第一話 私の冒険
神様は居るのか――それは誰にも分からない。
でも、もし本当に居るのだとしたら、きっと私のことはあまり好きじゃない。
そう、子供のころの私は本気でそう思っていた。
生まれつき、私の身体は、友達のそれとは少しだけ違っていた。
走るとすぐに胸が苦しくなり、息をするたびに薄いガラスが肺に突き刺さるような痛みが走る。みんなが笑い転げるような些細なことで、手足は自分のものではないみたいに震えた。夏の太陽は私から体力を奪い、冬の空気は指先の感覚を消し去っていく。
ただ、それはあくまで「少し」の違いだった。周りから見れば、私は「運動が苦手で、時々体調を崩す子」。その一言で片付けられてしまう程度の、曖昧な不自由。だからこそ、私はいつも自分の心を説明する言葉を見つけられずにいた。
「しずくちゃん、一緒に鬼ごっこしよう!」
小学三年の春、放課後の教室。窓から差し込む西日が、楽しそうに笑う友達の輪郭を金色に縁取っていた。その光景は一枚の絵のようで、私はいつも、その絵の外側に立っていた。
「……ごめん。今日はお腹が痛いから」
本当は痛くなんてなかった。
でも、途中で息が上がって足を止める自分を想像するだけで、胸の奥がぎゅっと縮こまる。
置いていかれるのは、もう嫌だった。
遠足の日、私はいつもバスの窓から外を眺めていた。目的地に着いて、みんなが歓声を上げながらバスを降りていく。私は「少しだけ休憩してから行くね」と先生に嘘をつき、空っぽになったバスの中で、みんなが野山を駆け回る姿をぼんやりと見ていた。窓ガラスに映る自分の顔が、ひどくつまらなそうに見えて、慌てて目をそらした。
家に帰ると、母は何も聞かずに「おかえり」と笑う。私の夕飯の量はいつも少しだけ少なく、苦手なものは黙って食卓から消えていた。父は、私が図鑑や難しい本を読んでいても、「そんなものより外で遊びなさい」とは一度も言わなかった。ただ黙って、時々新しい本を私の机に置いてくれるだけだった。
二人が私を深く愛してくれていることは分かっていた。でも、その愛が「心配」という形をとるたびに、私は自分が透明な檻の中にいるような気持ちになった。
だから、私にとって世界は、本の中と頭の中にしか存在しなかった。
友達と遊べない時間は、自然と机に向かう時間になった。勉強は裏切らない。そこには明確な答えがあり、息切れも、誰かに置いていかれる心配もなかった。
それは「好き」というより「安住の地」に近かった。
――あの日、父が新聞を畳みながら、あのセミナーの話をしてくれるまでは。
「科学体験セミナー、行ってみるか?」
父のその一言は、私の灰色の世界に投じられた、小さな色のついた石のようだった。正直、科学には何の興味もなかった。でも、私のために何か面白いことを探してくれた父の気持ちが嬉しくて、私は頷いた。
日曜日、町の公民館は子供たちの熱気で溢れていた。
そこで見た光景は、私の想像をはるかに超えていた。液体が色を変え、シャボン玉が宙を舞う。それはまるで、魔法のようだった。
そして、一人の銀髪の老人が舞台に立った。
「ようこそ、科学の世界へ」
その声は、不思議なほどすっと心に入ってきた。
「今日から君たちは、探検家だ。宇宙も、地球も、人間も――全部が、まだ見ぬ世界だ」
私は、その言葉を聞いた瞬間、自分でも気づかないうちに、椅子から身を乗り出していた。
老人――いや、この後の私にとっては「運命の恩師」になるその人は、舞台の前に置かれた机から、小さな金属の玉を取り出した。
「これは地球の縮小モデルだ。名前は……えーと、ミャクミャクくんにしよう」
会場がクスクスと笑う。
「では、このミャクミャクくんの周りに、見えない糸が無数に伸びていると想像してごらん。これが重力だ」
老人は机の上に小さな布を広げ、その上に金属の玉を置いた。
布がたわみ、玉の周りにくぼみができる。
そして、そのくぼみにビー玉を転がすと、ビー玉はミャクミャクくんの周りをぐるぐると回り、やがて引き寄せられていく。
「宇宙の星も、人の体も、落ちてくるリンゴも、全部この糸に引っ張られているんだ。見えないけれど、確かにある力だ」
その声は、まるで秘密を打ち明けるみたいに低く優しい。
そのとき私は、初めて気づいた。
――私は走れないけれど、この「力」なら、私の代わりにどこへでも行けるかもしれない。
身体という檻に閉じ込められていた私の魂が、初めて自由になれる道を見つけた瞬間だった。
セミナーは夢中になるものばかりだった。液体窒素で凍らせたバナナをハンマー代わりにして釘を打ったり、真空ポンプでマシュマロを膨らませたり。
私が「バナナで釘って……」と呟くと、隣に座っていた、そばかすのある男の子が「俺んちの冷凍みかんもこれぐらい固かったよ!」と笑った。
