55. てめぇ絶対にそこを動くんじゃねぇぞ
12月15日。
今日は土曜日なので学校が休みの可乃子は朝から家にいる。
昼食を取りに店から家へと戻ってきた薫が台所をのぞいてみると、そこには樹里と可乃子が仲良く並び、一緒に昼食を作っている後ろ姿があった。
この家に来たばかりの頃は、それを食した薫が真後ろに脳天からダイブしそうなほどの珍妙な料理を作っていた樹里も、可乃子の愛のある厳しい特訓で、言いたい文句を何とか飲み込んで食べられる程度のレベルにまで上達している。
「あ、お兄ちゃん来たっ! ちょっと待ってて!」
「もうすぐ出来るよ薫。そこに座っていてね」
「あぁ」
食卓に頬杖をつき、昼食が出来上がるのを待つ。
二人で何やらお喋りをしながら楽しそうに作っているその光景が、かつて母と三人家族だった頃の風景に重なり、柄にも無く傷心的な気持ちになった。
「お兄ちゃん、今日はお客さん来た?」
可乃子は茶碗に大盛りの白米を装い、それを薫に手渡す。
「午前に二人だな」
「注文取れた?」
「片方だけな」
「……最近お客さんあまり来ていないみたいだけど、大丈夫、お兄ちゃん?」
「大丈夫だ、お前は何も心配すんな」
力強く断定し、飯を掻き込む。
しかし不安は感じていた。
50%OFFのキャンペーンを終え、じりじりと下降線を辿っていた店舗の客足は更にその加速度を上げてきている。ネット注文の方はそこまで露骨に受注が落ち込んでいないのが救いだが、これもいつその波が途絶えるかは分からない。
薫がこの先も下着職人でいられるかどうかの運命の天秤は、まだどちらの未来にも振り切れていない状況だ。
「お兄ちゃん、ちょっといい?」
昼食を終えて店に戻ろうと廊下に出ると、可乃子が小声で近寄ってくる。
「なんだ?」
「お兄ちゃん、まさか忘れてないよね? 今日が樹里ちゃんの誕生日なこと」
八月下旬の妊娠騒ぎの時に産婦人科で書かせた問診表で、樹里の誕生日を可乃子よりも早く知っていた薫は頷く。
「おう、覚えてるぜ」
「へー忘れてはいなかったんだ? でもどーせお兄ちゃんのことだからさ、なーんにもプレゼントを用意してないんでしょ?」
「アホか。あいつはもう二十歳を過ぎてんだぞ? 子どもじゃあるまいし、いまさら誕生日ってトシじゃねぇだろ」
「ホントお兄ちゃんはオンナ心が分からないんだから! 可乃子は妹として情けないよっ」
デリカシー0の兄に憤慨しているという気持ちを確実に伝えるため、可乃子は少々大げさにそのすべすべとした両頬を膨らませてみせた。
「お兄ちゃん。女の子ってね、なーんとも思ってない男の人からすっごく高いステキなお花をもらうより、大好きな男の人からもらったタンポポの方が、何倍も、何十倍も嬉しいんだよ?」
「……」
「なんにもプレゼント用意していないならさ、せめて、 『 誕生日おめでとう。樹里と出会えて俺は幸せだ 』 ぐらいはちゃんと言ってあげてよね! 分かった!?」
「い゛!? いっ言えるかっ! そんなこっ恥ずかしい真似が出来るわけねぇだろ!?」
樹里に甘い決めゼリフを口にすることを激しく拒絶する薫に、可乃子はハアッと肩を落とすと大きな溜息をついた。
「……ホントお兄ちゃんはダメだなぁ……。男の人ってさ、自分の人生の中で “ ここだ! ” ってビシッと決めなきゃいけない、大事な時ってあるんでしょ? 今日からお兄ちゃんと樹里ちゃんは一緒のお部屋で寝るんだし、可乃子はまさに今夜がお兄ちゃんのその決め時だと思うんだけどな」
「バカ野郎何が決め時だ!! くだらねぇこと言ってんじゃねーよ! どうせまた例の番組の受け売りなんだろうが! あのエロ番組、昨日で終わったんだってな!? ざまぁみろってんだ!!」
ズバリと見抜かれた可乃子はプイと顔を背ける。
「実は可乃子、樹里ちゃんを驚かせようと思ってバースデーケーキ予約しておいたんだよね。でも可乃子が取りに行くと樹里ちゃんに出かける先を言わなきゃいけないし、不自然でしょ? だからお兄ちゃん、お店を閉める時にパーッと行って取ってきてね! 駅前の “ メルクルン ” っていうケーキ屋さんだからっ」
「駅前だと!?」
使いっ走りにされそうなだけではなく、その出動先の距離にも不服な薫は、当然の如く目の前の小さな将校に文句をつける。
「なんでそんな遠い所に頼んだんだよ!? すぐ近所にケーキ屋はあるだろうが!」
「だってメルクルンのケーキすっごく美味しいんだもんっ! お兄ちゃんは車があるんだからいいでしょっ」
「……お前、最初から俺に行かせる気だったな?」
「せいか~い! じゃあお願いねお兄ちゃん!」
三つ編みを揺らし、小さな手を可愛らしく振ると、可乃子はさっさと樹里の下へと戻っていってしまった。
