113. 悪夢は終わる
リアナが扉を開けると、暗闇が広がる。
その中、ゆっくりと赤い目はこちらを向いた。
扉から光が入った部屋の中、誰かが立っているのが見える。
「あれは…」
なぜ、ここに、人間が。
それにあの姿は、どう見ても彼である。
だが、ここにいるはずはない。
そう思っていても、激しく心臓が脈を打ちはじめる。
「リアナ、大丈夫か?顔色が悪いぞ」
「大丈夫です、ご心配なく」
「だが…」
自分が扉の前で止まったせいで、後ろからギルバートの声がかかる。
言葉にして強がってみたが、体が強張っていくのがわかってしまう。
指先からどんどん体が凍っていく感覚がする。
「ねぇ、あれおばけ?怖いよ、ハル」
「え?お風呂だよ」
「……これは、よくないですね」
「幻覚を見せるタイプか。これは、きついな」
他の人にとっては、他のものに見えている。
ならば、あれは幻覚なのだろう。
自分に近付いてくるあの姿は、偽物だ。
だが、頭では違うとわかっているのに、あの姿はどう見てもーーーー
「……アドルフ…様…」
一歩、また一歩下がる。
だが、その幻覚であるはずのアドルフから目が離せない。
後ろに下がり続けるリアナを、ルカは強く抱きしめる。
「リアナ、僕がいるよ。怖くない、怖くない」
「リアナ、大丈夫。僕もいる。ほら、フーベルト。僕の代わりに、リアナの涙を拭いて」
「リアナ、そばにいます。だから、泣かないでくれ」
あたたかい言葉と体温で、リアナの心は落ち着いてくる。
フーベルトにハンカチで涙を拭かれながら、目の前の光景を眺める。
アドルフの姿は消え、次に流れ出した風景は、いつもの自分の光景、家族での会話。
そして、知らない場所に一人で立つ自分の姿。
「…っ!」
これは、ここ最近見る、悪夢の内容と一緒だ。
夢の中で目が覚めたら、毎回、知らない場所にいる。
それが繰り返された結果、眠るのが怖くなって、そのまま朝を迎えるようになった。
だが、悪夢で苦しんでいるなど、誰にも相談はできない。
ただでさえ、迷惑をかけたのだ。
これ以上は、心配させたくはなかった。
そのせいで、この心に溜まって暗い感情を、吐き出せる場所はない。
『心の声を、吐き出して。全て、ちょうだい」
「え?」
ふと、耳に入った言葉は、聖獣がいる方向から聞こえた気がする。
そのせいなのか、リアナの口から、勝手に言葉が出てくる。
「ここは、どこ。家に、帰りたい。眠りたくない。寂しい。怖い」
「リアナ?」
リアナは急いで両手で口を閉じるが、周りの人にしっかりと聞かれてしまう。
我慢しようとすればするほど、なにかが込み上げそうになる。
これは、もしかして、魔力の流れではないのだろうか。
「待て、リアナ。落ち着け、気持ちを落ち着かせてくれ。魔力が揺らめいている」
ギルバートの言葉に、ハルはルカを連れて、少し離れてくれた。
体の中で魔力の揺らめきを、先程より強く感じる。
魔力を落ち着かせるためには、きっと我慢せず言葉を紡ぐことなのだろう。
だが、その内容は聞かれたくない。
『ねぇ、きかせて』
もう一度願われた言葉に、隠していた感情が口から溢れ出てくる。
「悪夢が、覚めない。今も、夢?起きたら、知らない場所?また、閉じ込められる?ねぇ、誰か」
「リアナ、大丈夫だ。夢じゃない」
強く抱きしめられ、リアナの言葉が止まった。
あたたかい体温と、ひどく落ち着くにおい。
そして、耳に入るフーベルトの鼓動。
もしかして、今、抱きしめられているのではないのだろうか。
いつもなら慌てるのだが、こんなに落ち着くのだ。
今は、離れたくはない。
リアナはフーベルトの服を掴むと、顔を埋める。
「リアナ、大丈夫だから。もう、ひとりにしない」
安心させようとしてくれるフーベルトの優しい声が聞こえ、そのあたたかさに安堵する。
そのことで気持ちが落ち着き、リアナはゆっくりと離れると、ギルバートの方を向いた。
「家族の元に帰って来れた。それが、現実だ」
「そうですね。なかなか、悪い夢でした」
「なら、あの子を悪い夢から覚ましてあげてくれ」
「お任せください」
リアナは笑顔を見せると、ルカの元へ行く。
まだ怖いが、大丈夫だ。
みんながそばにいるのだから。
「リアナ、大丈夫?」
「ルカがいるから、大丈夫。一緒に、唄ってくれる?」
「一緒に唄おう。僕が、リアナを守るよ」
「ありがとう、ルカ」
リアナはルカと手を繋ぐと、再び現れた幻覚のアドルフを見ながら、唄う。
