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ミリイの決意

 ぽちゃん。


 パージェは風呂桶から湯を掬い上げ、手指の隙間からたらたらと流れ落ちる感触を味わっていた。


 亡き母の手紙。理解したくない様々なことが書かれていた。


 理解したくない。


 覚えていたいのは、やさしかった伯母様がいたという事実だけ。


 あんなふうに杖をふるう前は、伯母様はやさしかったのだ。


 そして、伯母様が荒れ狂った日には、母様が自分を抱きしめていてくれたのだ。


 それが嬉しい。


 でもそれ以上知りたくない。


 クーイが何を理解ったのか知りたくない。


 風呂桶に身を沈め、ぎゅっと両腕で体を抱く。


 お祖父様と伯父様が、この荘園に、伯母様を閉じ込めた?


 そりゃあ、石女が社交界に出られないことはパージェだって知っている。社交界はいわば政治的談合と若者の見合い場のようなものだからだ。


 そう言えば、社交界にはじめて出るのは何歳だったかな。十歳辺りだった覚えがある。


 僕は、今、十三歳だ。


 僕は――僕は、つまり、出られないのだ。


 ……僕は……まだ、貴族として認められていないのだ。


 パージェは溜め息をついた。どういうことなんだろう。


 伯母様は、僕を、どうされるおつもりなんだろう。


 祭りの日に一回だけ屋敷を離れたことがある。窓から忍びこむ賑やかさが羨ましくて、鬱陶しくて、妬ましくて、憂さを晴らしたくて、黙って外に出た。


 ばれた時、伯母様は激昂してパージェの両足を叩き折った。


 僕は、屋敷から出てはいけないんだ、とその時思った。


 ふと疑問に思う。


 どうしてなんだろう。


 ぱちゃり。再び湯を掬い上げて垂らす。湯は何も応えてくれない。


 どうしてなんだろう。



 雪の見過ぎで目がチカチカする。最早黒々とした森も、緑色の何か影のようなものにしか見えない。


 そんな状態で、彼女はよろよろと手をついた。手をついた場所は木の感触。するりと動いた指が、木の継ぎ目を感じ取る。


 人の手の入った証だ。


 ミリイは顔をあげた。涙で滲む視界に、確かに小屋のようなものが聳え立っていた。そして自分は今、その足元にいるのだ。


「やっと……着いたのね」


 はあはあと熱い息を吐き、ミリイは手に力を込めて体を引き寄せた。壁伝いに移動し、入り口を捜す。まもなくノッカーが見つかった。


 コンコンと金属が木を叩く音が森に響いた。


 出てきたのは、レアンそっくりな青い髪の初老の女性だった。ミリイは雪にまみれた全身を軽く振りはたくと、頭巾を取って頭を下げた。


「初めまして、ミリイと申します。荘園で働いている下働きの者なのですけれど、レアン……さんはいらっしゃいますか?」


 初めての相手に対して、いきなり彼のことを呼び捨てで尋ねるのも失礼かと思い、慌てて敬称を添えた。如何にミリイとレアンが親しくしていたといっても、ここ、『山の民』の集落でそれが知られているとは考え難い。


 ミリイは返事を緊張しながら待った。レアンが出てきたらまず、何て言おう。


 あなたは素晴らしいわ。パージェ様を動かしたのね。


 あの気位の高いパージェ様を医学生たちと交わらせるなんて、普通出来ないことよ。その後調子はどう? パージェ様とはうまくいっている? お元気なご様子? ラアニ様がお戻りになるまでまだ日にちがあるわね。暇だったらわたしのうちにも来ない? 弟と妹がたくさんいるの。きっと楽しいわ。