追いかけて毒吐きを続行すれば樹里にも内容を聞かれてしまう。
しょうがねぇな、と独り言を言いながら薫はサクラを連れて店に戻った。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
午後七時が近くなり、店を閉める準備を始めた薫に、樹里が「手伝うね」と店舗に顔を出してくる。
「いい。すぐに終わるからお前は可乃子を見てろ」
「でも……」
「いいっつってんだろ。おら、さっさと向こうに行けや」
そうつっけんどんに言い捨てて店舗から樹里を強引に追い出し、21にもなる女にこんなことする必要があんのかと思いながらも、メルクルンという駅前のケーキ屋までバースデーケーキを取りに向かうことにした。
「おいサクラ。行くぞ」
男に二言は無いと先日言った通り、相棒にそう声をかけたが、いつもはあれほど薫と行動を共にしたがるサクラが、なぜか 『 いえMyマスター。サクラはここに残ります 』 と言い出した。
「あ? なんでだよ」
『 サクラも一緒に出かけてしまうと、樹里様にバースデーケーキを取りに行くのがバレてしまうかもしれません。でもサクラがあなたとご一緒しないでここに残っていれば、樹里様もMyマスターが駅前まで出かけたとはきっと思わないでしょう 』
そのサクラの提案に、内心ではなるほどと思いつつも薫は舌打ちをする。
「チッ、ヘンな所で空気を読む奴だなお前は。いつもはまるで無頓着のくせによ」
『 お褒めいただきありがとうございますっ! 』
「褒めてねーよ!! 皮肉も分かんねーのかてめぇは!!」
『 Myマスター、サクラは女ですのでテメェという言葉は… 』
「あー分かった! 分かったっつーの!! 言葉は正しく使えってんだろ!? ったく……」
薫は苦々しげな表情で渋々と引き下がる。
サクラの提案を受け入れた薫は一人でケーキ屋へと向かった。
駅前まで車を走らせてメルクルンという洋菓子店に入り、商品を予約をしていたことを伝えると、すぐにきれいな化粧箱に入れられたバースデーケーキを渡される。
「とても崩れやすいので持ち運びの際はお気をつけてお持ちください」
と、丁寧ではあるが必ず厳守すべき注意を店員から受け、車へと戻る。
可乃子の話を思い出し、家に戻る前に俺もあいつに何か買ってやった方がいいのか、とも考えた薫だが、何をやればいいのか皆目検討がつかない。
花を贈るのが無難で定番だとは分かるのだが、このまま花屋に寄って薔薇の花束を注文する自分を想像しただけで気恥ずかしさで体中が痒くなりそうだった。
── ま、来年だな
樹里に何をやるのかを来年の誕生日にまで持ち越す事に決め、助手席にケーキの箱を置く。
帰りは少しスピード落として走らねぇとケーキがグチャグチャになっちまうな、と思った薫が車をスタートさせようとすると携帯が鳴った。自宅からだ。
「おう、可乃子か? 今取ってきたからもうちょい待て。すぐ帰る」
携帯を耳に押し当てそう応答した時、「お兄ちゃん……」と可乃子が薫を呼んだ。その声は間違いなく泣き声だ。
「ど、どうした可乃子!?」
「樹里ちゃんが……、樹里ちゃんが男の人たちに連れて行かれちゃった……」
「な、なに!? どういうことだ可乃子!」
しかし可乃子は答えない。
「おい可乃子!? どうした!? 返事をしろ!!」
「……廻堂、薫さんですね?」
冷静、というよりは冷徹に近いような感情の無い声が聞こえてくる。
「誰だてめぇ!?」
「六万坂グループの者、といえばあなたもお分かりになるのでは?」
「なに!?」
危うく携帯を取り落としそうになる。
「あいつをどこにやった!?」
「今この電話で話しても埒があかないでしょう。僕はここであなたをお待ちしているので早くお戻りください」
「てめぇ!! 可乃子に何かしたわけじゃねぇだろうな!?」
「いえ、妹さんに乱暴な事などは一切しておりませんのでどうかご安心を。我々が樹里さんを連れ出したのでそのショックで泣かれているだけです」
今すぐにはどうにも出来ない状況に、薫はギリギリと奥歯を噛み締める。
「今すぐに戻ってやる! てめぇ絶対にそこを動くんじゃねぇぞ!?」
「はい、お待ちしております」
乱暴に携帯を切ると車中に投げ捨て、薫はアクセルを踏み込んだ。
車を急発進させたせいでタイヤに擦られたアスファルトが魔物の断末魔のような悲鳴を上げる。
その拍子に助手席から前方に飛び出した化粧箱がダッシュボード下の隙間に転がり落ちていった。
店員のせっかくの忠告も空しく、可乃子が頼んだ樹里へのバースデーケーキが化粧箱の中で瞬く間にその姿を別の醜い形に変えていく。
化粧箱上面の透明な飾り窓からそんな無残な姿が覗いていることにも気付かず、薫は険しい表情で家へと車を飛ばし続けた。