庭にて
普通の貴族の邸宅であれば、社交シーズンになると頻繁に舞踏会や夜会を開くことになるので、多くの貴族が集まる。そのため、庭には様々な種類の花が植えられることになる。訪れた客の目を楽しませるためだ。
だが、ユストファ子爵家はまったくと言っていいほどそれらを開くことはないので、庭にはほとんど花が植えられていない。大部分が野菜で埋め尽くされている。
なので、歩いたところで癒されることはないのだが、かといってここ以外でアロイスをもてなすことができるところが邸にあるわけではないので、ここが一番妥当な選択だろう。
「そろそろ夏だから、多くの野菜が旬を迎える頃かな」
隣を、リディと同じ速度で歩くアロイスの言葉にリディは驚く。
侯爵が何故そんなことを知っているのだろう。
育成者でない限り、食べ物の旬など知らない。貴族はそのほとんどが、邸で出てくるものを何の疑問も持たずに食すだけだ。
「そ、そうですね」
リディよりはるかに高いアロイスを見上げる。
とても懐かしい感覚だった。リリアーナもよくユリウスを見上げた。心なしか、その時と見上げる角度が似ている気がする。ただのリディの願望かもしれないけれど。
「何を育てているの?ケールとかズッキーニとかかな」
「え、ええ。そうです。お詳しいですね。ここら辺はそれらが産地なんです」
そう。あの人が生きていた時代からの。
あの人が話してくれた領地の特産物は特に力を入れて育てている。
アロイスは懐かしそうに目を細めて、もうすぐ旬を迎える青々とした畑を見ていた。
「あの」
「君は結婚したくないの?」
畑からリディに視線を移したアロイスは少し悲しそうに微笑んだ。
そんな表情にぎゅっと胸を掴まれる。
アロイスがユリウスとそっくりだからいけない。しかも、外見だけでなく、纏う雰囲気も話し方も。
「したくない、というか。できないと思うんです。多分、私は誰のことも好きになれないんです。子爵令嬢の私が恋愛云々いうのもおかしな話ですが」
「ううん、全然おかしいことじゃないよ。自分の気持ちを大切にするのは大事なことだ」
アロイスにユリウスを重ねてしまう。他の人と重ね合わせるなんて、この人に失礼なことなのに。なのに、あの人が言いそうなことを言われて、つい、ユリウスの幻影を見てしまう。
「ですので、私はあなたの想いに応えることができません」
ユリウスそっくりな人に、こんなことを言うのは心苦しかったけれど、ちゃんと言いたかった。だから、逸らしそうになる心を懸命に鼓舞して、アロイスとしっかり視線を合わせる。
「そうか・・・。それでも、僕と婚約してはくれないだろうか」
貴族同士の結婚は通常、半年間の婚約を経て行われる。
リリアーナが生きた時代もその慣習はあったが、ユリウスの力をすぐにでも得たい王がその慣習を無視し、すぐに二人の結婚式を挙げた。
反対の声は上がらなかった。もうすでにその時には表立って王に反対できないほど、恐怖政治が進んでいたから。
「貴族の婚約は大々的に社交界に発表されるのが普通だけど、今回の場合は発表しない。君が婚約破棄する前提で進めるから」
その話を聞き、リディは疑問を抱く。なら、何故婚約をするの?
