえる。
自分の願いを無下に断られた可乃子が今どんな顔をしているのか、予想はついた。きっと大きく失望した顔で自分の背を見ていることだろう。
だがそれが分かっていても薫は後ろを振り向かず、作成中の下着を完成させるために店舗へと戻る。
その胸中にある一つの決心を抱えて。