前編 帳簿の数、袋の数
「勘定係」と笑われてきた令嬢が、冬の施しの日に、倉庫の麦袋を見上げたとき。
前編・後編の二話で完結します。
施し場の列は、門の外まで続いていた。
冬のはじめの、よく晴れた朝だった。王都の東の広場に、薄い上着を重ね着した人たちが並んでいる。子どもの手を引いた母親。杖をついた老人。背中に赤ん坊をくくりつけた少女。
ヘレナ・アンゼルは、広場の端に立って、その列を見た。
百四十七人。
わざわざ数えたのではない。見た瞬間に、頭の中に数が浮かんでしまうのだ。
並んだ人の数。積まれた木の椀の数。鍋の下で燃えている薪の数。屋根の上で羽を休めている鳩の数まで。ヘレナの目は、見たものの数を、勝手に教えてくれる。
子どものころ、父の書斎で、床に散らばった豆を見て「三百八粒」と言った。家庭教師が一粒ずつ数えて、本当に三百八だったと青い顔をした。
けれど、婚約者のクラウス・ディートリヒは、それを喜ばなかった。
「また数えているのか。商家の勘定係でもあるまいし」
クラウスは、ヘレナの横で、うんざりしたように言った。
「伯爵家の妻になる者が、人の頭数など数えるな。品がない」
「……申し訳ございません」
ヘレナは、目をそらした。
数えないようにすることは、できない。だから、数えたことを口にしないようにしてきた。それだけだった。
*
ディートリヒ伯爵家は、王都の救恤倉庫を預かっていた。
救恤倉庫というのは、凶作の年や冬の飢えに備えて、王宮が麦を蓄えておく倉のことだ。毎年の冬、その麦で粥を炊いて、施し場で配る。今日は、その最初の日だった。
施し場の脇には、倉庫から運んできた麦袋が、壁のように積まれていた。
「見ろ、ヘレナ。今年も、我が家がこれだけの麦を守ってきた」
クラウスは、誇らしげに麦袋の山を指さした。
「帳簿では、倉庫に二千袋。冬を三つ越せる量だ。父上の管理のおかげだな」
ヘレナは、麦袋の山を見上げた。
そして、帳簿のことを考えた。
施し場に運ばれてきたのは、一日ぶん。帳簿では、一日に百袋を運び出すことになっている。
目の前の山は、八十四袋だった。
(……十六袋、足りない)
ヘレナは、口を開きかけて、閉じた。
数を口にするな、と言われている。運ぶ途中で、何かあったのかもしれない。数えまちがいかもしれない。そう思おうとした。
けれど、ヘレナの目は、数えまちがえたことが一度もなかった。
*
昼すぎ、施し場に、ざわめきが走った。
「レオポルト殿下だ」
人の列が割れて、背の高い青年が歩いてきた。地味な灰色の外套を着ているが、その後ろに従者が二人ついている。
王宮で、民の暮らしと救恤を預かっている、第二王子のレオポルト殿下だった。
殿下は、施し場の鍋の前で足を止めた。粥をすくう木の匙を、自分の手に取る。それから、列の先頭の老婆の椀に、自分で粥をよそった。
「寒い中、よく並んでくれた」
老婆が、目を丸くして殿下を見上げた。
クラウスが、あわてて殿下の前に進み出た。
「殿下。わざわざお越しくださるとは。ディートリヒ家のクラウスでございます。ご覧のとおり、今年も倉庫の麦は十分に――」
「十分か」
殿下は、鍋の中をのぞきこんだ。
「去年より、粥が薄いように見えるが」
クラウスの顔が、一瞬こわばった。
「そ、それは……今年は、並ぶ者が多うございまして。一人あたりを少しずつにいたしませんと、冬を越せませんので」
「帳簿では、冬を三つ越せる量があるのではなかったか」
殿下は、静かに言った。クラウスは、口をつぐんだ。
ヘレナは、二人のやりとりを、少し離れたところで聞いていた。
鍋の数。四つ。去年は、六つだった。
椀に入る粥の量。去年より、ひと匙ぶん少ない。
麦袋。八十四。
(……殿下も、何かがおかしいと思っていらっしゃる)
*
施しが終わって、日が傾きはじめたころ。
ヘレナは、施し場の裏で、ひとりの少女に袖を引かれた。
さっき、背中に赤ん坊をくくりつけていた子だった。十を少し過ぎたくらいだろうか。頬がこけていて、目ばかりが大きい。
「あの……お姉さん、さっき、袋を数えてたでしょ」
ヘレナは、どきりとした。
「どうして」
「目が、こう、上から下に動いてたから。うちのかあさんも、市場で卵を数える時、そういう目をするの」
