リリアーナ(1)
リリアーナの過去話になります。
リリアーナ・リラ・ツェルバトーンはツェルバトーン国の第一王女として生を受けた。
だが、彼女は王族の一人として扱われたことは生涯を通して一度もなかった。
彼女の父親はこの国の王。けれど、父である王の伴侶である王妃とは血は繋がっていなかった。彼女の母親は王が気まぐれで手を出した侍女だったからだ。
だから、そんなリリアーナを王妃は毛嫌いしていたし、異母兄である王太子もリリアーナに話しかけたことは一度としてなかった。血のつながっている王はリリアーナのことを政略結婚の駒としてしか見ていなかった。
リリアーナは見目だけは良かった。
漆黒の艶やかな髪に、珍しい薄紫色の瞳。肌は真珠のように白く、腰は折れそうなほど細かった。
だから、しばらくの間、王はリリアーナを最も良い相手に嫁がせるために様々なことを施した。厳しい教育に、異常なほどの食事制限。
それが少しでもリリアーナのことを思ってくれてのことなら耐えられた。だが、最も良い結婚相手とはリリアーナにとってではなく、王にとってということで、リリアーナのことは微塵も考えてくれていなかった。
ただ、王の利益のためにリリアーナは受けたくもない教育を受け、食べたいものが食べられない生活を何年も強いられた。
王妃からは会うたびに心無い言葉を浴びせられ、王太子からは冷たい目を向けられた。
だから、いつしかリリアーナには表情というものが欠落してしまった。
リリアーナが望んでそうなったわけではない。
何年も何年も自分を否定され、蔑まれ続けた結果、リリアーナに表情というものがなくなってしまったのだった。
そんな、表情の変わらない、精巧な人形のようなリリアーナを誰が結婚相手として欲しがる?
ただでさえ出自は由緒正しくない。リリアーナの母は貴族でさえなかった。
最初の数年は美しい、とちやほやされた。だが、リリアーナの表情が変わらないと知ると、誰も見向きもしなくなった。誰もがリリアーナのことを死んだ人形のようだと形容した。
だから、王は怒り狂って、その分リリアーナに罵声を浴びせた。その状況に慣れてしまっていたリリアーナはそれさえもうなんとも思わなかったが。
いつしかリリアーナはいらない王族として、王城の中でも隅に追いやられるようになった。世話をしてくれる使用人は数えるほど。
話すことはほとんどなくなり、一日話さないことも珍しくなかった。
このまま、王城の片隅で誰にも相手にされることなく、ひっそりと死んでいくのだと思っていた。
でもそれでもよかった。
王に王妃に罵声を浴びせられ、王太子に蔑まれるような軽蔑するような目で見られるよりは何倍もましだと。
だけど、その日は唐突に終わりを告げた。
ある時、王城の隅にあるリリアーナの私室に突如訪ねてきた王の使者だと名乗った男は、リリアーナの結婚が決まったことを淡々とした口調で告げてきたのだ。
本来なら王族の結婚となれば、謁見の間において、王から直接伝えられ、他の王族から祝われるものだ。それがこんなふうに誰にも知られずに、それも王からではなく、使者から告げられる。改めて自分の立ち位置を実感する。
その後の降嫁までの予定を何の情緒もなく、事務的に告げた使者はそのままリリアーナの部屋を辞した。
その間もリリアーナの表情は変わることはなかった。
それでもリリアーナは内心驚いていた。
まさか自分が結婚するだなんて全く思っていなかったからだ。
自分はこの王城で人々から忘れられ、死んだことさえも知られないのだろうと思っていた。
そんな自分が結婚?信じられなかった。
ああ、驚きすぎて相手の名前を聞き逃してしまった。
