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帰還命令

 窓の外は一面の白だった。見下ろせる全ての景色がふんわりと綿毛に包まれている。遠くに黒く森の木々。雪はまだ降り止まない。時折暖炉でパチリと火がはぜる。再び訪れる静寂は前にも増して強烈で、息をするのがためらわれる。


 音のない世界。色の無い空間。


 パージェはベッドで眠る少年に目を戻した。


 一日の大半の時間、彼は誘眠ガスに自由を奪われていた。ハリー教授は腹部の傷が癒えるまでの辛抱だと語った。そして傷が癒えるには気が遠くなるほど時間が掛かった。少なくともパージェにはそう思えた。彼女の体は目の前でみるみる傷が塞がるし、どんなにひどい怪我をしてもほんの数日でけろりと治る。だから最初は大人が嘘をついているのだと思った。だが体内透視鏡を何度か覗かせて貰ううちに、自分の体が特別なのだと認めざるを得なくなった。


 パージェは毎日、眠り続けるクーイの横で過ごすようになった。側にずっと居て、彼のことが少しだけ分かるようになった。体に触れられるのを極端に嫌うこととか、微睡んでいる時には警戒心がすごく強くなることとか、余り人の手を借りたがらないこととか。


 それでも誘眠ガスで眠っている間は手を取っても大丈夫だった。時々パージェは彼の体内に居るかも知れない蟲に呼び掛けた。反応がないと安心し、不安になるとまた繰り返した。


「だいじょうぶだよ」


 そっと囁く。


 診察を終えてベッドから離れる際、ハリー教授は毎回クーイにそう呼び掛ける。気付いた時にはパージェにも伝染っていた。


「だいじょうぶだ」


 もう一度囁いて立ち上がった。カーテンを引くと外は一面の銀世界。白い光が眩しくて思わず目を細めた。雪の日はどうしてこんなに静かなんだろう。まるで何かが起ころうとしているかのように。


 どさっと音がした。屋根に積もった雪が落ちたのだろう。


「ん……う……」


 チューブの下で、少年の唇が僅かに動いた。


「……だ……っ」


 閉じられたままの彼の目から、透き通ったものがついと流れ落ちる。パージェは何の反応もせず、ぼんやりとそれを見つめた。


 きっと夢の中の世界なのだ、ここは。何もかもがぼんやりしていて、頭がうまく回らない。彼の横に自分が存在している。それだけで良い。チューブに繋がれて眠り続けるクーイは良く出来た人形だ。人形だから、目を覚ますことなど無い。


 筈だ。


「う……」


 チューブの誘眠ガスが切れて、彼は目を覚ました。パージェは習慣的に大人を呼ぶベルを叩いた。すぐに大人が駆け付けてきて、食事の世話をしたり、体を清めたり、色々と始めるのだ。自分は待っているだけで良い。ぼうっと見ているだけで良い。


「……パージェ様……私、……私、何か、申しました?」


 クーイは上体を起こして頬を拭い、まだ半分ぼやけた声でパージェに話しかけて来た。隠し通路から戻って以来、初めての会話だ。彼女は虚を衝かれて言葉に詰まった。何を話せば良いんだろう。大人たちはまだ到着しない。


「ベッドで寝るのは落ち着かないです。早く長椅子に戻りたいです」


 彼女が戸惑っていると、クーイはそう呟いて再び横たわった。


「……長椅子……かい?」


 パージェは途方に暮れつつ、やっとの思いで言葉を繋いだ。


「ええ。長椅子だと熟睡せずに済むでしょう?」


 天井を見つめながら、少年は低い声で呟いた。


「私は小さい頃、戦の虜囚――人質だったんですよ。だからベッドでは安心して休めないんです。また眠っている間に連れ去られるんじゃないか、狙われるんじゃないか、って、今でもちょっと恐ろしくなってしまいます。ソーレル様にご後見を頂いて、ハリー先生達にも護って頂いて、何の心配も無い筈なのに、今でもまた何処かで誰かに裏切られるような気がしてしまって。……私は嫌な人間です」


 淡々とした口調だったが、どこか自嘲している雰囲気があった。パージェは何も言えずにただ聞いていた。廊下から人の気配が近付いて来る。漸くハリー教授が扉を開け、いつものようにクーイの側に寄った。