表情に出ていたのだろうか。アロイスが答えてくれる。
「僕のことを詳しく知って欲しい。今話しているだけじゃ、分からないこともきっとあると思う。半年間婚約者として過ごして、それでも結婚する意思がないのなら、その時は婚約を破棄しよう。僕たちが婚約したことは貴族の誰も知らないわけだから、破棄しようと君が悪く言われることはない。それでどうだろう?」
リディにそこまで言われるほどの魅力は自分のことながら、ないと思う。
なのに、この人はリディの答えを不安そうな表情で待っている。
あの人に似ている顔で。そんな悲壮な顔をされれば、リディはきっぱりと断ることができなくなる。前世で、あの人の目の前でもう傷つけることをしてしまったから。リディの目の前にいるこの人には関係ないことかもしれないけれど。それでも、その話を断ることはできなかった。
「は、はい。その、本当に半年間の婚約期間を経て私が嫌だと言えば、破棄してくださるんですか?」
「ああ、するよ。君が不安なら、書類に書いて残してもいい」
「で、では、よろしくお願いします」
もう自分の中で答えは出ているのに。ただ、自分の気持ちが収まらないというだけで、アロイスの話を承諾してしまう。この人の好意に甘えているようで、自分に嫌気がさす。
「では、よろしくね、リディ」
何度も何度も繰り返し思い出したあの人の笑顔がそこにはあった。
それだけでリディは泣きそうになる。
「はい。こちらこそよろしくお願いします、リヴァイン侯爵」
「僕のことはアロイスと呼んで。婚約者になったのだし」
「あ、アロイス様」
「うん。リディ、もう少しこの庭を散策してもいいかな?」
リディがアロイスと呼んだことに満足したのか、彼は再び畑の方に目をやる。
「でも、その、我が家の庭にはこのような畑とあまり目立たない花壇があるだけで、これといって見るようなものは何も・・・」
「それでも見たいんだ。いいだろうか?」
いやでも小さい庭は、そのほとんどに野菜が植えられていて、庭というよりも畑の様相を示している。
わずかにある庭には花壇栽培の主役になるような花はあまり植えられておらず、一番植えられているのは、リディの一番好きな花のハルジオンだ。
「えっ、とアロイス様がそうおっしゃるなら」
「ありがとう、リディ。では行こうか」
とても自然にアロイスは手を差し出してきた。
戸惑いつつも、その手にリディは手を重ねる。
リディのものよりもはるかに大きく、骨ばった手。
リディが手を重ねると同時にぎゅっと握り込まれる。
その繋ぎ方はユリウスと手を繋いだ時と同じで。
まじまじと繋がれた手を見てしまう。
「ん?どうしたの?なにか付いていた?」
唇の端に笑顔を浮かべ、不思議そうにアロイスは訊いてくる。
「い、いいえ」
なんてことを考えているのだろう。たった今この人と婚約を結んだばかりなのに。他の人のことを考えるなんて。
リディは慌ててユリウスの幻影を振り払った。
「ここからずっと先、邸の端の方に花が植ってます。そこまで行きますか?」
「そうだね。時間もあるし」
強くもなく弱くもない力でリディの手を包み込む手。
その手を意識しないように、リディはあえて多くのことを喋った。
この区画にはこの野菜。この野菜の収穫は一週間後。
アロイスにとってはつまらない話題のはずなのに、リディのする話のどれもを真剣に聞いてくれ、相槌を打ってくれた。
「えっと、ここは自分で育ててる区画です」
そしてたどり着いたハルジオンの区画。
アロイスの目が一瞬大きく見開かれる。でも、次の瞬間には戻っていたからリディの見間違いかもしれない。
「・・・リディはハルジオンが好きなの?」
「え、はい」
前世の頃から一番好きな花です。ユリウス様が最初に教えてくださった花だから。ユリウス様がリリアーナのようだと言ってくれた花だから。
その想いを胸に閉じ込め、アロイスを見上げると。
彼は泣きそうな、でもなんだか幸せそうな表情を浮かべていた。
疑問に思い、リディは首を傾げる。
「綺麗だね。リディが心を込めて育てていることが伝わってくるよ」
繋がれていた手を少し強く握られる。
「君とこの景色を見れて僕は嬉しい」
リディの視線に気づいたのか、アロイスは視線をリディの方に移す。
沈んでいく太陽に照らされているアロイスの髪は、いつの日にか見たユリウスの髪のように、きらきらと星屑のように輝いていた。
じっと見ていられず、ふいとリディは目を逸らす。
なんだか不思議な気持ちに包まれる。この気持ちは一体何なのだろう。
地平線へと徐々に姿を小さくしていく太陽を見ながら、リディはアロイスの方をしばらく見れなかった。