天地人能力(スキル)
天地人能力。
それは、『人』という存在を規定する三態の要素を掛け合わせることで生み出される特殊な異能。
同系統の能力はあっても全く同じ異能はない。
それは神から与えられた恩寵ともいうべきものであるのに、真教連は自らの闇の歴史に葬り去ったはずの黒魔術と同義であるとし、信徒に能力の発現・使用を厳禁している。≪リ・セイバー≫がこの国の花形職業となった今、その規制の網は信徒でも何でもない人々にまで及ぼうとしていた。
それはともかく。
天地人能力は、読んで字の如く人の『天』と『地』と『人』で構成される。
「うっし!済んだぜ!」
トンが木製の脚立を畳んで、シルビアに告げる。
穴の開いた天井はしっかりと木板で塞がり、雨粒を入れる隙間は一つもない。トンによる完璧な天井の修理だった。
「ありがとう……ございます!」
シルビアがはにかみながら頭を下げる。
ふと、彼女はトンの足元に見慣れぬ紙切れが落ちているのを視界が拾う。
「これ、なんだろう」
シルビアがそれを、今度は手で拾う。濡れて冷えた感触が指先から伝わる。
トンの懐に入っていたものが落ちたのだろうが、当然雨に濡れて書かれていることは判読不能だった。
「あー、そいつは、丘の上の教会の神父からの紹介状だ。俺が≪リ・セイバー≫であることを証明するため、だとかなんとか」
それを見るトンはそう言えばそんなのがあったな、とさして重要な書類を見る目じゃなかったが、急におっ!と何かを思いついたように拳を握りしめた。
「俺の天地人能力を見せるよ」
そう言うと、トンは手にしたトンカチを書状に当てた。
蒼き瞬きが書状を照らし、トンカチを外すと、当てた部分がしっかりと乾いていた。
そして滲んだ文字もくっきりと蘇っていた。
「すごい……」
その鮮やかな「修理」にシルビアはつい感嘆する。
「ま、こいつが俺の、“悪魔の槌”と並ぶもう一つの武器だ。『破壊と再生の環』」
天地人能力。
それは、人を形成する三体が掛け合わされることで生み出される超常の力。
天分――――個々の才能、性格など、その個人がもともと生まれ持ったもの。
地分――――字義通り生育環境や居住する場所に加え、個々人が後天的に身に付けた学問や技術体系も加わる。
人分――――周囲の人々との関係性、新密度の度合い。
以上三つのパラメータが増幅され掛け合わさると、己しか持ちえぬ天地人能力を発現することができる。
生じる異能は三体の融合物なので、例えば全く同じ『天』を持つ者がいたとしても『地』と『人』がそれぞれ違っていたら、生じる能力は別物になる。仮に似たような能力が発現しても、発動条件や細かな効果に必ず差異が生じる。
「俺の能力は、真円の中に納まる物体を、直したり破壊できたりする能力、『破壊と再生の環』だ。
壊れているものは復元できて、元から異常の無いものは破壊できる。
『壊す』と『直す』は交互にやんなきゃいけなくて、『壊す』能力を使ったら次は『直す』能力しか使えない。逆もまた然りだぜ。
あとは人間や生き物に対しては行使できない、ってとこが、まあ、この能力のルールだ」
トンは「直した」紹介状をピラピラと振ってからシルビアに渡した。
受け取ったシルビアは、紹介状の端に書いてある名前でその神父の名を知る。
「敬具 セミョーン・ブーニン……デオイア州オルカナ群キース1342番地……真暦1865年8月9日生まれ……好きな食べ物はオニオングラタン、好きなタイプは小悪魔系、好きな花言葉は『予期せぬ出会い』……」
