56. 鏡で見てみろ てめぇの方がクズだろうが
「可乃子っ!!」
自宅に着き、血相を変えて家の中に飛び込むと、真っ赤に目を腫らした可乃子が廊下に飛び出してきて薫に抱きつく。
「お兄ちゃん!」
「可乃子!! 大丈夫か!?」
「うん、でも樹里ちゃんが……!」
可乃子はそこで言葉を途切らせ、脅えたように後ろを振り返ると、「あっちにいるよ」と居間を指差した。
「俺がいるから大丈夫だ。怖がるな」
そう落ち着かせると可乃子の肩を抱き、居間に足を踏み入れる。
室内には眼鏡をかけた一人の男が立っていた。
高価そうなスーツに身を包み、中肉中背の整った顔立ちに小さく笑みを浮かべている。年齢は二十代後半辺りのように見えた。
「勝手に上がりこむような真似をして申し訳ありません」
男は自分の非礼を詫びる。
「てめぇ!! あいつをどこへ連れていったんだ!?」
「そんなことはあなたもお分かりでしょう? あの方が帰るべき場所へお連れしただけです」
「家に連れ戻したのか!? あいつはてめぇらの所から逃げ出してきたんだ! 今すぐあいつを返せ!!」
「それは出来ない相談です。まぁそういきり立たないで冷静に話し合おうではないですか」
「うるせぇ!! 俺はあいつを返せって言ってるんだよ!! ブッ飛ばすぞゴラァ!!」
「やれやれ、まるで狂犬のような方ですね……。あのお嬢さんもどこが良くて今まであなたと一緒にいたのか、僕には分かりかねます」
「余計な世話だ!!」
「廻堂さん、まずはお座りください。あなたにとって決して悪い話ではないはずですから」
「お、お兄ちゃん、この人のお話しを聞いてみよ? ちゃんとお話しを聞いたら樹里ちゃんを返してくれるかもしれないよ……」
薫にしがみついていた可乃子がそう説得をする。薫は舌打ちをすると、可乃子の肩を抱いたままで一緒にソファに腰を落とした。
「おら座ったぞ!? 早く用件を言えよ!」
男は「失礼します」というと自分も向かいのソファに腰を下ろし、薫と向かい合った。
「まずは今まで樹里さんをここに置いて下さったことに感謝いたします。七月にあの方が家出をなされてからこちらもずっと行方を捜してました。樹里さんがつつがなく今まで暮らせていたのは、あなたのおかげと推察いたします」
薫は少し黙った後、低い声で男に問う。
「……なぜあいつがここにいると分かった?」
「つい数日前のことです。あなたの経営なさるお店、ボアンジュのサイトに樹里さんに良く似た女性が載っているという情報を六万坂側が入手しましてね、早速確認を取ってみたら見事にビンゴだったというわけです」
「!」
鳩尾部分を全力で殴りつけられたような痛みが奔る。
淡々と語る男の言葉はまるで見えざる拳のようだった。
マスター・ファンデとして生きていきたい──、そんな自分の利己を押し通すために強引に樹里の画像をサイトに上げたことが行方を掴まれてしまった原因だったのだ。
「ご、ごめんねお兄ちゃん……」
自分の愚かさを悔やむ薫に、可乃子が震えながら謝る。
「この人たちが来た時、可乃子てっきりお兄ちゃんが帰ってきたのだと思って確認をしないでドアを開けちゃったの……」
「お前のせいじゃねぇよ」
薫は自分に擦り寄ってきた小さな頭を撫でてやる。
── 悪いのは俺だ
俺のせいであいつは連れ去られちまったんだ
後悔してもしきれないぐらいの感情が薫の両肩にのしかかる。そんな薫の前に男はある物を差し出した。
「つきましてはこれをお納めください」
目の前のローテーブルに紙テープで巻かれた現金が五束置かれ、その横に一枚のICチップが入ったケースが置かれた。
「この現金は今まで樹里さんが滞在させていただいた宿泊料とお考えください。そしてこちらのICチップには様々な女性のデータが入っています」
「なに……?」
「その数は千人。年齢比率は10代が一割、20代が六割、30代が二割、40代が一割です。あぁ、顧客情報の漏洩をしているわけではありませんのでご安心を。この中にあるすべての顧客にはあなたに個人情報を渡すことを事前にご了承していただいてるそうですから」
一度眼鏡に手をやり、男はその位置を決め直す。
「ここを訪問させていただく前にあなたのことは調べ尽くさせていただきました。ご両親に先立たれ、そちらの妹さんをあなたが男手一つで育てていかれようとしている。実にご立派です。ですがお店の経営に少しご苦労なされているようですね。そこであなたのお役に立てるよう、六万坂側で急遽このデータを用意したそうですよ」
「……あんた、六万坂の関係者じゃねぇのかよ?」
