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孤独なクーイ

 雪の深い山道を踏みしめて、『山の民』の集落へと向かう一人の少女がいた。彼女の名はミリイ。レディ・ラアニの荘園に勤めてまだ三ヶ月の新米侍女だ。主に台所や厩の掃除、廊下磨き、パージェの世話などを任されている。だがパージェが術医学生と共に離れで過ごすようになってからは、パージェ絡みの仕事からは一切解放されていた。


 レディ・ラアニが避寒の為に館を去ると、使用人は通常の三分の一に減る。主人不在の館であっても、手入れや掃除、残る者の生活を支えるために、使用人はシフト制で休みを貰えるようになっている。やっとミリイも仕事を終えて休みが貰えたところだった。


 彼女は同期の友人である侍従レアンの家を訪ねるべく雪と格闘していた。


「ふう、すごい雪ね。膝まで埋まってしまうわ」


 ブーツが雪を揚げ物の衣のようにつけて、錘となって歩みを阻んでいる。


「レアンはこんな処から来たの? 雪の降る前ならもっと近いのかしら。ああ、こんな処で狼にでも襲われたら大変だわ」


 独り言を言いながら、ふうふう雪道を掻き分ける。


「ところで道、合っているわよね?」


 何度も地図を確認するが、雪の森の中では目印すらない。ミリイは苦心しながらも、少しづつ少しづつ歩を進めていった。



挿絵(By みてみん)



 又の機会に、今度は探検に行きましょう。


 パージェ様も御混乱されておられるようですから、少し間を空けて。


 幸いと申しますか、今週は講義も詰まっておりますし、ね。


 ――そんな言葉を発して自室へ戻った。戻ると鍵を閉め、窓と言う窓にカーテンを引き、部屋を薄暗く見なれた光景に変えてしまう。


 その薄闇の中で漸く彼は息を吐いた。長椅子に身を投げ出し、クッションに顔を埋める。


「……伯母様……伯母様……か」


 呟いて体勢を変える。クッションを抱えたまま呪詛のように呟き続ける。


「オヤジ、かーちゃん、弟……兄さん……そして、伯母様か」


 目の前に現れては消える友の声。


『伯母様に愛されたいと思っている、それだけなんだよお!』


 パージェの叫びが耳の奥をじんじんと痺れさせる。


「伯母様、伯母様か……どうして? あんな目に遭わされていながら、どうしてパージェ様は……僕は……どうしたらいいんだろう」


 裏切るべきか、それとも、使命を忠実に果たすべきか。


 そもそも誰につくべきなのか。それすら、今のクーイには判断が難しい。


「僕には誰も居ない」


 一人ごちる。


「僕には、誰も、居ない」


 確認するようにもう一度呟く。ソーレル様は所詮後見人。血の繋がった親族など戦災孤児の自分には存在しない。


 だから。


 「オヤジ」と父を慕い、「かーちゃん」や「弟」の話を楽しそうにするソロスコが。


 「兄さんの具合はどうなのよ?」と詰め寄るベフェ・ツィック兄妹が。


 「伯母様に愛されたかった」と訴えるパージェが。


 ――――――あまりにも、遠い。


 クーイはクッションを手放すと、感傷を振り捨てて状況の整理に入った。


 あの手紙をパージェから借りてくることは心情的に出来なかった。でも内容は克明に記憶している。


 伯母様――レディ・ラアニは、パージェの母たるべき女性だったのだ。落馬事故で出産能力を失わなければ。


 貴族の娘にとって、子供が出来る出来ないは大問題である。後から不妊が判明した場合は愛妾が設けられ、更に愛妾に子供が出来たならば正妻の地位を奪われてしまう。


 だから。ラアニが出産能力を失った時、姉の代わりに妹が嫁ぐのは必然だった。ゲゼントラーレア家にとって、ラーベルトゥス家の重要度は末娘の婚約者の比では無かったのだから。