私は笑いながら思った――こんなに息苦しくない「競争」があるなんて。
セミナーの最後、博士は私たちにこう語りかけた。
「私は宇宙の一番小さな粒――グラビトンを探している物理学者だ。
君たちも、もし興味があれば、未知なる世界を旅する仲間になってくれ」
拍手が起こる中、私は胸の奥で何かが弾けた。
「仲間」――その言葉は、外遊びからこぼれ落ちた私には、ちょっと危険なくらい甘く響いた。
それからの日々は、色が増えた。
図書館で物理の入門書を借り、ノートに公式を書き写しながら、ひとりで「わかったふり」を楽しむ。
公式の意味は分からなくても、未知の言語を覚えているみたいで、あの教授みたいに新しい世界に踏み込んでいるようで、胸が躍った。
放課後、机に向かう私を見て母が首をかしげる。
「勉強、そんなに楽しい?」
「うん、これなら走らなくても宇宙まで行けるんだよ」
私の返事に、母はしばらくしてから笑った。
その笑いが、あの日以来、少しだけ誇らしげになった気がした。
中学、高校と進むうちに、私は本格的に物理の道を目指すようになった。
そして大学に進学した年――再び博士に会う。
「おや、もしかして君はあの時の小さな探検家じゃないかい?」
博士は名前を覚えてはいなかったけれど、その笑顔はセミナーのときと同じだった。
そこからの研究の日々は、まるで長年憧れていた大海を船で駆け巡るようだった。
私は帆をいっぱいに張り、まだ見ぬ「重力子」という島を探す旅に出た。
博士の研究室に配属されたのは、大学院の春だった。
研究室での日々は、夢中という言葉でも足りないくらい、濃密な時間だった。特に、同期の真由とは、ライバルであり、最高の親友になった。実験データが上手く取れずに二人で頭を抱えたり、世紀の発見だと騒いだデータがただのノイズだと分かって一緒に泣いたりもした。
「もうやめたい……」と私が弱音を吐いた日、真由は「あんたがやめたら、誰とこのパズルのピースを探せばいいのよ」と言って、冷めたコーヒーを私の手に握らせた。
そして、ある静かな夜だった。
何万時間も蓄積された観測データの中から、たった一行だけ、ノイズとは思えない、まるで宇宙の心音のような美しい波形を、私と真由は同時に見つけた。
「……これって」
「……嘘でしょ」
二人で顔を見合わせ、息を呑む。それが、私たちが長年追い求めてきた「重力子」の、最初の咆哮だった。
私たちは、重力子の存在を示す観測データを世界に発表した。
記者会見でマイクを向けられた私は、緊張で舌がもつれそうになりながらも、こう答えた。
「この発見は、ゴールではありません。私達にとっての、更なる冒険への招待状です」
拍手とカメラの閃光の中、心はもう次の研究計画でいっぱいだった。
――はずだった。
異変に気づいたのは、その少し後だ。
ペンを持つ指が思うように動かず、階段の途中で息が乱れる。
夜中、書きかけの計算式の前で、急に集中力が途切れることもあった。
最初は疲れのせいだと笑い飛ばしていたが、医師の口調は冗談を許さないほどに重かった。
入院生活が始まると、窓の外の世界は急に遠くなった。
真由が頻繁に見舞いに来て、研究の進捗を話してくれた。
「あんたの手がないと、全然進まないんだからね!早く戻ってきなさいよ!」
明るく振る舞う彼女の目の奥に、隠しきれない悲しみが滲んでいるのが分かった。
「……真由、ごめん。もう、無理かもしれない」
初めて、私は人に弱音を吐いた。真由は何も言わず、ただ、私の冷たくなった手を強く握りしめてくれた。
窓の外を、飛行機が白い線を引いて飛んでいく。
あの飛行機は、どこへ行くのだろう。
ふと、思った。私は、宇宙の果てまで思考を飛ばすことはできた。でも、自分の足で、この地球の地平線を越えたことが、一度もなかった。
――まだ、行ってみたい場所があったな。
――恋も、してみたかった。
平凡で、ありきたりな願いが、次から次へと溢れてくる。
もし、もしも、もう一度だけチャンスがあるのなら。そのときは机の上の宇宙だけじゃなく、自分の足で地平線を越えてみたい。知らない街の空気を吸い、知らない人と話し、知らない景色を見たい。
そうだ――旅をしてみたい。
瞼がゆっくりと降りてくる。
遠ざかる意識の中で、家族の顔、博士の笑顔、そして、泣きそうな顔で私の手を握ってくれた真由の顔が浮かんだ。
ありがとう。みんな、ありがとう。
私の人生、楽しかったよ。
人工的な音が遠ざかり、最後に聞こえたのは、遠い昔に聞いた、あの優しい声だった。
「君も、未知なる世界を旅する仲間になってくれ」
――その瞬間、私は手を伸ばした。
そして、すべてが白に溶けた。