6.清潔は心を癒すのです
少しグロテスクと思うような表現があるかもしれません。(欠損、壊死など)
苦手な方はご注意ください。
後ろから「待て!」という鋭い声が聞こえたが、全くの無視だ。
天幕を開き、中へと足を踏み入れた瞬間、レンシィの目の前を小さな羽虫が数匹飛び交った。
それに驚くより先に、悪臭が鼻を突く。
外でも臭ってはいたが、中に入ればそれは比べ物にならないほど酷かった。おそらく出来る限りの獣避けなのだろう。
それは肉の腐る臭いだった。
中に居たのは10人ほどだろうか。
男女は分けられておらず、また年齢も様々だ。
見渡す必要もなく、目の前に広がるのは傷付き苦しみ呻く人の、無惨な姿。
道中、魔獣の群れに襲われたと聞いてはいたが、懸命に戦ったのだろう。
脚や腕を片方食いちぎられている者。
顔に包帯を巻かれている者。
それだけではなく、飢えで動けなくなった幼い子供や、皮と骨のような姿の赤子を抱え、天幕の端で茫然としている母親。
説明など無くても、どれ程の悲惨さかは理解出来た。
また満足な手当も出来ないのだろう。
包帯の代わりに元々は衣類かなにかだったのだろう千切られた布が巻き付けてあり、それでも足りない傷口はそのままに晒さられ、蝿が集っている。
化膿し、壊死しているのが分かった。
母に抱かれている赤子は死後硬直すら解けるほどの時間が経っているのだろう。
口元に寄る虫を払う事すら、母親は諦めていた。
「……うぅ……うぅ……」
「おかぁさん……痛い……痛いよぉ……」
「助けて……くれ……殺してくれ……」
汚物を処理する者もおらず垂れ流しなのは、長期に滞在をする予定が無いからか。
もしくは、彼らが明日の朝生きている保証すら無いからか。
あまりの惨状に立ち尽くすレンシィの後ろで、追いついたグリム達が自嘲を含んだ笑い声を上げた。
「お嬢様にはさぞかし汚い光景だろうな! 分かったらさっさと帰れ! 下賎な民の醜態を笑いに来たのなら満足出来ただろう!?」
グリムの叫びが背中を打つのを無視し、それまで幕を支えていたレンシィの手が、それを離した。
当然、幕は重力に従いバサリと落ちる。
だが、レンシィの背中は天幕の外ではなく、内へと吸い込まれてしまったのだ。
ギョッとしたグリムが慌てて駆け寄ろうとした時だ。
突如天幕の布が、中から溢れ出した風に煽られてバサバサと揺れたのだ。
止められていない入口は何度も何度も巻き上がり、中で佇むレンシィの背を見え隠れさせていた。
その姿が、月のように淡い光に包まれていることに気づいた。
「な!?」
「なんだ!?」
「グリムさん!どうしたら!?」
「待て!近寄るんじゃねぇ!」
天幕の布地が薄く、派手に舞っているように見えるが、実際はそこまで強い風ではない。
悪臭が全て排出され、強烈な臭いが辺りを一瞬支配したかと思うと、それらも呆気なく空気の中へと消えていった。
巻き上げられた土埃に目を庇い、再び開いた時には、目の前の天幕は張りが弱かったためかすっかり布地がめくれ上がっていた。
だが土台となる木枠がしっかり土中に埋めてあったため、引き倒されはしなかったようだ。
中に居る者達は、皆弱りきった目でも初めてレンシィを捉えていた。
それも当然だ。
この風が吹く前、確かに天幕は汚れ、黴が蔓延り、土の色に塗れてとても人の住まうものでは無かった。
だが今、先程の風が全てを攫っていったかのように、天幕の布が全て真っ白になっていたのだ。
それは周りでレンシィと天幕を取り囲んでいたグリム達も、言葉すら失い立ち尽くさせた。
どう見ても新品のように綺麗になった天幕。
それを満足気に見遣り、レンシィは1番手前に寝かされていた、片足の食いちぎられた少年の傍にしゃがみ込んだ。
シルクの布にサテンのレースがあしらわれたドレスのスカートが地面に着く。
それを気にもせず、レンシィは少年の肩へと触れたのだ。
「痛かったわね。もう大丈夫ですわよ」
「…………え?」
少年が問い返すより早く、彼の身体が淡い光に包まれた。
先程レンシィの身を包んでいた、月の光のような朧気な光だ。
「……え?……え?」
それも僅かな間。
光は少年の全身から失われた右脚へと集まってゆき、やがて巻かれていた布がスルスルと解ける。
同時に集まった光が脚の形を象ったかと思うと、それがスウッと抜けるように30センチほど上に小さな塊となって集まったのだ。
そしてみるみるうちに輝きを失っていき、やがてそれはコトンと微かな音を立てて薄い布が敷かれた地面へと落ちた。
「………………え?」
