4.空を歩く令嬢
執務室に軽いノックの音が響き、エドウィンは目を通していた書類から顔を上げた。
ドア横に待機していたウォークマンが微かな音と共にドアを開くと、そこにはエドウィンの愛しい娘が立っていた。
時刻は既に深夜になる頃。幼子は寝る時間だ。
だがエドウィンは窘めることはせず、穏やかに微笑んで娘の来室を歓迎した。
「やぁ、どうしたんだいレンシィ。眠れないのかい? 乳母はホットミルクを入れてくれなかったのか?」
「いいえ、お父様。マリアベルから蜂蜜入りのミルクを頂いたばかりです。それでも気が高ぶっているようで、堪らず足が向いてしまいました」
入っても? と目で伺いを立てる愛娘に、勿論とでも言わんばかりに頷く。
小さなレディの前へ差し出された執事の大きな手が、廊下の冷気に晒された指先を温めながらレンシィをソファーへエスコートした。
「これ以上何か飲めば、また夜中に目が覚めてしまうかもしれないな。かと言って甘い物を食べるような時間帯でもない。さてどうするべきか」
「お気になさらないで、お父様。私はお父様のお顔を見たかっただけなの。もう満足致しましたわ」
「なんていじらしい言葉だろうね。久しぶりの時間に、恋しさが募ってくれたのだろうか」
愛しい娘の可愛い言葉に疲れも吹っ飛ぶ。
明らかに先程よりも僅かなトーンが弾んだ声は、しかし娘の膝へと落とされたままの視線と、憂いを帯びたような表情にすぐに収まってしまった。
「……それもあるのですが……」
執務室の中の光を放つシャンデリアは下位の火精霊の魔法だろうか。
そう言えば執事のウォークマンは炎の中位精霊の加護を貰っていたと聞く。
暖炉の暖かな焚き火も、エドウィンの執務机の端に置かれている紅茶のお湯も、そういった精霊の加護から得た日常魔法のひとつだ。
この世界の人々は精霊の加護を受け、その力を借りて生活を豊かにしている。
逆に言えば、人々を苦しめる何かが起こっているとすれば、それは精霊の加護にも及ぶことが出来ない程の事態ということだ。
レンシィの不安を悟ったのだろう。
エドウィンは執務用の椅子から立ち上がると、レンシィの座る3人掛けソファーのその隣に座り、驚かさないよう頭を撫でた。
すると僅かに張り詰めていたレンシィの肩から、ふと力が抜ける。
それ程心配してくれることが嬉しいと告げれば、この世界で唯一の姫は怒ってしまうだろうか。
「……気にしてくれているのかい?」
「勿論です」
ゆっくりと顔を上げ、見上げたその瞳は、夜の帳の闇に触れられていても凪いだ海のように深い蒼をしており、こうしてみるとエドウィンよりも濃い色をしているように思えた。
もしかしたら、レンシィは王家の色彩を強く受け継いだのかもしれない。
「……明日、お父様は昼に仰っていた、避難してきた方々の元へと行かれるのですよね?」
「そうだね。朝から出発すれば昼過ぎには着くだろう」
グロウレン家専属の騎士団の半数を連れてゆくという事実までは話さないが、何となくレンシィには察することが出来る。
騎士団の動きが活発で、備蓄庫からの持ち出しの様子が常の遠征よりも多かったからだ。
何より、精霊達が教えてくれた。
避難民らの様子が随分と殺気立っており、一歩間違えばその場で戦闘になるだろうと。
既に道中の他領からは断られ続け、この先は無いとでも思っているのだろう。
なにより病人や怪我人も多数居ると聞く。
もしも追い出されるようであれば、全力で抵抗して土地を奪うつもりだろうと。
それ程までに追い詰められた人間に対し、エドウィンはどのような判断を下すつもりなのか。
現在の避難民の状態は報告で聞いているだろう。
エドウィンの考えがレンシィは知りたかった。
それにより、レンシィの今後の動きも大きく変わるからだ。
エドウィンはレンシィのその小さな肩に手を置き、安心させるように、だがどこか困ったように微笑んだ。
「いいかい、レンシィ。昼間にも言った通り、彼らは既に他の領地から受け入れを拒否され続け、幾日もかけて我が領地へ辿り着いた。これで私達の土地でも受け入れを拒否すれば、彼らは本当に行き場を失ってしまうだろう。この国の外へと放り出されてしまえば、周りの森には危険な魔物が幾らでも生息している。それは彼らに対して死ねと告げているも同然だ」
