彼の桎梏
彼は虜囚だった。人質だった。人形だった。
誰も彼のことを理解してくれようなんてしなかった。自分に価値があるのではなく、自分の背負った肩書きに価値があるのだとクーイは幼くして思い知らされていた。
ある時は地下牢に繋がれ、ある時は水牢、ある時は拷問まがいの扱いを受けて大人に対して絶対服従することを学ばされた。と思えばちやほやされたり、暴力の渦中に叩きこまれたり。とにかく、色々な経験をした。
押さえつけられるのも嫌だ。そうやってこの胸に呪をかけられたからだ。寿命以外では死ねない呪。『特定人物感知魔法』を使えば、何処にいても現在位置が悟られてしまう烙印。選りにも選って心臓の真上にある、彼を縛る桎梏。そして彼は、その烙印ゆえに、時に怨嗟の対象として傷めつけ抜かれて来たのだ。まだ短い人生のその始まりを。
そういえばひとりだけ、彼の人生を変えた者がいる。
『早く大人になるんだな』
記憶の中のあの男は、幼いクーイの頭を掴んで、ぐしゃぐしゃと乱暴に撫でた。
『周りをよく見ろ。人を見抜け。言葉の裏を読め。自分に何が出来るか考えろ。お前の幼い外見は武器になる』
四歳の時に出会った男。クーイと同じ地下牢にいた。名は、アレクセイ・マドランド。クーイに人殺しの技を教えた男。クーイに現実を教えた男。
男は幼い彼の見ている前で殺された。
腕と足を付け根からもがれ、肉食魚の放たれた水槽に生きたまま投げ込まれた。
水の色が赤く染まり、鉄錆に似た臭いが充満して、びしゃびしゃと魚がはねる音が耳を打つ。クーイは――まだクーイと呼ばれていなかった子供は、泣きながら吐いた。
魚を見るとアレクセイを思い出す。
水を見ると彼の死に様を思い出す。
同じように何人もの囚人が魚に喰われて死んだ。自分にもいつかその番が回ってくると、幼い子供は怯えていた。でも自分は呪の所為で死ねないのだ。死ねないまま魚に喰われて……そうしたら、一体どうなるんだろう。
彼は水を、魚を、恐れるようになった。
そのかわりにアレクセイの言葉を魂に深く刻み込んだ。
大人に、なる。
大人に弄ばれないような、大人を出し抜けるような、子供の姿の大人になる。
彼は人間を観察する術を身につけた。眼球の移動、無意識の仕種、声の出し方にまで気を配った。その意味するところを知るために。
だから。時が来た時には「お稚児」の意味さえ分かっていた。
自分より年上の「お稚児」たちがどのような扱いを受けているのか見れば、それが決して大人の言うような「遊び」でも「ご褒美」でもあり得ないと知れた。ましてベッドに女性や両性が混じっていることなどざらだったから、余計に理解を深めて気分を悪くした。
そして、あの日が来るのだ。
ザッカム砦は難攻不落と言われた、ウェアル卿の最後の砦だ。
あちこちを転々と移動してきたクーイは、最終的にその砦に捕らわれることになった。
クーイは弱気で従順なふりをし切っていたから、手枷と足枷以外には束縛は余り無かった。戦況がウェアル卿にとって傾いていたことも幸いしたのかも知れない。
とにかく、重い手足をひきずって、動こうと思えば動けた。
彼はこっそりと裏の墓地へ回り、病死した家畜の肉を得て、五匹の鼠に餌として与えた。五匹の鼠は見る間に子を産み、二十匹、三十匹と殖えてゆき。ある夜、彼はそれを一気に穀倉に放った。
それだけで、三百余人がいちころだった。
兵卒も下働きもなく、全ての者が嘔吐し泡を吐き苦しみ抜いて倒れた。彼はひとり、ソーレル卿の軍勢に攻め込まれて、なすすべもなく崩れてゆく砦を見下ろしながら薄笑いを浮かべていた。六歳の自分にもこれだけのことがやれたのだと、アレクセイに見せたかった。
「クリエ坊っちゃん」
誰かに呼ばれて彼は振り向いた。所有者の数だけある自分の名の中でも、一番旧く、そして意味の深い名前だったからだ。何ひとつ持たない彼が、唯一手放さないことを許されたもの。手放すことを許されなかったもの。彼の親がつけた名前。
「――クリエワンス。これはどうしたことですか」
膝をついていたのは鎧姿のソーレル卿だった。クーイはにいっと薄笑いを浮かべたまま沈黙を続けた。そして微笑みを凍らせないまま、ざり、と死者の腕を踏んだ。踏みにじった。
気圧されたのだろう。ソーレル卿はその時、確かに一歩後図去った。
武装した大人と、何も持たない無力な子供。
その力関係が、逆転した。
クーイは、この大人は使えるかもしれない、と計算した。
だから、ソーレル卿に引き取られることを了承した。
自分が術医学生になるとは思わなかった。でも、あの時のことを考えれば妥当な判断なのだろう、とは思う。病原菌を培養してばら撒いたのだ。その長所を伸ばし、更に大きく欠けている「医学倫理」を教え込めば、さぞかし優秀な人材になると思われたのだ。
しかもソーレル卿はクーイを手許に置いておけなかった。卿は当初そのつもりだったが、次期当主となる若き嫡子が許さなかったのだ。
クーイは術医学施設に入ることを承諾し、後見人の城を出た。
初めて会った時、ハリー・ソロスコ教授は、クーイのことを何も知らされていない様子だった。クーイは教授達のことはわざとファーストネームで呼んだ。同時に子供たちに対しては距離を置く意味もあって、必ず姓で呼ぶことにした。
「―――――かも知れないのです」
この荘園に来ることに決めた時、ソーレル卿はクーイを呼び出した。
「もし、――――――――――――――なら、―――――――――をお願いします」
「郵便鳥も来ないような山間部でしょう? 連絡手段はあるんですか?」
「一度だけ通信が出来る魔法具を持たせます」
「一度だけ、ですね」
「はい、一度だけ、です。クリエ……いや、クーイ」
一度だけ。
気だるくクーイは『それ』を見つめた。
誰につくべきなのか。まだ迷いは晴れない。
一度だけ。一度だけ。失敗は許されない。
あいつの尻馬に乗るべきか。
それとも裏切るべきか。
答えが見えない。
わかるのは、自分には自分しかいないという現実だけだ。
パージェには「伯母様」がいる。
ソロスコには「オヤジ」と「かーちゃん」と「弟」がいる。
ツィック兄妹には、互いがいる。
クーイには何もない。
孤独だけが彼の友。
些細な感傷が彼の胸をうっすらとかき乱す。
どうしてパージェ様は、ご自分に害を成す者に、あんなに執着出来るのだろう。
傷めつけられて、苛め抜かれて、食事すらまともに与えられなくて。なのに、どうしてあんなにもひたすらに慕い続けるのだろう。焦がれ続けるのだろう。
分からない。理解出来ない。自分には誰もいないから?
自分には執着すべき人など誰もいないから?
――胸の奥で何かがどろりと環を描いた気がした。
あの人に、あいつに、この孤独を思い知らせてやりたい。