そこにあったのは、血のように真っ赤な小さな丸い宝珠だった。
大きさは2センチ程だろうか。
だがそれよりも、少年はムクリと起き上がって自身の足に釘付けとなっていた。
「なっ!?」
「……え!?」
周りからも響めきが走る。
それもそのはず。
少年の失われた右足が、綺麗に生えて治っていたからだ。
それだけでは無い。
栄養状態が悪く、貧血と感染症も起こしていたのだろう少年の顔色はすっかり良くなり、自分の脚をぺたぺたと触りつつ血色の良くなった頬や掌を指で確認する。
言葉もなくワナワナと震えている少年へ、レンシィは地面に落ちていたその赤い宝珠を指先で拾い、彼の右手を掴むとその掌へと置いたのだ。
「この宝珠を、肌身離さず持っていなさい。1度だけ、貴方の身を怪我から守ってくれるでしょう。この大きさであれば、再び大きな事故でもその身が守れるはず。きっと役に立ちましょう」
そう告げて美しく光る赤い宝珠を差し出した幼い少女は、まるで幻想の世界から出てきたかのように美しく。
少年は頭が追いつかないのか、ポカンと口を開けたまま返事もできず宝珠を握りしめたまま固まっていた。
それを気にもせず、レンシィは次に横になっていた腹を割かれている青年の元へと歩み寄ったのだ。
そして同じように光が青年の身を包み、ポトリと宝珠となって地面へ落ちる。
その跡には、怪我が一切消えた腹が露となっており、青年は声もなく目を見開いていた。
その青年へと、同じように赤い宝珠を差し出すレンシィ。
更に数人繰り返し、やがてそこにいた怪我人全てが元の身体を取り戻していた。
それは間違いなく、癒しの魔法だった。
噂では聞いたことのある、光の精霊の加護を受けた者だけが使える最上級の魔法。
だがそれすら単に怪我を癒す程度な筈で、欠損した四肢すら元通りにしてしまえるほどのものではなかったはず。
信じられない奇跡を目の当たりにしたように、その場の誰もが穏やかに微笑むレンシィを、目を見開いて見詰めていた。
天幕から外で成り行きを見ていることしか出来なかったグリム達すら同じで。
だがレンシィが満足気に微笑んで立ち上がった時、天幕の端、床に敷かれた布の隅に座り込んでいた女性が、愕然とした声を上げたのだ。
「……なんで……」
彼女は、木の枝のようになった裸の赤子を抱いていた。
その子は明らかに息をしていない。
生きている肌の色をしていなかった。
だらりとしている身体は、腐敗が始まりかけているのだろう。
痩せこけた母親らしき彼女は、それでも赤子を離せないのだ。
「……なんで……神様……」
愛しいわが子を。
「ねぇ……神様なんでしょう? 何故もっと早く来てくれなかったの……」
彼女は赤子を抱いたまま立ち上がり、フラフラと覚束無い足取りでレンシィの前まで歩み寄った。
その足元に、力無く崩れ落ちる。
目にいっぱいの涙を貯めるが、流れ落ちる量は少ない。脱水になりかけているのだろう。
それでも、母親は泣いていた。
「…この子は一昨日死んだのよ……もっと早く来てくだされば、この子は死なずに済んだかもしれないのにのに……もっと早く…………なぜ来てくれなかったの……」
理不尽な言葉だと分かっているのだろう。それでも言わずにはいられないのだ。
周りに座り込んでいる癒された人々も、その母親の悲しみを分かっているだけに、未だ喜びの声を上げることも出来ず目を逸らしている。
その母親の腕の中の子供へ、レンシィは手を伸ばした。
「…遅くなってごめんなさいね」
黒味を帯びた額を撫で、穏やかな声でレンシィが謝罪する。
その美しい声を、母親はハラハラと落ちる涙と共に聞いていた。
どんなに謝られても、手遅れなのだと絶望しながら。
だが、それなのに。
「貴方はこの子の母親ですのね。子を喪って泣く親など、私は許さなくてよ」
やがて先程怪我を癒した時のように、レンシィの指先から赤子の身体を包み込むように淡い光が広がってゆく。
まさか、そんな。と腕の中を唖然と凝視する母親に、レンシィはそっと微笑みかけた。
「亡くなって50日を経っていなければ、魂はまだ貴方の近くに寄り添っておりますの。その子を呼び戻して、身体を癒して差し上げれば元は自分の体。どうすればいいかは、本人が無意識に分かっているでしょう」
人の魂は50日目から輪廻の中へと戻ってゆく。
新たな命として産まれる為に。
さすがのレンシィも、新たな生として宿った命を殺してまで生き返らせようとは思わない。
魂とは、いつまでもその場に留まり続けるものでは無いのだ。