 そしてラアニもエルギューヌも納得のいかない収まり方をした。


 ラアニにしてみれば長年の婚約者を妹に奪われたことになり、又同時に二度と結婚の出来ない不自由な身である事を思い知らされ、社交界からも遠い辺鄙な場所に移され。


 エルギューヌは自分の婚約者と引き剥がされて、身代わりに姉の婚約者と結ばれることになり。


 そして子供が出来てしまう。父親そっくりの、病気がちなパージェが。


 ノエル一門の危機を感じ取ったのか、ラーベルトゥス卿はその後妻子を手放し、縁まで切っている。莫大な慰謝料も払われたと聞く。


 そして、パージェの父は一族刑に処せられて首が落ちるのだ。


 あの手紙を見る限り、それまでは姉妹の仲はまともだったように思える。処刑の事実が流れた後にラアニは変貌している。エルギューヌは「何か飲まされた」と書いている。そして、処刑の半年後に死去。――勘が正しければここで飲まされたのは蟲だ。蟲は約半年で宿主の身を食い尽くす。その母の死を間近に見たのがパージェだろう。その時に母親から飛び出してきた蟲が彼女に感染したとは思えないだろうか?


 ああ、これなら説明がつくんだ。先天性フレトベルゲージュ氏病がパージェに何の症状も起こしていないことも、如何に体を壊してもすぐに元通りに治癒する理由も。そして、隠し通路からの帰り道、パージェがあの感覚を恐れた、自分が母を喰い殺してしまったんだと叫んだ誤解も、全部。


 おぼろげだった推測が確信に変わった。


 パージェの中に居る蟲はエルギューヌから感染したものだ。だから蟲はパージェの体内で、エルギューヌの健康な臓器をコピーしているんだ。


 それならフレトベルゲージュ氏病が、彼女に何の不利益をも起こさない理由が説明出来る。パージェの口にした、「全身がいっぱいに血の味に満ちた感覚」も、感染した蟲が感じさせたものだと分かれば納得がいく。


 パージェは、母を殺してなどいない。


 レディ・ラアニが、エルギューヌとパージェを殺したのだ。


 あの墓標がその証明。ラアニは蟲が最後までパージェに感染らないとは思わなかったのだ。そしてそれ以前に、パージェには先天性の病気があった。蟲との相互作用がなければ、時を同じくして死に到っていた可能性も低くはない。


 何よりもラアニの、パージェに対する扱いが、恐らくパージェを殺した。


 あの墓標は、ラアニの願望だ。


 あの墓を掘り起こしても、恐らく本物のパージェの遺体は出てくるまい。



 どうして、伯母様なんだ。どうして、どうして……伯母様なんだ。


 パージェ様。


 どうしてそんなに。自分に害を成す者に、執着できるんです。


 どうして愛されたかったなんて言えるんです。


 愛って何ですか?


 パージェ様。


 私は、血縁者も育ての親も何もいない私は、いつまでもひとりのままですか。



 思えば。自分には親と呼べる人が居なかった。


 物心ついた時には、既に彼は人形だった。


 あちらこちらで奪い合いのされている、人形。


 ある時は三時間で移動。ある時は夜中にさらわれた。ひとところに落ち着いても一ヶ月が限度。その間面倒を見てくれる者など入れ替わりまくったし、彼自身の記憶に残るような相手は何もない。


 そう、誰も居ない、ではなく、何もない。


 覚えているのは、水に纏わる厭な記憶。



 クーイは風呂が嫌いだ。今でこそ後見人が貴族様だから、きちんと身だしなみに注意を払ってはいるが、好き嫌いを言わせて貰えるのなら、風呂には二度と入りたくない。


 体中に刻まれた傷跡が悔しいのではない。身の毛のよだつ夜を覚えているからだ。


 あれは確か四~五歳の頃。ある金持ちのデブの所に閉じ込められていた時だ。彼の所有者は彼を「お稚児」として気に入った。そして、思い出したくもない奉仕を迫ったのだ。その「儀式」のある日は豪華な風呂に入れられ、大きな広いベッドに招かれる。腕に足に重い枷がついていて思うように身動きが出来ない上、大人の手のひらは大き過ぎて抵抗出来ない。彼はある夜、主人の局部に噛み付いた。血が吹き出すまで離さなかった。こんなキモチノワルイ屈辱的なことには、生理的に耐えられなくなっていた。


 彼は行水を嫌がるようになり、ベッドでも眠れなくなった。


 そして又、大人の事情だか何かで違う所有者の手に渡り……色々な環境を体験した。


 ソーレル様に見つけられるまで。


 ザッカム砦が落ちたあの時、漂泊の時代が終わった。


 彼が、まだ六歳児だった彼が、砦の人間三百余人をいともたやすく屠ったあの時に。

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