約束
「酷いじゃないか! 僕を置いていくなんて!」
教団を壊滅させたあと。
公爵家に戻ってきたロルティは、置いてけぼりを食らった兄から激怒された。
「むきゅ……!」
アンゴラウサギはジュロドの大声に怯えたのだろう。
小さな足をちょこまかと動かし、目にも留まらぬ速さでロルティの胸元へと飛び込んでいく。
「うさぎしゃん! ただいま!」
「きゅう……。むきゅきゅ……!」
「あっ。ずるいぞ! 僕もロルティと、再会を喜び合いたかったのに……!」
「わふん!」
獣に先を越されたと兄が悲しめば。
『だったら自分が代わりに慰めてあげる!』
そんな言葉を発したそうにしている犬が、勢いよくジュロドの胸元へ突撃して行った。
床の上に押し倒された彼は、獣からもみくちゃにされながら悲鳴を上げている。
「う、うわぁ! た、助け……っ!」
「わんちゃんも、おにいしゃまが元気になって嬉しいって!」
「わふ!」
薄情な妹は助けを求める兄に手を差し伸べぬまま、ジュロドを見捨てた。
(わんちゃんはおにいしゃまと、じゃれ合ってるだけだもんね?)
アンゴラウサギのふわふわな毛を撫でながらそう考えていたロルティは、やや距離をとって兄妹を見守るカイブルが、ジュロドに同情の視線を投げかけているのに気づけぬまま。
ニコニコと笑顔を浮かべた。
――ジェナロ主導の元教会を壊滅させてから。
ロルティは命の危機に怯える必要はなくなった。
公爵邸から一歩外に出れば彼女を聖女と呼ぶものもいるが――自宅に引きこもっている限り、ハリスドロア公爵の愛娘ロルティとして過ごせている。
生まれてすぐに親元から引き離された彼女は、教会内でつらい修行の日々を送っていたのが嘘のように。
毎日のんびり穏やかに、父親と兄から寵愛を受けて暮らしていた。
「ねぇ、カイブル」
「どうかなされましたか」
「わたし、聖女としての修行をこんなにサボってて、いいのかな……?」
今の生活に不満はないが、ロルティは時々思うのだ。
このままで、本当にいいのかと。
「誰かに、何か言われましたか」
「うんん。なんだか……落ち着かなくて」
聖女とは本来、この世界にたった1人だけしか存在してはならない人間だ。
その名を冠した者は傷ついた民を癒やし、時には未来を予知し、人々へ尽くさなければならない。
役目を放棄して自分の幸せだけに満足している自分は、聖女失格なのではと不安になったのだろう。
「ロルティ様にとって、教会に居た頃が異常だったのです」
「そう、かな?」
「ええ。もしもこの地に天変地異が訪れ、あなた様の大切な人達が命の危機に晒された際――」
「てぺんち?」
「災害です」
「みんな、死んじゃうの……?」
「あくまで、例え話ですよ。必ずそうなる保証はありません」
「そっか! よかったぁ」
彼女瞳からは涙が頬を伝って流れ落ちそうだったが、カイブルが訂正をしたおかげだろう。すぐさま笑顔を取り戻す。
「ロルティ様が民を守りたいと願うのであれば、きっと神様は力を授けてくださいます」
「遊んでばっかりの駄目聖女様に、力なんて貸してくれるかなぁ……?」
「ロルティ様は誰からも愛されるべきお方です。もしも天が見放すようなことがあれば、私が叱りつけましょう」
「神様を?」
「そうですよ」
「さすがはわたしの、護衛騎士だね!」
全知全能の神にどうやって人間として生まれたカイブルが懲らしめるのかはよくわからないが、彼女はそれだけ彼が強い騎士だと受け取ったらしい。
微笑みを浮かべる彼女に、カイブルもまた優しい瞳で主を見つめた。
「カイブル。ずっとわたしのそばに、居てくれる?」
「もちろんです」
「よかったー! わたしがおばあちゃんになっても、絶対だよ?」
「はい」
ロルティが告げた言葉に、深い意味はまったくと言っていいほど存在しない。
彼女にとって彼は、護衛騎士であるからだ。
生涯変わらぬ関係を続けるのだと信じ切っている。
だが、カイブルはそう思ってはいないようだ。
つい反射条件で返事をしてしまったのを後悔するように暗い顔をした彼は、どこか寂しそうな微笑みを浮かべて主を見つめた。
「カイブル? どうしたの?」
ロルティは自分のせいで彼の表情が曇ったのだと目敏く気づいて問いかけたが、カイブルはけして理由を口にしなかった。
「おーしーえーてー!」
彼が幼子にぶつけてはならない感情を抱いているなど知りもしないロルティは、隣に座るカイブルの胸元に飛び込み、ツンツンと人差し指で弄びながら問いかける。
だが彼はやはり、いつまで経っても返答をしなかった。
「むぅ……」
あっと言う間に不機嫌な様子を見せたロルティは、どうしたらカイブルが口を割るか考える。
(カイブルの、喜ぶことをすればいいんだ!)
閃いたロルティは以前父親と兄が頬に口づけた時。
とても嬉しそうにしていたのを思い出す。
(パパやおにいしゃまじゃないから、反応はよくないかも、しれないけど……)
行動してみなければ、何も始まらない。
彼と密着しているのをいいことに。
彼女は思い切って、カイブルの頬に唇を寄せた。
「ロルティ様。何を……」
小さなリップ音とともに、ロルティの小さな唇が彼の頬に触れる。
戸惑っていた彼は幼い主が自分に何をしたかすぐに気づき、耳を朱に染め狼狽えた。
「あ! カイブル! もしかして、すっごく照れてる?」
「い、いえ……。そのようなことは、けして……」
「わぁ~! すっごくかわいい!」
「私が、ですか」
「うん!」
ロルティは光り輝く太陽のような笑みを浮かべると、もっと彼のかわいらしい姿を見たいと一念発起する。
(さっきは頬だったから、今度は……)
じぃっと彼の瞳を見つめたロルティは、カイブルの額に狙いを定め――再び口づけようとしたが、失敗した。




