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9 綻び



 1277年、モンゴリアでシリギが乱を起こした。


 シリギはクビライの兄にして先の大カーン・モンケの第四子である。

 西の内陸で乱を作すカイドゥを鎮圧するために送られた将軍であったが、抵抗勢力に担がれて叛乱軍領袖の座へと鞍替えしてしまったのである。


 討伐を命じられたのは、前年に宋を征伐したばかりのバヤン。

 2月には洪茶丘も、モンゴル人・高麗人・女真人・漢人を率いる別働部隊として参加した。

 その前月には鎮国上将軍・東征都元帥を授けられ、高麗の騒動を鎮定する任についたばかりのところを、急遽呼び戻されたのであった。


 大元ウルスはユーラシアの東半分を支配する大帝国である。

 将軍の人材に事欠くはずもない。


 にもかかわらずクビライは切り札を、大カーンの右腕として令名高きバヤンを投入した。

 その事実からシリギの乱の重大性を見て取れる、のであるが。

 翻って見るに、33歳の洪茶丘もまた、わざわざ呼び返してまで重要な戦線に投入すべき男になっていたのであった。

 

 その茶丘が担当したのは、大回りルート。

 シリギが北辺の固めにと配置していた部隊長・ジルガタイ(デルワタイ)が相手であった、けれど。


 「四月至脫剌河猝與賊遇茶丘突陣無前」

 ――4月、トラ河(トール川)に到着したところ、賊と不期遭遇した。敵陣に突撃をかける茶丘を遮る者は無かった――

 

 史書に記されたそのさま、まさに鎧袖一触。茶丘の武勇は敵味方に鳴り響いた。

 本軍を率いていた司令官のバヤンはその宣伝効果を大いに評価した。

 銀五十両、金で飾られた鞍と勒、弓矢を下賜したと、これも史書に記されている。


 茶丘もまたクビライが手持ちの切り札、その一枚であったのだ。

 


 だが当の茶丘は、珍しく愚痴を漏らしていた。


 「この忙しい中を、忌々しい」 


 その口を、頬を緩ませつつ。


 海洋進出の世界的意義も、クビライの志望も理解していた。

 仕事を任せてもらえることに、そのやりがいに、喜びを覚えていた。


 だが馬を駆って草原を走る快もまた、何ものにも代え難いのである。

 草原の子、モンゴルの男なら誰しもが知る喜びであった。


 茶丘は後ろ髪引かれる思いでモンゴリアを後にした。




 この叛乱、シリギを放逐するところまでは簡単に片付いたのだが、完全な鎮定までには時間がかかった。無関係の騒動も多発した。

 そのため主将のバヤンは、1293年までモンゴリアへの駐屯を命じられていた。


 モンゴリアはモンゴル帝国の発祥地、ハートランドである。

 つまりバヤンは首都圏に次ぐ要地を任された、内陸部に蟠踞するカイドゥへの抑えと恃まれた。それは間違いないところ。

 同じ枢要の地と言っても、モンゴル人がその気候にどうしても馴染めぬ江南などに回されるよりは遥かに好待遇でもある。

 つまりクビライのバヤンに対する寵愛や信頼には変化が無かった、のではあるが。


 バヤンは、クビライの海洋政策に携わることが無かったのであった。

 


 「遠ざけられたとは思わぬが……」


 やはり煙たかったのであろう。バヤンはそう思った。


 水陸をともにひとつの世界に取り込もうとする政権運営の方針、いわば一帯一路。

 それは十分に練られた構想であり、実際に効果を挙げ始めてもいた。


 だが大カーンご自身も確信を持つには至っていないのであろうと、バヤンはそう思っていた。

 自信に満ち溢れているならば、最も鋭い反論にも余裕を持って対応できるはずなのだから。

 


 ならば私が為すべきは、陸に後顧の憂い無からしむることだ。

 大カーンが海洋進出に注力できるように。


 その決意のもと、バヤンはモンゴリアの統治を進めていった。

 


 「だがそれにしても、治まらぬ」



 西のカイドゥだけではなかった。

 モンゴリアでも、その東でも。散発的にクビライに逆らう勢力は後を絶たなかった。


 もとは外部勢力であった者たち……オアシスの民、砂漠の民、農耕の民が、ペルシャ系、アラブ系、トルコ系に漢族が平和を謳歌し、増えた富に笑顔を見せているというのに。

 それ以上に富を配分されているはずの、身内のモンゴル族が不満を抱き続けていたのである。


 「草原の、モンゴルの惇風を取り戻せ」

 「大カーンはどこを見ておいでなのか。何を目指されているのか」

 「お見捨てになるならば、我らとて。別のカーンに力を貸そうではないか」 

 


 バヤンはため息をついていた。

 再び高麗に赴き海洋進出の準備を始めた茶丘がこの様を見たらどう思うだろうと。


 新たなる秩序、統一された世界。それこそがモンゴルであると、未来を夢見る青年であった。

 経済の循環を妨げる地方政権や地域色豊か(ローカル)なしきたりを、因習を、何より嫌っていた青年であった。


 その新世界モンゴル発祥の地が地域色に染まり、古き風習を固持せんと保守化してゆくのを見て、茶丘は何を思うだろうと。



 外の者が喜んでモンゴルに集うなか、内の者がモンゴルに背を向ける。

 外の者はさらに外へと広がろうとし、内の者はさらに内側を向く。


 みなバラバラではないか。


 「ああ、そうか」


 啓典の民(一神教徒)の文化に詳しいバヤンには思い当たることがあった。

 

 バベルの塔。

 

 人はひとつになろうとして、しかしまた自ら散り広がってゆくのであった。

 言語の違いに象徴される、文化の、生き様の違いによって。

 

 「世界の、時代の最先端に生起しているのは、世界で最も古い出来事であったか」


 いや、時を超え所を異にしてもなお普遍性を持つからこそ「典」、聖典・啓典・経典なのだ……と思い直したバヤンであったが、ひとつ天を仰いでみて、すぐと肩を竦めざるを得なかった。

 


 典とは、「人たる者であれば必ず拠って立つべき聖なる書物」のはず。

 しかしその意味すら一つではない。

 色目人はコーランや旧約聖書を思うが、仏僧ならば大蔵を思い、漢族は『易』や『詩』を頭に思い浮かべるであろうと。



 「どうも私は、真面目な信徒にはなれぬようだな」

 

 モンゴル人だもの……いや、軍人・政治家を長く続ければそうなってしまうものさと、開き直り。

 賢相バヤンの悩みは晴れた。


 「つまり人間というもの、まとまるはずもない。それが全てか」


 ならば小さな叛乱など気にしても仕方無い。

 良いではないか。

 それでもみな、自分たちをモンゴルだと自己規定し、大カーンを戴いているのだから。

 



 バヤンはモンゴリアの騒動を収めきれずにいたと言われている。

 だがその実態は、弾圧・鎮定しなかったと、それだけのことであった。

  

 下手に強硬策を採り、一斉蜂起を引き起こしては元も子もない。

 だから多少の諍いは無視する。草原の文化、民族の血の騒ぎは許容する。大乱にならねば良いと。身内ならではの温情主義を心掛けていたのであった。

 全体的に見れば、カイドゥに傾きつつあったモンゴリアをクビライ側に引き戻す功績を挙げたと評価できる。


 バヤンの判断は、おそらく正しかったのであろう。

 しかし数年後に禍根を残すことにもなった。

  


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