そこで強く一度、口を引き結んだ。
エドウィンの目が痛々しいと如実に告げ、悲しみの色を纏う。
それは何よりも、レンシィが好まないものだった。
「……だからね?……だから、私は、全ての民を受け入れようと思う。それだけでなく、必要な援助を全て行い、今彼らが逗留している土地がなんとか拓けるよう、支援しようと思う」
グロウレン領は豊かな土地だ。
土に恵まれ農地を整え、気温にも雨にも満たされている。
だがそんな土地でも人の手が長年入っていない地域は、やはり自然のままで畑の土などが整えられていない。
そこを興し、村にするまでにどれ程の人手と金、そして時間が掛かるだろうか。
だけらこそ騎士団の半数を連れていくという決断にもなっているのかもしれない。
移住希望者との衝突を警戒するだけでなく。
「…………お父様は、全てを受け入れるおつもりなのですね」
レンシィの口からも繰り返し確かめると、エドウィンはその視線を真っ直ぐに受け止め、笑みながらそっと頷いた。
「レンシィ、私達〝貴族〟というものは、領民の税を得て生活をしている。彼らから税を集め、それを適切に振り分け、王都に納める。私達が行っている事業も、領民あってこそ成り立っている。だから貴族は、何かあれば領民を守らなければならない。
彼らに豊かな生活と安全を与え、そして問題を解決するなどの義務を背負うんだ。領民だけではない。この国に住まう国民は、等しく国から守られなければならない」
告げると、エドウィンは一度立ち上がり、レンシィの傍らへと膝を着いた。
目の前に設置されているローテーブルと並ぶ形だ。
レンシィの小さな手を取り、エドウィンはその甲へと唇を落とした。
「分かっておくれ、愛しい娘よ。これから荒れて、私や騎士団がほぼ屋敷に帰れないかもしれない。費用が掛かり、少しばかり生活が質素になるかもしれない。他の領民から、理解が得られず反発を受けるかもしれない。それでも彼らを救わねば。私はこの国の貴族として、義務と誇りを捨てることは出来ないのだよ」
たった7歳の娘に何を語っているのかと、エドウィンは思わない。
貴族の家に産まれた者。その立場を幼い頃から理解することは大切なことだと考えるからだ。
それに何より、自分の娘はとても思慮深く、理解力があると感じていた。
他人が聞けば親バカだと笑うかもしれないが、それでも少なくとも今こうしてレンシィは真剣に父親の声に耳を傾けている。
「分かりました、お父様。私は民を思うお父様を誇りに思います」
「レンシィ、ありがとう」
そしてエドウィンの言葉にニコリと笑みで返すと、自身の小さな手を握る父の指を握り返した。
子供の体温は大人より若干高く、また夜遅いともなれば眠気に伴って更に上昇しているのだろう。
レンシィの手は指先までほわりと温かく、エドウィンの疲れた心にじんわりと癒しを与える。
それがとても心地よく感じた。
「お仕事の邪魔をしてしまい、申し訳ありません。でもお父様のお話を聞けてよかった」
「あぁ、私もレンシィの顔が見れて嬉しかったよ。まだまだ頑張れそうだ」
「でも、ご無理はなさらないでくださいね? もしお父様が倒れでもしたら、お母様も私も泣きますわよ?」
セリフと同時に笑みを収めて今度は眉根を寄せれば、エドウィンは困ったように頬を掻いた。
「それはいけない!肝に銘じよう。私は君とグローリアの涙が何よりも胸に刺さるんだ」
「お気をつけくださいませ」
エドウィンの返しに満足をし、レンシィは今度こそソファーから降りて立ち上がった。
先程はウォークマンにエスコートしてもらったドアまでの道を、今度はエドウィンにエスコートしてもらう。
ドアを開け、その先まで見送られれば、そこで幼いながらも美しいカーテシーを披露した。
「それではお父様、おやすみなさい。また明日、朝食をご一緒致しましょう」
「あぁ、約束しよう。おやすみレンシィ。良い夢を」
「お父様も」
目の前で静かにドアが閉められるのを見送り、レンシィは一度だけそっと瞬きをする。
そしてくるりと振り向くと、自身の部屋へ向かったのだった。
