第二話 幽世の森
薄く開いた瞼の向こうに桜の花が揺れている。
この夏の盛りに?
頭が茫洋として思考が纏まらない。
戦場を離れて踏み込んだ山林の中で突如目の前に現れた黒い穴。
その穴にこの身は呑まれ、気を失ったようだ。
葉擦れの音だけが心地よく鼓膜を揺らし、戦場の音も血の匂いも感じられない。
あの穴はなんだったのか。
どれほど時が経ったのか。
――ここは何処なのか。
突然、ぼやけた視界の中に何かが飛び込んできた。
徐々に焦点が合う。
狐色の髪の毛がさらりと溢れ、大きな翠色の瞳が二つ、心配そうにこちらを覗き込んでいた。
その頭には大きな――狐の耳。
「……妖の類いか」
どうやら幽世に迷い込んだようだ。そう考えればこの奇妙な場所にも腹落ちする。
女の唇が薄く開き、声が発せられる。
「ヨゥレ フィナリ、ウィトゥス。タァケィト イージ」
その口から紡がれた言葉は紛れもなく異邦のそれだった。南蛮人の言語に近い気もしたが、そのいずれとも一致はしない。
怪訝な顔をする全登に、言葉が通じないことを悟ったのか自らを指差してたった一言を告げた。
「ヒスイ」
翡翠。
その言葉は自然と耳に染み込んだ。
全登を見つめるその瞳は、正しく翡翠色と呼ぶに相応しかったからだ。
言葉は通じないのにその意が奇妙な一致を見せている。
偶然か、はたまた別の因果か。
「お前は、翡翠と言うのか」
言葉が通じたのかは分からないが、女はゆっくり頷くと今度はこちらを指差した。恐らくこちらの名を問うているのだろう。
「俺は明石全登……いや」
考えながら体を起こす。
「――ジュストだ」
「ジュス……ト」
洗礼名を名乗るとヒスイは大きな耳をピクンと震わせてから、その名を復唱した。
それに対して首肯して見せると、ヒスイは花のように綻んだ。
すっくと立ち上がると数本歩いて振り返り、手を振ってくる。
「フロゥ メ」
ついて来い。そう言っているようだ。
少なくとも、ヒスイから敵意は感じられない。
行く当てはおろかここがどこなのかすら分からぬ以上、彼女に従う他は無い。
立ち上がり、その背を追う。
改めて見ると、ヒスイの服装もやはり日ノ本の物ではない。
釦で留める構造の服は宣教師や南蛮の行商人のそれの方が近いだろう。
何よりその腰からは狐のような尾が生え、ふさふさと揺れている。
狐狸に化かされたなどという与太話は幾度とも知れず耳にしたが、よもや我が身に降りかかろうとは思わなかった。
それにしても、言葉が通じないのは妙ではあるが。
ヒスイは慣れた様子で山道を歩く。
手に持った編み籠にはキノコや山菜がたっぷりと詰められていたが、そのいずれも見慣れないものだった。
しばらく歩くと薄桃色の竹林の向こうに平野が開け、そのさらに先に集落が見えた。
集落のそこかしこから白いものが立ち昇っているが、あれは煙か、あるいは湯気だろうか。
「サトス ゴンド。サトス ウェラ イムフロ 」
その集落を指差してヒスイが言う。
そうしてからハッと顔色を変え、その人差し指をそのまま顎に当てて何やら考え込んでいる。
小さく頷くと改めて集落を指差しゆっくりと、子供に教えるような口調で言う。
「ゴ・ン・ド」
「ゴンド……あの集落の名か」
見上げた空は蒼く澄み渡り、真っ白な雲がのんびりと流れている。
「空の色は変わらぬか」
そう独りごち、腰の刀に手を置いてヒスイの後を歩く。
つい先刻まで戦場にいたことを忘れそうになるほど長閑で穏やかな光景だった。
あるいはここは彼岸やも知れぬ。
吉利支丹であるこの身を考えれば神の国と呼ぶべきか。
一方でヒスイと名乗ったあの娘が化生の類いや、あるいは天使のようなものとも思えなかった。
奇妙な出立ちではあるが、あれは人だろう。
もはや、己が生きているのか死んでいるのかすら判然としない。
生きているのであれば、帰る術を探すのも良いだろう。
死んでいるのならば――さして思い残すことも無い。
一つの時代の終焉に立ち合い、この命は戦場を最期の拠り所とするつもりだった。
神の国に召されたと言うならば、この上ない僥倖と言えよう。
後は子らが明石の家を守り、継いでくれれば十二分だ。
この命が存えたというのなら、いずらにせよそう永くはない。
余生をこの不可思議な地で過ごすも面白かろう。
今、全登は全てを手放して、奇妙な清々しさを覚えていた。
風が吹き渡り、薄桃色の葉と眼下の草原を波立たせる。




