後編 中が空っぽの山
夜の救恤倉庫へ。勘定係の目が、二千袋の麦の山を数えます。
「殿下……! な、なぜ、このような夜分に」
クラウスの声が、裏返った。
広間の奥から、ディートリヒ伯爵が、あわてて出てきた。白いものの混じった髭を撫でつけながら、笑顔を作る。
「これはこれは、殿下。せっかくのお越し、ご連絡いただければお迎えにあがりましたものを。……愚息の婚約のことで、お騒がせいたしまして」
「婚約のことは、どうでもいい」
レオポルト殿下は、伯爵に目もくれずに、ヘレナを見た。
「アンゼル嬢。今の話を、もう一度聞かせてくれ。十六袋、と言ったな」
「はい」
ヘレナは、殿下の前に進み出た。膝は、もう震えていなかった。
「施し場には、八十四袋が運ばれていました。帳簿では、一日に百袋です。……それから、施し場に来ていた子が、教えてくれました。倉庫の裏の門から、夜になると、麦袋を積んだ荷馬車が出ていくそうです。ひと月で九回。いつも二台」
伯爵の笑顔が、わずかに引きつった。
「殿下、そのような貧民の子どもの話を、まさか――」
「私も、同じ話を聞いている」
殿下は、静かに言った。
「この秋から、王都の東の市場に、出どころの分からない麦が出回っている。それも、救恤倉庫の麦袋と、同じ縫い目の袋でな。……ここ数日、それを調べていた」
広間の貴族たちが、顔を見合わせた。
「ディートリヒ伯爵。今から、倉庫を見せてもらう」
「い、今からでございますか。夜分ですし、倉庫番も帰っておりまして」
「では、鍵を貸してくれ。数えるのは、こちらでやる」
殿下は、ヘレナのほうを向いた。
「アンゼル嬢。一緒に来てもらえるか。……君の目が要る」
*
救恤倉庫は、王都の東のはずれにあった。
石造りの、大きな倉だった。月明かりの下で、黒々とそびえている。表の門には、年老いた倉庫番が、ランプを持って待っていた。殿下の従者が、先に呼びに行っていたのだ。
「ハインツと申します。……この倉に、四十年おります」
倉庫番の老人は、深く頭を下げた。それから、ちらりとヘレナの後ろを見た。
「おや、アンネじゃないか」
「おじいさん」
アンネが、ヘレナの外套の陰から顔を出した。施し場から、ずっとついてきていたのだ。
「この子が、裏の門の荷馬車を見ていた子です」
ヘレナが言うと、ハインツは、しわだらけの顔をくしゃりとゆがめた。
「……そうか。お前も、見ていたか」
ハインツは、殿下の前で、もう一度頭を下げた。
「殿下。わしも、知っておりました。若さまの言いつけで、夜は倉を空けるように言われておりまして。……逆らえば、職を失います。孫もおりますので」
「責めはしない」
殿下は、短く言った。
「中を見せてくれ」
*
倉の扉が開くと、乾いた麦のにおいがした。
ハインツが、壁のランプに次々と火を入れていく。光が広がるにつれて、倉の奥が見えてきた。
麦袋の山だった。
天井近くまで、きっちりと積み上げられている。端から端まで、まるで壁のようだった。
「二千袋だ」
追いかけてきたディートリヒ伯爵が、息を切らしながら言った。
「ご覧ください、殿下。帳簿のとおり、麦はここにございます。施し場の十六袋は、運ぶ途中で、荷車から落ちでもしたのでしょう。それくらいのことで――」
ヘレナは、山を見上げた。
横に、二十袋。縦に、十段。
前から見える袋は、二百袋。
奥行きは、袋を並べて十列ぶん。ぎっしり詰まっていれば、ちょうど二千袋になる形だ。
けれど、ヘレナの胸の中で、何かが引っかかった。
「ハインツさん。梯子は、ありますか」
「ございますが……」
「上から、見せてください」
*
ヘレナは、梯子を上った。
殿下が、下で梯子を押さえてくれていた。アンネが、心配そうに見上げている。
山のいちばん上に、顔を出した。
上の段に並んでいる袋は、山の縁に沿って、ぐるりと一周しているだけだった。
その内側は、真っ暗な穴になっていた。
(……五十六袋)
ぐるりと並んだ縁の袋の数は、五十六。本来なら、上の段だけで二百袋あるはずの場所に、五十六袋しかない。
ヘレナは、梯子の上から、下を振り返った。
「殿下。この山は、中が空っぽです」
倉の中が、しんと静まった。
「前と後ろと横と上、それにいちばん下の段。外側だけに袋が積んであります。……中には、何も入っていません。外から見ると、二千袋あるように見えますが」
ヘレナは、目を閉じた。外側の面の数を、一つずつ足していく。前と、後ろと、左右と、上と、下。角で重なる袋を引く。