その問いに男は薄い唇を微かに歪めて笑う。
嫌な笑い方をする奴だ、と薫は思った。
「経営に直に携わるような関係者、というのなら違いますね。僕は六万坂に出資してもらっている側の人間です。樹里さんのご両親が亡くなり、娘である樹里さんも行方不明になったために、今グループ内の経営が混乱しているんですよ。それで僕の研究資金の提供も一時的に止まってしまっているので、速やかな問題解決に向けて協力しているだけです」
「そういやテメェの名前を聞いてなかったな。名前を教えろ」
「識別子で個人を管理されているこのご時勢に名前なんてあまり意味がないと思うんですがね。いくらでも偽名なんて名乗れますし。それに僕は二度とあなたと会うことはないと思いますよ? 樹里さんは向こうに戻ったのですから」
「だからあいつは返してもらうって言ってんだろうが!!」
薫が再び激昂する。だが男は自分に向けられたその怒気をぞっとするような冷たい笑みで完全に打ち消した。
「それに樹里さんは僕らがここに現れた時、自分の運命を悟って素直にここから出て行きました。あなたのように見苦しい真似はしなかったです」
「違う! 違うよお兄ちゃん!」
可乃子が叫ぶ。
「この人がズルいことを言ったの! こんなお店なんて簡単に潰せるけど、あなたがおとなしく戻ればこのお店は潰しませんって! そしてお兄ちゃんにたくさんのお客さんのデータとお金も渡しますって、そう言ったの! だから樹里ちゃんはここを出て行ったんだよ! お兄ちゃんと可乃子のために出ていったんだよ!」
「ま、そうとも言いますね」
眼鏡をかけた男は自分の嘘をあっさりと認めた。
「汚ねぇ真似しやがって……!!」
薫は犬歯を剥きだしにして男を睨みつけた。
「それに廻堂さん。あなたは先ほどから返してもらうと喚いておられますが、では実際にどうやって樹里さんを取り戻すのですか? 蕪利区画が誰でも簡単に入ることは出来ない特別な区画なことはあなたもご存知のはず。僕は六万坂の関係者ではないですから僕を締め上げてその引き換えに樹里さんを、と言った行為もまったく無意味です。だから今回直接関係の無い僕がここに残ってあなたへのご説明の役を引き受けることにしたんですよ。僕も早く研究資金が欲しいんでね」
「くっ……」
蕪利区画の特殊性を知っている薫は下唇を噛み締める。すると男はテーブルの上のICチップに今一度視線を移すよう、右手でそれを指し示した。
「樹里さんを取り戻そうとするのは諦めることです。人生に置いて何よりも貴重なものは時間ですよ。無駄なことに時間を費やすのは愚か者のすることです。このチップの中にある千人すべてをあなたの顧客とするのは難しいかもしれませんが、それでもこれだけの情報があれば、この店の経営を軌道に乗せるための心強い武器となるはずです。あなたはこれを受け取るべきだ」
薫は獰猛な目つきで眼前の男を射抜く。
「……要らねぇ。持ち帰れ」
「分からない人ですね、あなたも」
「うるせぇっ!!」
頭に巻いていた白手拭いを床に叩きつけ、気短で強暴な男は今にも殴りかからんばかりの鬼気迫る形相で吼える。
「金もデータも要らねぇって言ってんだよ!! いいからあいつをここに連れて来い!!」
「それはできかねると先ほどから言っているじゃないですか。あの方にはやらなければいけないことがあるのです。僕の研究資金の出資の許可とかね」
「そんなことは知ったこっちゃねぇ!! とっととあいつを連れて来いって言ってるのが聞こえねぇのか!?」
狂ったように吼える薫に、男は本当に救いようがないな、と言いたげな表情を浮かべた。そして眼鏡の奥の瞳に冷たい光を宿したままで尋ねる。
「廻堂さん、一つお聞きしますが、あなたには野心というものがおありですか?」
「あん!?」
「金がほしい、いい女を抱きたい、のし上がりたい、なんでも結構です。あなたにそのような野心はありますか?」
「何が言いたいんだよテメェは!?」
「あなたは弱小ながらもこの土地に店舗を持つ職人さんだ。いわば一国一城の主のようなものです。その主にお聞きしますが、あなたは女性の下着製作を請け負う職人としてさらなる高みを目指したいと考えていますか?」
「んなもん当たり前だろうが!! 俺はいずれ親父のような万能工匠になるって決めてんだ!!」
「お父さんのようなオールラウンダー、ですか……」
男の薄い唇がニヤリとした笑いを形作る。
「僕も耳にしたことがありますよ。確か一握りの職人しかなれない階級のことですよね。そしてあなたはそれを目指している」
「それがなんだっつーんだよ!!」
