第一話 僕がヒトだった頃
「いいかい、アル。魔法というのはね、誰かを傷つけるための力じゃない。冷えた手を温めたり、暗い夜道に灯りを点したりするための……人間が生きるための温もりの技術なんだよ」
穏やかな午後の陽光が差し込む小さな薬草店。
やわらかな金髪を束ねた女性が、小さな少年——アルの頭を優しく撫でながら、慈愛に満ちた笑顔を浮かべていた。
女性の名は、クラウス。
この辺境の村で薬草医を営む、心優しい魔導士だ。
そしてアルにとってクラウスは、身寄りのない自分を拾い、文字を教え、魔法の教導をしてくれた、実の母親であり「恩師」であった。
クラウスが扱う魔法は、決して大それたものではなかった。
怪我を癒やす小さな光、薬草の抽出を早める温熱、枯れかけた花を咲かせる生活の術。
しかし、アルにとってその小さな光こそが、世界のすべてであり、目指すべき理想だったのだ。
「はい、クラウス先生! 僕、もっと勉強して、先生みたいにみんなを助けられる立派な魔導士になります!」
「ふふ、頼もしいねぇ。だが無理はいかんよ。人間、笑って暮らせるのが一番なのだから」
そんな、穏やかで満たされた日常。
それが、ある日突然、地獄へと姿を変えた。
◆
言葉にならない違和感が村を包んだのは、雲一つない快晴の正午だった。
空が歪み、見たこともない光の柱が村の中央広場に降り注いだ。
眩い光が収まったあと、そこに立っていたのは——奇妙な衣類に身を包んだ、五人の若い男女だった。
男子が三人。女子が二人。
村人たちが何事かと集まり、クラウスが慌てて彼らのもとへ駆け寄る。アルもまた、師の背中を追って広場へと走った。
「あの……旅の方々とお見受けします。一体どちらから……」
クラウスが温厚な笑みを浮かべ、穏やかに声をかけた。
しかし、返ってきたのは対話の言葉ではなかった。
「ん? なにこのボロい村。本当に異世界転移したのかな?」
中央に立つ、黒髪の男——物語に出てくる勇者のような風貌をしたリーダー格の男子が、鬱陶しそうに周囲を見回した。その瞳には、目の前の人間に対する敬意も、困惑すらもない。ただ、道端の虫を見るような、冷酷で圧倒的な選民意識だけが宿っていた。
「うわ、マジで服とか汚いんだけど。衛生概念なさそう。ねえ翔太(黒髪の男)、私こんなゴミ溜めみたいな村に一秒もいたくないんだけどー」
華美な装飾のついた杖を持った少女——回復役と思われる女子が、鼻をつまみながら吐き捨てる。
「落ち着けよ聖奈。まあ、まずはチュートリアルだろ。ステータス確認して……うわ、俺の攻撃力マジでバグってね? ちょっと試していい?」
ガタイのいい男子——大剣を担いだ戦闘狂が、ニヤニヤと下品な笑みを浮かべた。
「おい大樹、いきなり暴れるなよ。まあ、NPCの耐久度くらいは確認しておいた方がいいかもしれないけどね」
後方でニヤニヤと嘲笑う、魔法使い風の男子。
そして、退屈そうに爪を弄くり回している、弓を持った少女。
五人は、目の前にいるクラウスや村人たちを、同じ「人間」として見ていなかった。
彼らにとって、この世界も、そこに生きる人間も、すべては買い与えられた「ゲームの駒」に過ぎなかったのだ。
「あの……お若い方々、何を言っておられるのか……」
クラウスが困惑しながらも、争いを避けようと一歩踏み出した、その瞬間だった。
ズドンッ!!!!