使者の男は言っていたように思う。けれど、リリアーナの心中は使者の言葉を聞けるほど穏やかではなかった。
使者は特段リリアーナの心情を気にかけることもなく、話を進めていた。でももそれも仕方がない。リリアーナの表情は話を聞いている間にも一切変化せず、リリアーナの気持ちを表に出さなかったのだから。
この数年で表情を出したくても出せなくなってしまっていた。
けれど今のところ困ったことにはなっていない。誰かと話すこと自体稀だからだ。これからもこの鉄仮面のような顔は変わらないのだと思う。
リリアーナの結婚式は実に厳粛に行われた。
国の景気が悪く、結婚式の費用を抑えたから、では決してない。
国の景気は決して良くはない。父が王になってから、国庫は確実に傾いている。
王と王妃の散財・浪費癖。王太子の女遊び。
リリアーナはドレスや宝石を全く買い与えられなかったが、それらに関与しているとされていた。いや、それどころか、リリアーナが元凶とさえされた。
リリアーナはただ王城の片隅で他のどの貴族よりも慎ましく生きていただけなのに。
そんな評判の悪くなった王族の評判を良くするために今回のリリアーナの婚姻が決まったのだった。
相手はユリウス・チェスト。若くして公爵位を継いだ人だ。
彼は公爵家の領地で善政を敷き、民から評判の良い貴族だった。さらに王族との血縁関係も薄いながらあり、王はそこに目をつけたのだった。
王からの申し出にユリウスは拒否することはできなかったのだと思う。
それはそうだ。王族からの提案を断れば、反逆罪と捉えられかねない。
実際、その当時、王に少し進言しただけで、地位を下ろされ、左遷された人がいた。今のところそれだけで済んでいるが、今後、処刑される可能性も十分にあった。
そのため、貴族といえども王族の国庫の浪費に諫言することができなかったのだ。
そんなリリアーナとユリウスの結婚式の参列者は王女と公爵の結婚式であるにもかかわらず、ほとんどいなかった。
リリアーナ側は彼女に仕えてくれていた使用人だけ。それも喜んで出席したのではなく、王の命令によって仕方なくの出席だった。その場に王はもちろん、王族は一人もいなかった。けれど、ユリウス側も似たようなものだった。彼の両親は若くして亡くなっていたのでおらず、公爵家に仕える使用人とユリウスの友人数名だけだった。
ユリウスとは舞踏会や夜会で数度、挨拶を交わしただけでそこまで親交があったわけではなかった。
銀髪だが、絹のように白い、陽の光に透き通るような髪。本の世界でしか知らないが、きっと海のような真っ青な瞳。鼻筋は通り、唇は薄い。絵に描いたような貴公子だった。
指輪をリリアーナの指に通す時に触れられた彼の指はリリアーナのものより長く、大きかった。
彼はきっとこの結婚式に良い感情を抱いていない。
公爵家に降嫁しても王城といる時とさして変わらないと思っていた。無視されるか心無い言葉を浴びせられるか。そのどちらかだろうと思っていた。
でもそのどちらでも構わなかった。
もう、そんなことを気にしないほどリリアーナの心は壊れてしまっていた。
それに自分にはそんな環境を甘んじて受けるだけの罪があるとも思っていた。
リリアーナは一切享楽に耽っていない。けれど、それを止められていない責任はあると思っていた。たとえ、殺されたとしても、臣下ができない諫言や進言をすべきだと、そう思っていた。逆にいえば、見目しか取り柄のない自分はそれくらいはしなければならないとも思っていた。
それに、表情のないリリアーナは、社交界でも噂になっている。そんな王女を誰が愛する?