「本当にここにあるのは、八百四十八袋です」
伯爵の顔が、真っ白になった。
「千百五十二袋が、足りません。……今日、施しで運び出した分は、もう帳簿から引いてあるはずです」
殿下が、ゆっくりと伯爵を振り返った。
「冬を三つ越せる量、と聞いていた」
「そ、それは……」
「八百袋あまりでは、冬一つも越せない。……施し場の粥が薄かったのは、そのせいか」
*
その時、倉の裏手で、車輪のきしむ音がした。
「……来た」
アンネが、ヘレナの外套をつかんだ。
「十回目」
殿下が、従者に目で合図をした。従者たちが、音を立てずに裏の門へ回っていく。
しばらくして、裏の門のほうで、男たちの怒鳴り声と、馬のいななきが響いた。
引きずられてきたのは、荷馬車の御者二人と、その荷台だった。荷台には、麦袋が十六袋、積まれていた。
袋の縫い目は、救恤倉庫のものと同じだった。
御者の一人が、地面に膝をついて叫んだ。
「お、俺たちは、言われたとおりに運んだだけだ! 若さまに、東の市場の商人のところへ持っていけって! 代金は、若さまが受け取って……!」
クラウスが、倉の入り口で、立ちすくんでいた。
ヘレナを見た。それから、殿下を見た。口を開いて、何か言おうとして、声にならなかった。
「……勘定係のくせに」
やっと出てきたのは、それだけだった。
「数えられて困るような帳簿をつけるほうが、悪い」
殿下が、冷たく言った。
「ディートリヒ伯爵。クラウス。救恤の麦を横流しして、施しの粥を薄めた罪は、軽くない。……飢えた冬に、民の椀からひと匙ずつ盗んだのだからな」
伯爵とクラウスは、従者たちに両腕をつかまれて、倉の外へ連れ出されていった。
ハインツが、帽子を胸に当てて、黙ってそれを見送っていた。
*
夜明け前、倉の前の石段に、ヘレナは腰を下ろしていた。
隣で、アンネが、ヘレナの外套にくるまって眠っていた。荷馬車の数を、十回まで数えた子だった。
「アンゼル嬢」
殿下が、湯気の立つ椀を二つ持ってきた。ハインツが炊いてくれた粥だった。今度は、ちゃんと濃かった。
「……ありがとうございます」
ヘレナは、椀を両手で受け取った。冷えた指先に、熱がしみた。
殿下は、ヘレナの隣に腰を下ろした。
「足りない千百五十二袋は、王宮の倉から回す。この冬、施し場の粥は、去年と同じ濃さに戻す。……鍋も、六つに戻そう」
ヘレナは、目をまばたかせた。
「鍋の数を、ご存じだったのですか」
「去年は、私も施し場に立っていた。数えたわけではないが、今年は少ないと思った」
殿下は、少しだけ笑った。
「君ほどには、数えられない。だから、頼みがある」
「頼み、でございますか」
「この冬、王都の施し場をすべて回る。麦袋の数、鍋の数、並ぶ人の数。どこが足りていて、どこが足りないのか。……一緒に、数えてもらえないだろうか」
ヘレナは、手の中の椀を見つめた。
勘定係、と、ずっと笑われてきた目だった。
「……わたくしで、よろしいのですか」
「君でなければ、だめだ」
殿下は、眠っているアンネの頭に、そっと目をやった。
「それから、この子も。荷馬車を十回数えた子を、放ってはおけない。……ハインツの孫と一緒に、倉の手伝いをしてもらおうと思う。温かい寝床と、毎日の粥つきでな」
ヘレナは、思わず笑ってしまった。
笑いながら、目の奥が、熱くなった。
「アンゼル嬢」
「はい」
「君にも、数えられないものはあるのか」
ヘレナは、少し考えた。
夜明けの空に、星が残っていた。いくつあるのか、ヘレナには分かる。施し場の椀の数も、倉の石の数も、全部分かる。
けれど。
「……殿下が、今夜、わたくしの名前を呼んでくださった回数は、途中から、数えられなくなりました」
殿下が、粥を吹きかけたまま、固まった。
それから、耳まで赤くして、空を見上げた。
「……では、これからは、数えきれないくらい呼ぶことにする」
東の空が、白みはじめていた。
ヘレナは、温かい椀を抱えたまま、その光の数を、数えないことにした。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
外から見ると二千袋、上から数えると八百四十八袋。「勘定係」と笑われた目が、中が空っぽの山を見抜きました。
荷馬車を十回数えた少女アンネも、この話のもう一人の主役です。
前編・後編の二話で、少し長めにお届けしました。シリーズ「ふしぎな力を持つ令嬢たち」の一作です。ほかの令嬢たちのお話も、よろしければどうぞ。




