惑い
「おや。短時間で距離が随分と縮まったね」
すっかり太陽が沈み切り、アロイスと共に邸に帰ると、開口一番父にそんなことを言われる。
一体何のことだろうと思い、父の視線を辿って気がついた。
婚約を結ぶことを承諾してから、アロイスと手を繋ぎっぱなしだったことに。
慌てて、リディは手を離す。
けれど、すぐに後悔する。急に離されたアロイスは吃驚し、気を悪くしているかもしれないと。
それとなく、アロイスの様子を伺うが、リディから手を離されて特段気にしたような様子はなかった。そのことにリディは安堵する。
「今から帰るのでは遅くなってしまうだろう。野盗がでるかもしれない。君さえよければ泊まっていきなさい」
「よろしいのですか?ありがとうございます」
もしものために事前にアロイスを泊めるための客室は清掃してある。
「では、一緒に晩餐をいただこうか」
その父の一声と共に、ダイニングへと場所を移す。
そこには既に母がいて、アロイスの姿が見えると、椅子から立ち上がった。
「娘とのお話はいかがでしたか?」
父に座るように言われ、皆で一斉に座る。
「楽しかったです。その、僕たち婚約を結ぶことになりまして。ですが、半年間の婚約期間を終えて、彼女が僕と結婚したくなかったら、婚約破棄いたします」
アロイスの言葉に両親は目を瞠っている。
「ほ、本当にそれでいいのですか?」
「ええ。この婚約は僕のわがままで結ばれたものです。なので、最後は彼女の意思を尊重します。ですから、社交界にもこの婚約のことは発表しません。ご両親はそれでよろしいでしょうか?」
「リヴァイン侯爵がそれでよろしいのでしたら。母さんは?」
「わ、私も侯爵が良いのでしたら」
「ありがとうございます」
アロイスの浮かべた笑みに両親は釘付けになっている。
「んん。せっかく用意してくれたんだし、早く食べましょう」
固まってしまった両親に代わり、リディはそう言った。
リディの言葉に父ははっと我に返り、使用人を呼び寄せ、料理を運ばせた。
我が家は他の貴族家庭とは違い、すべての料理を先に並べてしまう。
そのスタイルにアロイスは驚くかと思ったが、そんな様子は微塵もなかった。
「もしかして、この料理の中にあそこの畑で収穫された野菜が使われていたりする?」
食事が始まってしばらくして。
アロイスはリディに向かってそう訊いてきた。両親は空気のように息を潜め、成り行きを見守っている。
「はい。多分、今朝使用人の誰かが収穫してきてくれたものだと思います」
「リディも収穫を手伝ったりするの?」
アロイスの問いにリディはどう答えていいか分からなかった。正直に答えるべきなのか、嘘を吐いて、そんなことしたこともないと答えるべきなのか。父に指示を仰ぐべく視線を向ける。
だが、当の父も分からないらしく、困惑顔だ。
「正直に言ってくれていいよ。僕は汗水垂らして働くことを軽蔑したりしない。それどころか尊敬する」
その言葉にリディは胸が熱くなる。
「は、はい。最近は忙しくてできていませんが、大抵は使用人と共に時期を迎えた野菜を収穫します」
潤みそうになる瞳を抑えながら、リディはなんとか答える。まさか、そんなこと言われるなんて思ってもみなかった。
ちらりと視界の隅に入った両親も感動したのか、瞳が潤んでいる。
平民のように貴族が肉体労働することを毛嫌いする貴族が多い。特に高位貴族になればなるほどその傾向は強くなる。
なのに、この人は。
「僕はよく領地に視察に行くんだけど、見ているだけで、手伝ったことはないんだ。何度か手伝おうとしたことがあるんだけど、領民たちに止められてしまってね」
そんな光景は簡単に思い浮かべることができる。誰も侯爵様に手伝わそうとしないだろう。何かあってはいけないから。
「まあ、彼らの気持ちも分かるんだけどね」
それでも残念そうな様子を隠しもしないアロイスについリディはくすくすと笑ってしまった。
そんなリディにアロイスは見惚れていた。
じっとみられていることに気づき、リディは首を傾げる。
「どうしました?」
「え、いや、なんでも。機会があれば、リディに教えてほしいな」
「我が家の畑でですか?」
「うん、そう。ここで育てられている農作物も一度収穫してみたかったんだ」
なんだか気になる言い方だ。
先程、庭を散策していた時にも感じたことだ。
ここの特産物をとてもよく知っていた。
だからといって「アロイス様はここと何かゆかりがあるのですか?」とは聞けない。
もし。もし、リディの考えるように彼がユリウスだったら?