地響きとともに、衝撃波が駆け抜けた。
大剣を担いだ男——大樹が、ただ「武器を振っただけ」の動作で、周囲の家屋が数軒、木っ端微塵に吹き飛んだのだ。巻き込まれた村人たちの悲鳴と肉片が散らばる。
「ヒャハハハ! マジかよ! 手応えゼロじゃん! かるーく振っただけだぞ!?」
「きゃーっ! 大樹くんすごーい! 一瞬でレベル上がりそう!」
惨状を見て、歓声をあげる異世界人たち。
アルの思考は完全にフリーズした。目の前で起きた光景が理解できなかった。血の匂いと、散らばった死肉の臭いが鼻を突く。
「なにを……何をされているのですか! 狂気だ……こんな理不尽な殺生が許されるはずがない!」
クラウスが見たこともない激憤の表情で異世界人たちに叫んだ。
華奢な身でアルをかばうように前に立ち、小さな杖を構える。せめてアルや村人たちを逃がすための時間を稼ごうと、必死に生活魔術の応用で光の壁を作り出した。
しかし——
「ハッ、NPCのくせに威張ってんじゃねえよ。ゴミが」
大樹が、鼻で笑いながら大剣を横一文字に振るった。
クラウスの渾身の防護壁は、ガラス細工のようにあっけなく砕け散った。
それだけにとどまらず、刃はクラウスの胸元を深く切り裂いた。
「キャぁぁぁぁぁっ!?」
「先生っ!? クラウス先生ぇぇぇっ!!」
大量の血を吹き出しながら倒れ込む恩師に、アルはなりふり構わず駆け寄った。
抱きかかえたクラウスの体は、恐ろしいスピードで冷たくなっていく。
「やめろ……やめてくれ! 僕たちになにをしたって言うんだ! 頼む、助けてくれ……! 誰か魔法を使えるんだろ!? 先生を助けてくれ!!」
アルは、杖を持った少女——聖奈に向かって、地面に額を擦り付けながら必死に乞うた。
彼女の持つ杖からは、強力な神聖魔術を感じ取れたからだ。彼女の治癒魔法なら、きっと先生を助けられる。
「ねえ、翔太。あの汚いガキがなんか言ってるんだけど? 助けてだってさ、ウケる」
「ほっときなよ。第一、そのボロい女の血が服に跳ねたらどうするんだ。汚いゴミに貴重なMPを使う価値なんてないだろ」
翔太と呼ばれたリーダーの男は、冷ややかな瞳で二人を見下ろすと、心底退屈そうに息を吐いた。その瞳の奥には、人間に対する慈悲など微塵も存在しなかった。徹底的な冷酷さと、完璧な計算。彼にとって、クラウスの死は「どうでもいい事象」の一つに過ぎなかったのだ。
「そうよねぇ。ゴミはゴミらしく、さっさと死ねばいいのに」
聖奈はクスクスと笑いながら、アルの手を踏みにじった。ゴリ、と骨の折れる音が響くが、アルは痛みすら感じなかった。ただ、世界が真っ黒に染まっていく感覚だけがあった。
「アル……にげ……なさい……」
瀕死のクラウスが、震える手でアルの頬に触れた。
温かかったはずの、大好きな手が、氷のように冷たくなっていく。
「先生……先生! いやだ、死なないで! 僕を置いて行かないでくれ!!」
「怒りに……呑まれるな……優しく……立ち……なさい……」
それが、恩師の最後の言葉だった。
最後まで自分を案じ、自分に「人としての正しさ」を説き続けた、世界で一番優しい女性の、呆気なさすぎる最期。
クラウスの瞳から光が消え、手が力なく地面へと落ちた。
「あ……ああ……ああぁぁぁぁぁぁぁっ!!!!」
アルの口から、獣のような絶叫が漏れ出た。
「うわ、うるさ。まとめて死ねよ」
大樹が鬱陶しそうに大剣を振り下ろした。
次の瞬間、アルの胸と腹に鋭い衝撃が走り、視界が大きく傾いた。
クラウスの遺体に重なるように倒れ込むアル。胸から溢れ出る大量の赤。
自分の命が、クラウスの命とともに潰えようとしていることを、アルは冷ややかに理解した。
「よし、村の探索はこれくらいでいいだろ。次、もっと強いモンスターがいる街に行こうぜ」
「そうだね。時間の無駄だ。行きましょう」
異世界人たちは、自分たちが踏みにじった命のことなど一秒後には忘れ去り、楽しそうに笑い合いながら去っていく。
血の海の中で横たわるアル。
視界は急速に暗闇へと呑まれていく。隣には、冷たくなった大好きなクラウス先生。
(優しい人になれ……? 怒りに呑まれるな……?)
