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第二話 この揺れは、いったい何なの!

 ……どうやら、わたしは転生したらしい。


 物心がついた、というより前世の記憶がはっきりしてきたのは、ほんの数週間前のこと。今のわたしは、しずくという名前の二歳の女の子だ。


 まだ言葉は片言だし、歩くのもおぼつかない。でも、手足は自由に動くし、少し走ったくらいでは息も切れない。窓から差し込む朝の光を浴びるだけで、身体の芯から元気が湧いてくる。


 病室のベッドの上で、ただ天井を眺めていた前世を思うと、この健康な体がありがたくて、思わず笑みがこぼれた。


 うん、決めた。大きくなったら、今度こそ自分の足で世界を旅しよう。そう決意するには十分すぎるほどの、希望に満ちた毎日だ。


 わたしの新しい家は、町のパン屋だ。優しい母のかえで、ちょっと……いや、かなり面白い父のベトー、そしてぶっきらぼうだけど面倒見のいい兄のルート。この三人との暮らしは、毎日が焼きたてのパンの香りみたいに、温かくて、ほんのり甘い。


「ぱぁぱ、まぁま、るーと!」


 わたしは、あえて流暢には喋らない。二歳児の特権は、最大限に活用させてもらう。片言で家族の名前を呼び、「ぱん!」と一言ねだるだけで、みんなが面白いほど喜んでくれるのだから。前世の癖で、つい気の利いた冗談を言いたくなる時もあるけれど、今は「可愛い我が家の末っ子」の役を演じるのが一番安全で、そして何より楽しい。


 我が家の朝は、いつだって賑やかだ。


 母さんがリズミカルな音を立てて生地をこね、兄さんがその手伝いをする。そして問題は、父さんだ。


「おお……おおお……! 我が愛しの天使、しずくたん! なんて愛くるしいのだ……そのぷにぷにのほっぺは、今朝焼いたミルクパンよりも柔らかそうで……今日も一日、パパは大ちゅきですよぉ……!」


 石窯の火を見張る係のはずの父さんは、仕事そっちのけでわたしにデレデレだ。その大きな体で、うっとりとした表情でわたしを見つめて……案の定、その瞬間。


 ジジ……ッ、と嫌な音と香ばしすぎる匂いが立ち込めた。


「ベトーッ! また焦がした! あなた、今月に入って何回目よ!」


 母さんの冷静で鋭いツッコミが、父さんのハートを貫く。


「はっ! い、いや違うんだ楓! 今朝はいつにも増して、しずくの瞳が宇宙の輝きを宿していたもので、つい……!」


「それ毎日言ってるじゃない! いいから早く次の生地を窯に入れなさい!」


 そんな両親のやり取りを、兄のルートは「やれやれ」とでも言いたげな顔で横目に見ている。彼は、わたしを可愛がりたい気持ちと、どう接していいか分からない戸惑いが混ざっているみたいだ。時々、遠くからじっとわたしを見つめては、目が合うと気まずそうにそっぽを向く。そんな背伸びしたがりな兄さんも、また面白い。


 この温かくて少し騒がしい家族が、わたしは大好きだ。


 わたしは窓辺の小さな椅子に座って、パンの焼ける匂いを胸いっぱいに吸い込みながら、まだ見ぬ世界に思いを馳せる。自分の足で進む「旅」。その夢を思うだけで、心が満たされていく。


 ――その時だった。


 ミシッ、と家全体が軋むような音がして、床がごくわずかに揺れた。


(ん? 地震かな?)


 前世の記憶から、すぐにその可能性を思いつく。それにしても、この世界に来てからというもの、やけに地面が揺れる。地震大国だった日本も驚くほどの頻度だ。この木造の家は温かみがあって好きだけど、耐震性は大丈夫なんだろうか、と少し心配になる。


 ――直後、今度はもっとはっきりと、ぐらり、と床が大きく揺れた。


 天井の梁がきしみ、壁の鍋がカチャカチャと音を立てる。


「おや、また揺れてるね」


 母さんの声は落ち着いている。


「うおっ!? 窯は大丈夫か……しずくも大丈夫か!?」


 父さんは慌てて窯とわたしを交互に見る。


 だが、そんな心配をよそに、わたしの身体にはもっと切実な危機が訪れていた。


 ぐらぐらという揺れが、二歳児の未熟な身体にダイレクトな刺激を送ってくる。そう、膀胱だ。きゅーっと内側から圧迫されるこの感覚。まずい、これは非常にまずい。


(や、やばい……! 決壊する……!)


 おむつは卒業したばかり。ここで粗相をすれば、わたしの尊厳は粉々になり、父さんには「おもらしするしずくたんも可愛いぞぉ!」と、一週間はネタにされるに違いない。……それだけは、絶対に避けたい!


「しずく、大丈夫か?」


 異変に気づいたのか、兄のルートが駆け寄ってきて、ぎゅっとわたしを抱きしめてくれる。その優しさが、今は逆に逃げ場を塞いでいる! 兄さんは何も知らずに、わたしの頬を「大丈夫、大丈夫」と指でつんつんしている。やめて! その優しさが命取りなの!


「ベトー! 棚のパンが落ちるわよ!」


「おおっと! 我が子もパンも、両方守ってみせるぞ!」


 大人たちはパンの心配で大わらわだ。わたしの内心のクライシスには、誰も気づいてくれない。


(こうなったら、自力で……!)


 わたしは兄の腕からそっと抜け出し、よちよちと、しかし人生最速のスピードで立ち上がる。目的地は一つ、トイレだ。


 ぷるぷると震える足で、一歩、また一歩。


(わたし、がんばれ……! 集中するんだ、わたし!)


 前世で、走れない身体を制御するために身につけた呼吸法。深く息を吸い、ゆっくりと吐く。意識を一点に集める。


 だが、無情にも、これまでで一番大きな揺れが家を襲った。


 ギギギギギッ、と梁が悲鳴を上げる。まるで、大きな船が嵐に揺られているみたいだ。


 踏ん張ろうとした足が、つるりと滑る。


「あっ!」


 わたしが転びそうになった瞬間、ぐらり、と家全体が傾いだ。


 いや、違う。傾いだんじゃない。


(……え? いま、一瞬、浮いた?)


 ふわっと、ほんのわずかに、足元が軽くなるような奇妙な感覚。


 その、ほんの一瞬の浮遊感。それが、わたしの必死の努力で保っていた堤防の、最後の堰を切った。


 ――ちょろ……。


 聞こえるはずのない幻聴が、脳内にクリアに響いた。


 時が、止まる。


「……あれ? しずく、なんか……?」


 不思議そうなルートの声。わたしは聞こえないふりをして、全速力(よちよち歩き)でトイレに駆け込み、ぴしゃりとドアを閉めた。


 ……終わった。わたしの尊厳、地上へと自由落下。


 いや、今はそんなことどうでもいい。


 問題は、さっきの揺れだ。地震とは明らかに違う。左右や前後に揺れるだけじゃない。家全体が、まるで巨大な揺りかごみたいに、大きく、ゆっくりと、上下にまで揺れていた。


 わたしはトイレの冷たい床にへたり込みながら、真っ赤な顔で、心の底から叫んだ。


(もういい加減にしろぉぉぉっ! この揺れは、いったい何なんだぁーっ!)


 まだ見ぬ世界への旅立ちを夢見るわたしにとって、この不可解な揺れの正体は、早急に解決すべき、あまりにも大きな問題だった。


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