彼はきっとリリアーナであるリディと今世でも結婚することを望んでいない。
だって、前世であんなに酷い目に遭わせた女だから。
リリアーナはユリウスのことを愛していたけれど。ユリウスはきっと違う。ただ、義務感で優しくしてくれていただけ。
そんな彼を縛ることはリディにはできない。
何故、リディに一目惚れしたのか。その真意は未だに分からないけれど、この婚約は破棄しなければならない。彼のためにも。
アロイスがユリウスでなかったとしても、婚約は破棄する。だって、リディはあの人以外を愛することはできないから。
未だにユリウスのことを思い続けている自分が、自分を好きだと言ってくれている人の気持ちを踏みにじってはいけない。アロイスを不幸にすることになってしまう。そんなことはもう前世で懲り懲りだ。
「そう、ですね。機会があれば」
きっとその機会は婚約期間内にはこないけれど。
「楽しみにしているね」
そんなリディの心情とは裏腹にアロイスは優しい笑顔を浮かべた。
食事を終えて、リディはアロイスを今日泊まってもらう部屋に案内した。
「ここがアロイス様に泊まっていただく部屋です」
我が家の中でも大きい方だが、それでも侯爵邸に比べれば小さい方だろう。
「こんな素敵な部屋をありがとう。今日は君と会えて嬉しかった。僕と婚約してくれてありがとう」
そう言って、アロイスはリディの右手の甲に唇を落とした。
リディが驚いている間にアロイスは部屋の扉を閉めてしまった。
「なかなかの好青年だったね、リディ」
リディが応接間に戻ると、父が座っていた。母は湯浴みをしているらしい。
「あ、うん、そうだね」
まさか求婚してきた人があの人そっくりだったとは思わなかったけど。
アロイスがユリウスの生まれ変わりなのか否か。それがとても気になったけれど、リディは訊くことができない。
それを訊いてしまえば、すべてが終わってしまうから。
もしあの人の生まれ変わりでなければ、リディは妄想癖のある変人になってしまうし、もし生まれ変わりなら、この婚約をしていてはならない。
「リディは、それでも結婚したくないのかい?」
下に向けていた視線を父に向ければ。どこか悲しそうに父は微笑んでいた。
父だって本当はリディに結婚して、家庭を築いてほしいのだろう。
「アロイス様は本当にいい人だと思うけど。それとこれとは話が別だと思うの。半年後のことは分からないけれど」
ここではっきりと、半年後は婚約を破棄すると言えばいいのに、言えなかった。
「・・・私たちはリディより先にいなくなってしまう。その時にリディを一人残すのが心配なんだ。誰か頼れる人がいればいいと思うんだよ。まあ、だからといって結婚することを強要するわけではないよ」
リディの子どもを、見たいだけではなかったのか。
「うん。後ろ向きに考えてるわけじゃないの。ただ」
ただ、あの人への未練が断ち切れないだけ。自分のせいで不幸にしたのに。
そんな自分がアロイスを幸せにできるのかも自信がなかった。
「まあ、半年あるんだ。じっくり考えなさい。父さんも母さんもそのことに関しては何も言わないから」
父の言葉にリディはただ頷くことしかできなかった。
リディの朝は早い。早朝から畑仕事をするからだ。
ここ数日はアロイスを邸に招くにあたり、畑に出られなかったが、長年染みついたくせはそう簡単には抜けない。
両親が起きてくることが遅いことの方が多いが、今日もそうだった。
数少ない使用人もまだ料理人か古参の使用人しか起きていない。そんな時間だ。
他の者を起こさないようにリディは忍び足で廊下を歩き、リビングに入った。
そこで心臓が飛び出るかと思った。
既にそこにはアロイスがいたからだ。
アロイスは新聞を読んでいるようだった。アロイスがいたことで驚いたからだろうか。少し音を立ててしまったようだ。リディがリビングに入ってきたことにアロイスは気づいたようで、新聞から顔を上げた。
「おや、早いね。おはよう」
「お、おはようございます。アロイス様もお早いですね」
「そう、だね。リディは畑に出るから早いのかな」
「はい。今日は出ないのですが、ほぼ毎日出ているので、自然とこの時間に起きるようになりました」
「早起きはいいことだよ。あ、ごめんね、勝手に新聞読んじゃって」
「別に大丈夫ですよ」
新聞はいつも届けられるとリビングのテーブルの上に置かれている。執事か誰か、朝早くから仕事をしている使用人が父のために置いてくれているのだろう。
「アロイス様は何故この時間に?あまり寝れていないように見えます」
目の下に薄くくまができているように見えた。
早起きが習慣となってしまっているのなら仕方ないが、そうではないような気がした。
「あー、そうだね。ちょっと悪夢を見ちゃって。それで起きてしまったんだ。悪夢を見た後はその後寝ることができなくてね」
「悪夢、ですか」
リディも年に数回ほど悪夢を見る。けれど、他人から言わせれば、それは悪夢というほどではないのかもしれない。
だって、その夢の大半はあの人との幸せな時間で占められているから。事実において、あの人と過ごした時間はリリアーナの生きた時間の中でほんの少しだったのに。皮肉な話だ。
夢の最後に自身で剣を突き立てる場面を見るが、そこは大して恐怖ではない。怖いのは起きてから。自分が犯してしまった過ちに慄然とし、後悔するから。
「リディも悪夢は見るの?」
「悪夢、は、年に数回ほどです。でもそこまで酷いものではないんです」
そう、悪夢自体は酷くない。ただ、リリアーナの犯した罪が重すぎるだけ。
「アロイス様の悪夢は酷いのですか?」
「酷い、かあ。どうだろう」
てっきり、怖くて起きてからしばらくは恐怖に支配されると言われると思っていたのに。返ってきたのは予想外の言葉で。リディは目をしばたたく。
「夢の内容はそこまで酷いものではないんだ。むしろ幸せなくらいで。だけど、後半はひどくて。自分がしてしまった後悔に苛まれるんだ」
後悔。リディと同じ。
その内容を訊いていいのだろうか。
「よく、見るのですか?」
逡巡したものの、結局内容を訊くことはできなかった。
「そうだね」
アロイスはリディのことを愛おしいものでも見るかのように目を細めた。
「許されるのなら・・・」
「おはよう、リディ」
アロイスは何事かつぶやいたが、入ってきた父の言葉にかき消される。
「おはようございます、ユストファ子爵」
父が現れたことにより、アロイスは表情をさっと変え、社交的な笑みを浮かべる。
「リヴァイン侯爵ももう起きておられましたか。おはようございます。すみません、お飲み物も準備せず」
父の言葉にリディははっとなる。彼のそばには新聞しかなかった。
「すみません、すぐ準備します」
「ゆっくりでいいよ」
そんなアロイスの声を背に受け、リディはリビングを出た。