「あ、ああ、別にいいんだそこは読み上げなくて」
トンが顔をしかめて言った。
ヘンな部分を修理してしまった、というような表情だ。
「てかあのエロ神父、小悪魔系とか明らかにシルビアとタイプ違うじゃねえか……花言葉はバリバリ意識してんのに、」
トンが何やらぶつぶつ言っている。どうやら独り言のようだ。
ぶつくさ言い終わると、トンはシルビアに向き直って、ちょっと真面目な顔になる。
そうだ、と、シルビアはさっきのトンの説明を聞いて気になっていたことを尋ねてみる。
「その……わたしの家の鍵も、今説明した能力で、壊して中に入ったんですか?」
「いいや、お前の家の鍵にこの力を試してみたが、効かなかった。
一応俺の能力は、能力者が生み出した物体にも効果あるんだけどな。
相当強い『天』の力だぜ」
「正直、すごいよ、お前の力。
これから成長すれば、人の役に立つ力に発展させられるかもしれねえ」
思ってもみなかったことを言われて、シルビアは少し面喰らう。
「でも、わたしの能力は暴走が……」
「それだって、これから『地』や『人』で補正をかけていけば大丈夫さ」
大丈夫だ。
トンの笑顔を見ると、その言葉をずっと信じていられるような気がする。
なんだか胸がドキドキしてきて、恥ずかしさを覚えてきたためか、シルビアは視線を逸らして話題を変える。
「じゃ、じゃあどうしてこの家に……」
「どうしてって、それは……ぐ、ぐがあっ」
――――急に、トンがまた頭を抱えだした。
さっき『鍵』がトンの懐から落ちた時と同じだ。
……まさか。その『鍵』が。
だが今はそんなことを考えている余裕はない。シルビアはトンを心配する声を上げた。
「トン!大丈夫ですか!?」
「……むちゃくちゃ痛てえ。お前のせいだ」
頭を抱えながらそうつぶやくトンの顔も、声も、冷え切っていた。
シルビアは、途端に熱を孕む体の体温が急激に下がっていくのを感じた。
「ごめん、なさい……」
「全くだぜ。俺は頭が痛てえ。もう一歩も動けねえよ。だから今夜は…………ここで寝るぜ!」
叫ぶと、トンはシルビアの部屋のベッドに飛び込みシーツを引っ掴んで体を潜り込ませる。
皺ひとつなく伸ばされていたシルビアのお気に入りのシーツがくしゃくしゃになってトンの体を隠す。
「え、え、え~~!?」
思わずベッドに駆け寄り、トンが被るシーツに手をかける。
そこからちょっと覗いた彼の顔は、寝床を確保できて喜色が満面に満ち溢れていた。
「ちょ、ちょっと、トン……」
「俺がここにいたら、嫌か?」
「え、えと……実は、とっても、すごく……嬉しいです」
上気する頬を隠すことを観念して、シルビアは真っすぐにトンを見つめて言った。
――――なぜか今度は、トンが慌て始めた。
「おおおお前、まさかマジにそんな恥ずいことをッッ!」
「え……?あ、ああ、」
目の前の相手の反応に釣られて、一時的に嬉しさよりも羞恥が勝ってしまい、シルビアは真っ赤な顔を隠すように俯いた。
よくよく考えてみれば、今日トンを泊めるということは、男の人と同じ屋根の下で過ごすということ。
それってつまり……。
つい先日まで彼女は引きこもりだった。その有り余る時間を読書に費やし得た知識が警鐘を鳴らす。
なんだか自分は、とんでもなく恥ずかしいことを承諾したのかもしれない……!