少女は、アンネと名乗った。
「あのね。あたし、倉庫の近くに住んでるの。夜になると、裏の門から、荷馬車が出ていくの。麦袋を積んで。……施しの麦は、表の門から出るのに」
ヘレナは、息をのんだ。
「何回、見たの」
「ひと月で、九回。荷馬車は、いつも二台」
アンネは、指を折りながら言った。
「あたしも、数えるの、ちょっとだけ得意なんだ」
背中の赤ん坊が、ぐずりはじめた。アンネは、慣れた手つきで体をゆすった。
「妹なの。……かあさんは、春に死んじゃった。だから、施しの粥がないと、この子のぶんがないの」
ヘレナは、自分の手提げから、昼に食べるはずだった白いパンを取り出した。半分に割って、アンネの手にのせる。
「妹さんと、半分ずつね」
アンネは、パンを見つめたまま、しばらく動かなかった。それから、小さな声で言った。
「……お姉さんの分、なくなるよ」
「わたくしは、夜に夕食があるから」
アンネは、パンを二つに割って、片方を服の中にしまった。もう片方を、さらに小さくちぎって、赤ん坊の口もとに持っていく。
ヘレナは、その手もとを見ていた。
ちぎったパンのかけらは、十二個。アンネは、自分の口には、ひとつも入れなかった。
*
日が沈む前に、ヘレナは、ひとりで倉庫のある通りを歩いた。
石造りの大きな倉の、裏手にまわる。アンネの言ったとおり、小さな裏門があった。門の前の土には、車輪の跡が残っていた。
深くえぐれた跡が、二本ずつ。重い荷を積んだ荷馬車の跡だった。
その跡の上に、雨の跡が重なっているものと、重なっていないものがある。ヘレナの目は、ひとつずつ、それを数えた。
(新しい跡が、四本。……二台が、ゆうべ)
表の門から施し場へ向かう道には、今朝の荷車の跡しか残っていなかった。
ヘレナは、胸の前で、両手をぎゅっと握りしめた。
*
その夜、ディートリヒ伯爵家で、小さな夜会が開かれた。
施しの初日を祝うための会だった。広間には、伯爵家と親しい貴族たちが集まっている。テーブルには、白いパンと、焼いた肉と、甘い焼き菓子が山のように並んでいた。
(……施し場の粥は、薄かったのに)
ヘレナは、皿の上のパンを見つめたまま、手をつけられなかった。
広間の中ほどで、クラウスが、杯を掲げて声を上げた。
「皆さま、ひとつ、お知らせがございます」
広間が、しんとなった。
「私、クラウス・ディートリヒは、本日をもって、ヘレナ・アンゼル嬢との婚約を解消いたします」
ざわめきが広がった。何人かの視線が、ヘレナに突き刺さる。
「理由は、言うまでもないでしょう。人の頭数や袋の数ばかり数えている、勘定係のような女は、伯爵家の妻にふさわしくない。……今日も施し場で、ずっと麦袋を数えておりましたからな」
くすくすと笑う声が起きた。
「それに、聞けば、施し場で貧民の子どもと、こそこそ話していたそうではないか。伯爵家の名に、泥を塗られてはたまらん」
ヘレナは、ゆっくりと立ち上がった。
膝が、少しだけ震えていた。けれど、胸の奥は、不思議なくらい静かだった。
(黙って数えるだけの日は、今日で終わりにしよう)
「承知いたしました、クラウス様」
ヘレナは、広間を見回した。
燭台の数。二十四。客の数。三十一。テーブルに並んだ白いパンの数。百二十。
施し場に並んでいた人は、百四十七人だった。
「では、最後にひとつだけ、数えさせてください」
「なんだ。最後まで勘定係か」
クラウスが、からかうように笑った。
「はい」
ヘレナは、まっすぐクラウスを見た。
「今日、施し場に運ばれた麦袋は、八十四袋でした。帳簿では、百袋のはずです。……残りの十六袋は、どこへ行ったのですか」
広間の笑い声が、ぴたりと止んだ。
クラウスの手の中で、杯がかすかに揺れた。
その時、広間の扉のほうから、低い声がした。
「私も、それを聞きたいと思っていた」
振り返ると、灰色の外套の青年が、扉の前に立っていた。
レオポルト殿下だった。
前編をお読みいただき、ありがとうございました。
今回の令嬢の力は「数」です。見ただけで、ぴったりの数が分かってしまう。施し場の麦袋は、帳簿より十六袋少なかったようです。
後編では、夜の救恤倉庫へ向かいます。
シリーズ「ふしぎな力を持つ令嬢たち」の一作です。