王女といってもリリアーナは庶子。たとえ、大事にしなくても、王族に咎められることはない。だってその王族にさえ、顧みられていないのだから。
なのにーー。なのに、ユリウスはリリアーナのことを壊れもののように大切に大切に扱ってくれた。
彼がどんなに優しくしてくれてもリリアーナの表情は決して変わらないのに。何故、彼はリリアーナのことを大切にしてくれたのだろう。
リリアーナは王女で、国内では王族の肖像画が売られていた。だから、どこへ行ってもリリアーナが元王女だとすぐに知れる。さらに、王族の評判は日に日に悪くなっていた。そんなところへリリアーナが行けば、どうなるかは明白だ。
だから、リリアーナは嫁いでから公爵邸から出たことは数えるほどしかなかった。
大抵は邸の中にいた。
ユリウスは一日の大半を仕事で王城に行っていたので、リリアーナは邸で裁縫や読書をしたりして過ごしていた。
公爵家の使用人は当たり障りもなく接してくれた。
彼らが決して良い感情を抱いていないことは目を見れば分かった。
リリアーナが目を合わせれば、それは鳴りを潜めるが、こちらに憎悪の目を向けていることは見なくてもひしひしと感じていた。
それなのに、リリアーナに何もしてこなかったのは、ひとえにユリウスに言われていたからだろう。
ユリウスだって出来損ないの王女を押し付けられた被害者の一人なのに。なのに、何故、彼はリリアーナを悪意から守ってくれていたのだろう。
巷ではリリアーナが国民の血税を散財していると、結婚してからも言われ続けていたのに。
何故いつもあんなに柔らかな笑みをリリアーナに向けてくれていたのだろう。
リリアーナの大好きな時間はそのどれもがユリウスと過ごす時間だった。
共に夕食を摂る時間。眠る前に各々で本を読む時間。今日あったことを話してくれる時間。
リリアーナはほとんど話さず、笑いもしなかった。なのに、その時間はリリアーナが死ぬまで続いた。
その中でもリリアーナが特に好きだったのは、ユリウスと共に邸の庭をゆったりと歩く時間だった。
その時間は大抵昼間だった。
ユリウスはほとんどの日を王城に出仕していたので、昼間にいることはとても珍しかった。
そんな休みの日に大抵リリアーナを誘って庭に連れ出してくれた。市井を歩けないリリアーナの慰めに少しでもなれば、と思ってくれていたのかもしれない。
貴重な休みの日なのに。そんな日にわざわざリリアーナと過ごそうとしてくれたことが嬉しかった。
表情も変わらず、話もほとんどしないのに。何故彼はリリアーナと過ごそうとしてくれたのだろう。
ユリウスはリリアーナよりはるかに身長が高く、その分歩幅も大きい。だから一緒に歩く時はリリアーナの歩幅に合わせてくれた。
時折立ち止まっては咲いている花や草の説明をしてくれた。
表情を変えることのできないリリアーナはそれがとても悔しかった。もし、表情を変えられるのならとびきりの笑顔で、今目の前で咲いている花のような笑顔を彼に見せるのに。
庭で過ごす時間も好きだったけれど、そのあと邸の中で彼と紅茶を飲む時間も好きだった。
暖かく、穏やかな時間。
生まれてから初めて経験する人のぬくもり。
この時間が永遠に続けばいいと思っていた。
自分勝手だとは思っていても、ユリウスに惹かれていく自分の心を止めることはリリアーナにはできなかった。
ユリウスにとっては不本意な結婚以外の何物でもないのに。
ユリウスは両親を事故で失っていた。だから、公爵位を若くして継がなければならず、苦労も多かったはず。そんな彼の苦労の一つが王に押し付けられた自分だったのに。
ユリウスは義務感から自分を大切にしてくれていただけかもしれないのに。それなのに、リリアーナはいつしかユリウスのことを好きになっていた。
これが恋なのだと。人を愛する気持ちなのだと初めて知った。
ユリウスが大切な気持ちを教えてくれた。
けれど、彼に告げるつもりは微塵もなかった。
この気持ちはユリウスにとっては迷惑でしかない。
私はユリウス様のそばにいられるだけで幸せ。たとえ、この想いが叶わなくても。
そう思っていたのに。そんなリリアーナのささやかな願いさえ、この世界は叶えてくれなかった。