この悪い夢が早く醒めますように、と。
唄が終わると、目の前に立つ幻覚の姿は消え、代わりに姿を現した正体に、リアナは目を見開く。
「リーフドラゴンか。幻覚を見せるのも、納得だな」
リーフドラゴン。
全身を植物に覆われ、小さな体を守るために、幻覚を見せると昔、授業で習った。
人間を嫌い、近づくことすらできないのに、それが目の前にいる。
リアナはリーフドラゴンと目が合うと、頭に声が流れ込んできた。
「ありがとう、人の子。名前は?」
「リアナ・フォルスターです…」
「そう。なら、私からはこれを。お礼よ」
リーフドラゴンは飛び立つと、リアナのおでこに鼻先をつける。
そして、甘い香りが広がると、頭に花飾りがつけられている。
「よく似合っている。私の名前は、リーフィー。リアナ。また、会いましょう」
「また?」
かわいらしい花飾りに驚いていると、リーフィーは姿を消した。
その場所をずっとリアナが見つめていると、誰かに頬を撫でられる。
その手の先、目が合ったフーベルトは心配そうにこちらを見ていた。
「リアナ、あまり寝てないのか?クマがすごいぞ」
「これは…あの」
「話してくれるか?どんなことでも、きちんと聞くから」
きっと、先程の涙で、化粧が落ちてしまったのだろう。
どうにか誤魔化すための言い訳も浮かばず、目を伏せる。
だが、少しぐらいなら、言ってもいいかもしれない。
弱音を吐いたとしても、優しいフーベルトは受け止めてくれる気がする。
そう信じ、リアナは話し始める。
「あの日から、毎日、悪夢を見るんです。それで、ここ何日かはあまり寝ていなくて。ただの夢なのに、困っちゃいますよね」
どうしても心配させたくない気持ちが上回り、リアナは最後には笑顔を作ってしまった。
それに対して、フーベルトは優しく微笑んでくれる。
「大丈夫。悪夢は、なかなかしんどいものだ。今日は帰ったら、ハルさんとお昼寝をしたらどうだ?」
「たしかに。お菓子を食べた後に、お昼寝しよう」
ハルはお菓子が食べたいだけではないのだろうか。
だが、もう悪夢は見ない気がする。
帰ったら、お昼寝をするのも、いいかもしれない。
リアナのやり取りを見守っていたギルバートは、声を潜めて、ルカに問いかける。
「ルカ、今の唄は?」
「幸せになるためのおまじない。ギルバート様」
「なにかな?」
「おまじないは内緒です。悪いおばけが来るって、師匠が言ってたから…」
「そうだな。その時は私も守ろう」
「じゃあ、リアナを守って。大切な人なの」
「わかった。約束しよう」
ルカはギルバートにお願いをすると、リアナへ抱きつきに行く。
「リアナ、僕ね。ルイゼにアップルパイの作り方、教えてもらったよ。今度、一緒に作ろうね」
「そうなの?楽しみだわ」
「えらいぞ、ルカ!よーしよし」
「ハル、髪がぐしゃぐしゃになるよ〜」
リアナに抱きしめられ、ハルに撫で回されながら、ルカは幸せそうに笑う。
その姿を見ながら、ギルバートはフーベルトと声を落として、会話を交わす。
「フーベルト。リアナとハルが作ったあのガラスを作れる職人を、今すぐ育てろ。できうる限り、早く」
「それは今、順調に進めていますが。なにかありましたか?」
「大量のガラスを、リアナが作るのは大変だろう。それに、今度、魔力の測定をやり直さねば」
どうも、リアナの魔力量が増えている気がする。
高魔力を持つものは、近くにいるだけでわかるのだが、それを以前よりもリアナから感じている。
この前の暴走で、さらに上がった可能性が高い。
それに、先程のリーフドラゴンになにかされたようだ。
「師匠!師匠も来て!」
「今、行きます」
ルカに呼ばれ、フーベルトはリアナの元へ行く。
幸せそうに笑うリアナの紫の瞳の下、クマがひどく目立っているが、それもすぐに改善されるだろう。
その様子を見守りながら、ギルバートは静かに思考する。
「寂しいが、見送るしかないな。白き獣の唄は、世界に響かせねばならぬ」
きっと、ルカは白き獣の唄に出てくる神獣なのだろう。
その報告は、ダリアスからは受けていないが、レオンからは受けている。
今度、一緒に酒を飲むのだ。
そのときに、しっかり説明してもらうことにする。
ギルバートは周囲に気付かれぬように、ルカに対して小さく頭を下げる。
「すべては、貴方のために。白き獣、ルカよ」
ギルバートの青の瞳には、白く神々しい獣の姿が映っていた。