「具合はどうだ?」


 尋ねながら診察する。シャツの裾を捲ると、包帯や黴のような斑点がちらちらと覗く。教授の表情から察するに、腹部の傷は大分回復したようだ。


「そうだ、パージェ様。奥の間からお水をお持ち頂けませんか? 喉が渇いてしまったんです」


 クーイは怪我をする前よくしていたように、穏やかに微笑んだ。


「わかった。飲み水だね」


 パージェはそう言うと奥の間へ向かった。




 彼女の姿が消えるのを待って、二人は目を合わせた。


「その、実はだな、クーイ……」


「薔薇のサシェの効き目はどんな按配ですか?」


 ハリー教授が重々しく口を開こうとした矢先、クーイが囁くような声で切り出した。教授は言いかけた話題を飲み込み、答える言葉を探した。


「確かにパージェ様はサシェを避けていらっしゃるように思えるが……」

 

 実はパージェの部屋の柱時計や調度品の中や窓の一部など、幾つかの場所に教授の手作りした薔薇のサシェを隠してあるのだ。そして彼女の動向を部屋づきの使用人達に密かにモニターさせ続けている。パージェは意識しているのか無意識なのか、今のところ薔薇の香りのする場所に余り近付こうとはしていないようだ。


 彼女が器換蟲を操る時、血液中に薔薇の芳香成分が現れることは既に分かっている。もしその所為で何らかの不快な感覚があり、パージェがサシェを避けているのだとしたら、蟲避けとして薔薇の香りが有効だということになる。更に仮説を進めれば、薔薇の香りに反応するかどうかで器換蟲の感染も分かるという話になる。そうなれば大発見だ。


「結論を出すにはまだ早いと思うが……可能性は十分にあるだろうな」


 ハリー教授はそう言うと、白衣に隠し持っていたサシェを取り出して弄んだ。クーイは目を瞑ってサシェの香りを嗅いだ。甘い香りだと思うだけで特にどうということは無い。


「それで……先生、何かお話がおありだったのではありませんか?」


 教授が白衣にサシェを仕舞うのを待ってから、クーイは水を向けた。ちらりと奥の間へ続く扉に視線を流す。


 そろそろパージェが戻って来てもいい頃だ。



 奥の間には飲用水として、一度沸かして冷ました水が甕に用意してある。パージェはそれを水差しに汲んだ。部屋へと戻る扉の前まで来て、そして足を止めた。


「治りかけの状態でこんなことを口にするのは憚られるが、落ち着いて聞いて欲しい。クーイ――ベスキュイ・ザッカム。……傷が癒え次第、お前を強制帰還処分とすることになった」


 扉の隙間からハリー教授の声が聞こえ、パージェは水差しをぎゅっと抱いた。強制帰還処分って何? どういうこと?


「タルヴァッカが巻き込まれた時から、覚悟は出来ております」


 クーイは冷静に答えている。タルヴァッカ。聞いた事の無い名前だ。巻き込まれたって、何のことだろう。


「正直、この雪の中、幾つもの峠を越えて戻るのは困難だろう。しかし繰り返すが、我々はソーレル様の『人財』なのだ。タルヴァッカとお前自身も無論『人財』の一部だ。なのにお前はパージェ様をこの離れに連れ込み、ソーレル様の財産――二人もだ――に被害を与えてしまった」

 

 感情を挟まないよう、ハリー教授は事務的に告げた。


「ここで出来る精一杯の手術をしても、タルヴァッカの腕はもう使い物にはならん。骨折箇所が多過ぎるし細か過ぎる。彼は二度と術医学の道には戻れない。それがどんなに大変なことか、分かっているな?」


 腕の細かい骨折。パージェは不意に思い出した。確か、躾のなっていない医学生を一人、傷めつけてやったことがある。蟲で吊し上げて片腕を潰してやったんだ。あの下種がソーレル様の『人財』、タルヴァッカ?


「明日ソーレル様にご報告申し上げ、空中馬車をお貸し頂けるようお願い申し上げることになった。お前はそれでグラウロン市に戻るのだよ。これ以上ここにとどまることは許されない。パージェ様ともお別れだ」


 ぞっと体温が低下した。僕の所為でクーイがここを追い出されてしまうんだ!


 水差しがパージェの腕から零れ落ち、ガシャン、と音を立てて割れた。


挿絵(By みてみん)

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