 言いたいことが口から溢れ出しそうだった。だが、ミリイを包んでいる空気の重さがやがて彼女を我に返らせた。


 戸口に出てくれた女性は、泣いていた。


「どう……されたんですか?」


 嫌な予感を押し殺しつつ、ミリイは遂に尋ねた。


「レアンは……あの子は、もう、いないんでさあ」


 女性は前掛けで涙を拭いながら、絞り出すように叫んだ。


「パージェ様が、あの荘園の糞餓鬼が、あたしの大事なレアンを殺してしまったんよ!」


 聞き違いだと思った。嗚咽する女性を前に、ミリイは呆然と立ち尽くしていた。


「あの子を返してえ! 優しかったあの子を! あたしの大事な子供なんよ! あの糞餓鬼、鬼婦人! 呪ってやるわ、ええ、呪ってやるともさ!」


「ど、……どういう……」


 ミリイはよろよろと後ずさり、そして思い切って女性に歩み寄った。涙を拭い、女性は彼女に何かを差し出した。


 純金の板だった。レアンの名と年齢、そして日付のようなものが刻まれている。


「あの子は、あたしのあの子は、こんなものになってしまったんよ! どういう意味かわかるがね? 殺されたのさ! あの鬼婦人に、あの糞餓鬼に!」


 意味がわからなかった。いや、分かりたくなかったのだ。ミリイは茫然と金の板を見つめ、泣き崩れる女性を見つめた。


「レアンで十二人目さね! この集落からあの荘園に稼ぎに行って板っぺらになって帰ってきたのは。金なんかで誤魔化されやしないさ。あの子は金なんかよりずっと価値があったのによ!」


「レアンが……殺されたって……本当ですか……」


 ミリイにはそれだけ言うのがやっとだった。凍えていた胸がじわじわと痛みを感じ始めている。


「間違い無いわあ。パージェ様に殺されたのよ。あの餓鬼の不興を買ったのよ。だってレアンは最後にあの糞餓鬼の世話を任されていたんだよう!」


「わたしも、わたしも、レアンと同じ職場だったんです。パージェ様のお世話と、厨房と、厩と、廊下磨きと……一緒に仕事をしていたんです」


 ミリイがそう言うと、女性は涙に濡れた目で彼女を見上げた。前掛けで顔を拭い、ゆっくりと手を引いた。


「入っておくれ。そして、レアンのことを聞かせておくれなあ」


 木で出来た重い扉がミリイを招き入れた。部屋の中はとても暖かかった。


 熱いココアの湯気が、ほろりと揺らめいて溶けてゆく。


 ミリイはカップを両手に抱きしめて、語った。レアンと知り合った時のこと。一緒に仕事をしていた時のこと。レアンと最後にした仕事、芋の皮剥き。その時レアンが話していたこと。パージェを、寄宿する術医学生たちと交わらせたいという思い。


 そして気付いた。レアンが食事を届けに行って帰って来なかった日が、純金の板に刻まれている日付けと同じことに。……はっきりと日付けを覚えている訳ではない。でも、大体この辺りという感覚は残っていた。まだ冬が来る前。冬支度を始める前。


 ――じゃあ。あの術医学生は?


 パージェが離れに出入りするようになった、だから着替えを取りに来た、と、内気そうな黒髪の少年が訪ねて来たのは何時のことだっただろう。


 あの頃はもう冬支度が始まっていたと思う。


 レアンはあの時、既に亡くなっていたというの?


 なら。なら。どうして、パージェ様が離れに出入りするようになるの?


 おかしいじゃない。


 レアンの説得に応じたから、じゃないの?


 何が起こったの?


 わからない。ただ、目の前の純金の板が、レアンがもう既にこの世に居ないことを教えてくれるだけ。


 経緯はわからないけど。でも、レアンは殺されたのだ。


 パージェ様に。


 ――犯人がパージェ様かどうかも分からないけれど。でも、自分達のような下働きの下級使用人が、ラアニ様とお会いすることが簡単に出来る筈はない。


 誰かが、レアンを殺したのだ。


 そして可能性が一番高いのがパージェ様なのだ。


 だとしたら、だとしたら。


 わたしは、パージェ様を、絶対に許さない。


挿絵(By みてみん)

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