「いいですか廻堂さん。あなたがいくら声を大にして喚こうが、樹里さんをお返しすることはできません。ならば、あなたはご自身のその野心のためにこの現金とICチップを受け取るべきですよ」
「黙れや!! 要らねぇっつってんのが聞こえねぇのか!? あいつを金で売るみたいな真似ができっかよ!!」
「……廻堂さん。あなたにとって守るべき人は、樹里さんではなく、その隣にいる小さな妹さんではないのですか?」
男が可乃子を指さす。
薫はギクリとした表情で自分にピッタリと身を寄せている可乃子に顔を向けた。
「この世に血を分けた たった一人の兄として、妹さんに楽な暮らしをさせてあげたいとは思わないのですか? ご両親を失い、妹さんを育てていくとその心に決めたのならば、あなたはそれに向けてどんなことでもしなくてはいけないはずだ。違いますか?」
「くっ……」
長次郎に “ 汚いドブ水を飲んででも可乃子を育ててやる ” と啖呵をきった場面が薫の脳裏をよぎった。
ご家族を持つ男性の方にお聞きします
もし妻か子ども どちらかしか助けられない場面に
遭遇してしまったら あなたはどちらを助けますか
先々月の御簾舞区画。
スクランブル交差点で頭上から降りかかってきたあの悪趣味な質問が、今は避けられない現実となって薫を襲う。たった今まで煮えたぎるほどに熱くなっていたテンションが急激に冷えてゆくのを薫は感じていた。
吼えるのを止めて黙り込んだ薫に、男はさらなる説得を続ける。
「廻堂さん、考えを変えてみて下さい。これを樹里さんを売って得た報酬と考えるからいけないのです。これはあなたが手にすべき当然の報酬。その可愛らしい妹さんを守っていくために必要なものなのだと考えればいいのです。そうでしょう?」
正面の男が差し出している目には見えないマイク。それは正しい答えを拾おうと自分の口元にしっかりと向けられている。
そして男から求められている守るべき相手の名前と、自分が一番に守らなければいけないと思っている相手の名前は完璧に一致している。
後は「あぁ、分かった」と頷き、テーブルの上に置かれた物を手の中に収めるだけだ。それで全てが終わる。
「さぁお取り下さい。その現金とチップを。そして今僕に熱く話してくださったオールラウンダーになる、という野心をどうか抱き続けてほしい」
苦渋の表情を浮かべる薫を冷笑で煽ると男は音も無くソファから静かに立ち上がり、嘲るような表情で言う。
「僕に言わせれば野心を持たない男などクズも同然ですよ」
蔑んだ声でそう言い捨て、この場から去りかけていた男の背広に物凄い勢いで五つの札束がぶつけられた。
「……忘れモンだ」
背に当てられた札束がバサバサと床に落ちていく中、男がゆっくりと振り返る。
薫はそのわずかに驚いているような男の顔目掛けて、「こっちもな!」と顧客データの入ったICチップを全力で投げつけた。
── 頷くことが正解なのだと、それが長次郎から言い渡された最後の助言を聞き入れることなのだと、足りない頭なりに分かっていても、今の薫に、可乃子か樹里、どちらかだけを選ぶことなどできなかった。
どちらも大切で、どちらも決して失いたくない相手なのだ。
たとえ自分のこの手が片方しか助けられない力しか無かったとしても。
「……いいでしょう」
投げつけられた現金をかわせなかった男は、ICチップは片手でうまく受け止めてすぐ側のダイニングテーブルの上に放り投げる。
「では現金の方は僕がいただいておきます。非常に微々たる額ではありますが研究資金の足しにでもさせてもらいますよ。そちらのチップは僕も要らないので壊すなりなんなりあなたのお好きなようになさってください」
「うるせぇ!! 何が野心を持たねぇ男はクズだ!! てめぇの方がよっぽどクズ野郎じゃねぇか!!」
「……あなたもなかなか言いますね」
男の瞳が冷酷に光る。
だが決して声を荒げない。
そしてその冷たい眼差しを小揺るぎもせず、また不敵な笑みを漏らした。
「ですが廻堂さん。その前に今一度よく考えてみたほうがいい。そのデータはあなたにとって金脈のようなものだ。妹さんとの今後の生活や、あなたの野心のためには必要不可欠な物のはずです。その場だけの感情に流されては後々後悔するだけですよ。今のあなたはこの店の主なのですから。では」
男が廻堂家を出て行くと、また可乃子が泣き出した。
「お兄ちゃん、私たちもう樹里ちゃんには会えないの……?」
しくしくと泣く可乃子に、薫は歯を食いしばり、ただ黙って頭を撫で続けてやることしかできなかった。