恩師の遺言が、頭の中でリフレインする。
(無理だ……無理だよ、クラウス先生……! あんな化け物どもを……あいつらを許して、どうやって生きていけっていうんだ!!)
先生と一緒に死んでいく。その圧倒的な理不尽と絶望。
そして、それを遥かに塗りつぶす、ドス黒い憎悪。
(許さない……許さない許さない許さない許さない許さない!!!!)
心が、魂が、激しい怨念によって焼き焦げていく。
人間としての感情が死に絶え、黒く濁った殺意だけが胸の空洞を満たしていく。
(死にたくない……! あいつらを殺すまでは……絶対に死ねない……!)
その時、アルの頭の中に、生前クラウスから繰り返し叩き込まれた「魔術の基礎理論」が閃光のように駆け巡った。
——『いいかいアル。魔法っていうのはね、体内の魔力回路をどう循環させるか、そしてそれをどんな「願い」で変質させるかなんだよ』
クラウスが教えてくれたのは、人を癒やし、温めるための回路の動かし方だった。
しかし、アルはその回路を、絶望と憎悪の渦の中で強引に暴走させた。
(人を癒やす回路を、逆転させる……! 命を育む回路を、死気で満たす……!)
息絶える直前、アルの胸の傷口から、ドロリとした漆黒の霧が溢れ出し始めた。
死んだはずの心臓が、ドクン、と不気味な脈動を打つ。
温かな魔法の知識が、泥のような怨念と交ざり合い、致命的なまでに歪んで再構築されていく。
光を奪うための闇。
命を育むのではなく、死を弄び、世界を壊すための術。
——【個体名:アルの生命反応の停止を確認】
——【死の直前における魔導回路の可逆変質、および過剰な怨念の充満を検知】
——【条件を達成。自力昇華により上位アンデッド『怨導士』へ転生します】
頭の中で、冷徹な声が響いた。
アルの瞳から生気が完全に失われ、代わりに青白い怨霊の炎が灯った。
だらりと垂れ下がった自分の右手を見る。皮膚は蒼白に透け、爪は鋭く尖り、周囲の死気を吸い上げて黒く蠢いていた。
自分はもう、人間ではない。
クラウス先生が愛してくれた「アル」という人間は、あの瞬間に死んだのだ。
先生の教えを、自らの憎悪で泥塗って手に入れた、醜い死霊術士として生き返ったのだ。
「クラウス先生……ごめんなさい」
アル——いや、死霊として転生した『それ』は、隣に横たわるクラウスの冷たくなった身体をそっと抱きしめた。
「僕は、あなたの教えを守れませんでした。優しくなんていられない。……僕は、悪魔になります」
黒い霧が、クラウスの遺体を優しく包み込む。
師から教わった魔導回路を逆転させ、注ぎ込む死霊術。
本来であれば決して許されない、愛する恩師への冒涜。
しかし、いまや死導の力を得たアルには理解できていた。
「あなたの無念を……僕たちの奪われた時間を……奴らに何倍にもして返します。だから……僕に力を貸してください」
怨念の魔力が注ぎ込まれると、クラウスの瞼がゆっくりと開き、その美しい瞳に青い霊火が灯った。
カチ、カチと音を立てて起き上がる恩師の骸。
アルは、ガタガタと震える自分の手を見つめ、冷酷な笑みを浮かべた。
異世界人ども。
チート能力を鼻にかけ、人間を虫ケラのように殺した、愚かな五人の悪魔たち。
「今は残り少ない余生を楽しめばいい……」
アルは、蘇らせた恩師の骸とともに、異世界人たちが去っていった方角へと歩み出した。
「お前たちが奪ったこの世界で……最高に惨めで、残酷な『死』をプレゼントしてやるから」
こうして、恩師とともに一度殺され、死霊術士として転生した少年の、血と怨念に塗れた復讐劇が幕を開けた。