そうだ。一回断ろう。いや、別にトンが嫌とかそういうわけではない。ただ一回は断り、何度か押引きしてようやく承諾したって形にした方が良い……って確か何かの本で得た知識が脳内でこだましている。
シルビアはわわっとトンに駆け寄る。
しかし、時すでに遅し。
トンはシーツの中でいびきをかいてぐっすりと眠っていた。
優しい寝顔に、慌ただしかった心がすうっと落ち着いていく。
そうだ。今日出会ったばかりだけど、わたしはトンがここにいてくれて嬉しい。
彼がここにいてくれるっていうのに、そこに形だけの駆け引きを差し挟む必要なんてないはずだ。
今日はありがとう、トン。
今、なんだかすごく幸せです。
シルビアも、ゆっくりとトンと同じ寝床に入って、瞼を閉じた。
◇ ◇
「おーい、起きろよネボスケ」
朝。
胸を圧迫される感じに違和感を覚えて、眉根を寄せて目を開けると、トンが顔を近づけて早く起きろとしきりに催促していた。
「ようやく目ェ覚ましたか。全くよ、どこを触っても起きねーんだから」
その言葉の後に、トンが馬乗りになってシルビアの胸をもみしだいていることに気付いた。
「え……ええっ!?」
シルビアは思わず素っ頓狂な声を上げる。
でも、彼女とて想定の埒外というわけではない。決心なら昨日ついている。
「おらー、起きろー、よしよし」
むにむにとトンがシルビアの胸をもむ。推定Cカップの彼女の胸に、トンの指先が次々に吸い込まれていく。
あくまでトンは悪ふざけの延長線って感じだが……
シルビアは、本気だった。
彼女は据わった眼でトンを見つめて……
「あの、覚悟は、できてます……!はい!」
目を閉じて、トンを待つ。
――――やはり今度はトンが慌てだした。
「うおっちょっと待ておお俺まだそんな経験っなななないんでくぁwせdrf」
なんか言葉にならない呻きを発して、ベッドの上から転げ落ちた。
あれ、何だかわたし間違っちゃったかな……。
シルビアは普段のくせで、本に書いてあった誘い方を真似してみた自分に手抜かりがあったのではないかと考えてしまう。
トンは自らの失態を隠すかのように、荷物をいそいそとまとめ出した。
トンは、この家を出るという。
とはいっても一夜明けたので、一旦丘の上の教会に戻り、トンにシルビアを紹介してくれたというブーニン神父に昨日の≪ドレイグ≫襲撃の件を報告しに行くそうだ。
それにしても今更だが、シルビアはトンにもブーニン神父にも今まで会ったことがなかった。それなのにどうして紹介状なんて用意されていたんだろう?トンと出会ったのはあくまで窮地を助けてもらったから、偶然のはずだったが、まるで必然みたいな出会いではないか……。
そんなことをふと考えている間に、トンは玄関を出ようとするところだ。
「そんじゃ、行ってくる。昨日の俺サマの活躍を報告して、点数をもらわなきゃな」
「はい。気を付けて。……あの、いつ帰ってくるんですか?」
その問いに、一瞬の間をおいて、トンは答えた。
「そう長くはかからねえさ!夕餉には戻ってくるよ」
「じゃあ、お夕飯作って待ってますね!」
シルビアは顔全体を輝かせて言った。
トンは一瞬まぶしい!といった感じで目を細めて後、静かに、言った。
「おう。頼むよ」
そう言って家の扉を開いて外へ出る彼の背中を、シルビアは心からの笑顔で見送った。
彼の姿が扉の向こうへ消えた後、シルビアは半年分の食料が詰った家の倉庫へと向かう。
今晩のお夕飯は何にしよう。
二人分の夕食を作るなんて、生前、風邪で寝込んだ母の分を作って以来、久しぶりだ。
◇ ◇
夕刻になっても、トンは戻ってこなかった。
おかしいな、と思ってシルビアは窓の外を何度も確認する。
彼が帰ってくる気配はない。
夕餉の時刻をとっくに過ぎた。
拵えた二人分のオニオンスープはすっかり冷えている。
時計の針が、日付の変更を告げた。
≪ドレイグ≫が現れて、その退治にでも向かったのだろうか。
トンの身を案じる思いが募る。
翌朝を迎えても、彼は帰ってこなかった。
彼が「ただいま」と言って、この家の扉を開けることはなかった。