だがこの子は亡くなってたった2日。
レンシィにとっては余裕だった。
「……あぁ……ああ……」
母親が腕の中の重みを確かめるようにただただ声を洩らす。
骨にピッタリとくっつき、枯れた枝のようだった腕は僅かに肉が付き、瑞々しさを取り戻し、そして肌の色が血の気を帯びてゆく。
変わらず痩せてはいるが、それでも僅かにやわらかさを取り戻した腕の中の幼い身体が、光を天に昇る砂時計のように抜け出た後に、フッと小さな唇から息を吐き出したのだ。
カタカタと母親の全身が震え出す。
「その子の魂を呼び戻しましたの。今度こそ、喪わないように、大事になさいませね」
コン、と軽い音を立て、またもや地面に小さな宝珠が転がった。
それは先程までの真っ赤なものではなく、透き通る水晶のような色の無いもので。
その宝珠を拾いあげると、レンシィは同じように母親の手を取り、そこへと乗せてやった。
「肌身離さず持っていなさい。貴方かその子供。どちらかを1度だけ、全ての苦しみから守ってくれるでしょう」
震え続ける母親が、視線を掌の宝珠へとやった時だ。
「ふやぁ…ふにゃぁ……」
腕の中の赤子が、弱々しく泣き始めたのだ。
それまで蝋人形のように血の気を失い、黒さに侵食されていっていた赤子。
それが、息を吹き返し、目を開き、そして母親を見た。
あぶぅ、と泣き声混じりの声をあげ、母親の顔へ小さな手を伸ばす。
その幼い掌が、母親の頬にペタリと触れた時だった。
「――――! 坊や! 坊や!! あぁ――!」
遂に堪らなくなった母親が、赤子を強く抱き上げ、しっかりと抱きしめて叫んだのだ。
大声で泣きながら。
それは嘆きの声ではなく、確かに歓喜と驚愕の叫びだった。
「坊や! 坊や! 私の坊や! 嘘のようよ! 温かいわ! 温かい!」
生きてる! 生きてる! と涙を流し喜ぶ母親に、周りの者全てが驚愕の視線を向けるしか無かった。
当の抱き上げられている赤子だけが、何が起こったのか分からないのか、母親の肩口からキョトンとした目を見開き「……う?」と疑問の声を上げている。
身体の全ての損傷は癒したが、目覚めたばかりで鈍くなっているのだろうか。
「…………嘘だ」
「奇跡だ」
「……そんな馬鹿な」
死に至る深い傷を癒し、欠損した四肢を戻し、そして死んだはずの人間さえも甦らせる。
そんなことが出来るとすれば、それは正しく奇跡としか言いようがなく。
レンシィは自分を囲み、唖然とする人々にやはり構うことなく、再び地面へと指を触れさせた。
そこは天幕の床に広げられている、なんてことの無い薄い布。
人々の汚れが染み込み、綺麗になった天幕とはアンバランスとなっていたそれ。
その空間が、再びふわりと、しかし先程よりも優しい風が天幕の中に吹いた。
その場にいた人々が一瞬目を閉じ、そして開けた次の時には、その床の布から人々が纏う服。
そして放置され汚れていた身体までもが、まるで洗濯し、風呂にでも入った後のように綺麗になっていたのだ。
「え!?」
思わずといった声を上げたのは、1番最初に癒してもらった少年だ。
勿論彼だけでなく、天幕の中に寝かせられていた人々は驚愕の顔でキョロキョロと辺りを見渡し、そして自分の体を確認してゆく。
そこは、最初にレンシィが訪れた天幕とは、既に似ても似つかないものとなっていた。
真っ白になった天幕と床に敷かれた布。皮脂や泥の汚れ1つ無くなった、清潔な服を来た血色のいい人々。
天幕の中は虫1匹おらず、いつの間にか清涼な空気が流れていた。
そこへ、レンシィが人差し指をくるりと回す。
「出てきてちょうだい精霊の子。この天幕の中に、朝まで淡い安らぎを与えて欲しいの」
その指に、まるで蛍のような光の玉がすぃーっと流れてきて触れる。
やがてそれは天幕の天井へとゆっくり登ると、張り付くようにそこへ落ち着いた。
同時に、天幕のめくれ上がった布がスルスルと滑り落ち、再び閉ざされた空間となる。
だが先程の天幕の中とは雲泥の差だ。
まるで同じものとは思えない。
天幕の中は、先程レンシィが呼び出した光の下位精霊の放つ光が優しい色の灯りとなっており、深い闇に支配されることも無くなっていた。
「夜分遅くに、大変失礼しましたわね。それでは皆様、ゆっくりお休み下さいますよう」
レンシィはにっこりと笑ってそう告げると、再びスカートの裾を引き上げ美しいカーテシーを披露し、茫然としたままの周りの目など関係なく背を向け、そのまま天幕から呆気なく出ていってしまった。
その場にいた全ての人々が、慌ててその背を追いかけたのは当然の事だった。