部屋に着いてまずした事は、自身の人形を作ることだ。
人形と言っても話すことは出来ず意思も持たない。だが見た目は見事にそっくりで、静かに微笑んだり命令通りにうごいたりすることはできる。
くるくると指を回せば、暗闇に支配された室内に光の粒子が現れ、それが弧を描きながらレンシィと同じ高さの光の柱を作った。
そこからぼんやりと現れたのは、もう1人のレンシィだった。
身につけているドレスだけが違う。
レンシィが身につけているのは庭を散策できる程度の日常ドレス。
対してもう1人のレンシィは、先程乳母が着付けてくれたナイトドレスを身にまとっていた。
彼女は静かに笑みを作ったまま、レンシィを見つめている。
「いいこと? ベッドに横になり、目を閉じていなさい。誰が来ても起きないこと。まるで眠っているようにしていて。でも寝息には気をつけて、きちんと立てていてね。人間は呼吸をするものだから」
レンシィの言葉に、人形はこくりと頷くとそのままベッドまで歩いて行き、布団と布団の間へと身体を滑り込ませた。
そして仰向けに寝転び、そっと目を閉じる。
ゆっくりとした息をし、微かにシーツの表面が上下しているのが分かった。
傍から見れば完全にレンシィが眠っているように見えるだろう。
「私が戻るまでそのままでいるのよ。誰が来ても、目を開けないように。じゃあ、行ってくるわ」
人形へと告げると、レンシィは閉じられカーテンを閉められていた東向きの大きな窓を開けた。
テラスのある側とは反対の窓で、腰より上の位置に取り付けられており申し訳程度の柵しか着いていない。
幼い子供の部屋に対して、この安全性は如何なものかと疑問にも思うが、レンシィがここから身を乗り出したことは今まで1度もなかった。
だが今日は違う。
突然開かれた窓に、外に居た下位精霊達が数人、気になって寄ってきた。
『レンシィ様?』
『どうしたの?』
『なにか気になるの?』
「あぁ、騒がしくしてしまったわ。ごめんなさいね」
落ち着かせるように頭を撫でてやれば、嬉しげに笑って周りを飛び回る。
その姿を少しだけ見遣り、そしてそのまま視線を空へと投げた。
「……えぇ、お父様、私も分かります。この子達の王として、守り、支え、時に全てを受け入れ、恙無く生きていけるよう整える。それが上に立つ者の役目でしょう」
そうして手のひらを片方翳し、軽く円を描くよう空を切り抜く。
するとそこにキラキラとした光が湧きいで始め、まるで小川の飛び石のように空へと伸びていったのだ。
ポツリ、ポツリと光の粒子で出来てゆくそらの飛び石が、2メートル程の感覚でどこまでもどこまでも続いてゆく。
それは空を繋ぐアーチのようだった。
「お父様のお言葉が聞けてよかった。そして決めました」
レンシィは手摺の上へと登ると、たった3センチ程しかない柵の上に、危なげもなく立ち上がった。
目の前で煌めく光でできた丸い塊が、レンシィの風に靡く黄金色の髪をキラキラと煌めかせる。
誰も見ていないのが惜しいほどに、それはとても幻想的に見えた。
「私がその道の先を照らして差し上げますわ」
そう告げると、レンシィは窓の柵からストンと飛び降りたのだ。
足の着く先は地面へ、ではなく、その見た目通り〝空の飛び石〟の上へと。
軽く右足で着地をし、そのまま蹴ると次の飛び石へと軽く跳ねてゆく。
トランポリンの上を進むように。
それはまさに2メートル事に敷かれた光の着地場に沿って。
トン、トン、トン、と踊るように跳ねてゆくレンシィは、ふとスカートの裾を手で押えた。
「あら、改良の余地があるわね」
これではスカートの中が見えてしまうわ。
呟きながらも、軽く抑える程度で気にせず進んでゆく。
スカートは空をはためき、微かな光の粒子に照らされてぼんやりとした姿を写し出していた。
だがその程度だ。
幸運にも、今夜は新月。闇の中から明るく照らし出す月の姿はなく、遥か遠くに微かに輝く星が散りばめられているばかりだ。
そして地上から随分と上を走るレンシィの姿を隠してくれており、僅かな光の粒子程度では星の中に交じる星にしか見えない。
レンシィは誰にもスカートの中を見られることなく、目的の東の端の領地へと向かうことが出来たのだ。