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潮騒

挿絵(By みてみん)


 ネエ、一体ドウシタト言ウノサ。


 世界を隔てる薄い硝子の向こう側で、誰かが叫んでいる。


 貴族ノ誇リハ何処ヘヤッテシマッタノ? モシ伯母様ガ御覧ニナッタラ、如何オ思イニナルンダロウネ?


 だがその声は見えない壁に遮られてパージェ自身には届かなかった。いや、辛うじて微かに届いてはいたが、意味を成さぬ調べに聞こえた。彼女は黙ったまま少年に手を引かれて歩いている。光る苔の群生地を抜け、暗黒の中に舞い戻ってからどのくらい経っただろうか。闇に視界を遮断されたまま、彼の手がある辺りから何故か瞳を外せずにいる。


 後悔スルヨ……。


 皮肉げなその断片がふと耳を掠めた気がして、パージェは微かに瞳を揺らした。確か最初は触れてすらいなかった。苔がまだうっすら周囲を覆っていた頃は、少年の後ろをつかず離れず歩いていた筈だった。なのに、いつの間にか指が彼の上着の裾を掴んでいて、そのまま何となく放すことが出来ずにいて……気が付くと彼に手を引かれていた。


 普段の彼女なら下民如きに手を預けるなど考えもしなかっただろう。だが回廊の隠し扉をクーイが開けたあの時以来、余りにも多くのことが起こり過ぎた。天使像と母の手紙、露台からの転落、うす緑く光る少年、彼女を見つけたあの瞳……心身共にすっかり倦んでいるパージェには今は何もかもが如何でも良く思え、あらゆるものを混沌のまま放り出していた。判っているのは彼が今自分の手を引いていること。時々足を止めて声をかけてくれること。戻るべき場所へ進みつつあること。二人分の靴音が、息遣いが、髪や服の擦れる微かな音が、少しずつ重なり合いながら響き続けていること。その全てが不思議なほど心強く思えること。


 もう一度二人を繋ぐ橋を探った。そして彼の指が一本一本並んでいるのを肌で感じた。彼の手が自分の手を包み込んでいる感触を確かめた。突然息を強く吸い込み過ぎた時のような眩暈を感じた。心臓が自己主張を始める。触れている部分から何かあたたかいものが流れ込んで来る。ほんの一瞬だけ母の胎内を漂っている気がした。こってりとしょっぱい味の海に抱かれ、深く響く母の鼓動を自分のものに感じていた。ざわざわと心地好い潮騒が耳を覆い、やさしい眠気に誘われる。次の瞬間、無防備になっていた彼女を不意打ちのように壮絶な苦痛が襲った。引き裂かれる、押し潰される、意識が砕かれる! 彼女は必死にもがいた。救いを求めてひたすら何かに手を伸ばした。


 突然少年の腕がメリッと大きな音を立てた。苦痛の海は更に荒々しくうねった。折れて歪んでいた彼の腕が軋みながらゆっくりと形を変え、やがて正しい輪郭を取り戻した。


「パージェ様? 如何なさいましたか?……」


 自分の体に起きた異変に気付き、クーイは彼女を覗き込んだ。荒波に呑み込まれる。敗けてしまう。もう駄目だ、堪え切れない! 精神力をふり絞り、無我夢中で彼の手を振りほどいた。二人の手の間に一瞬粘っこく煌めく細い糸が引いたことを少年の瞳は見逃さなかった。彼は逃れようとするパージェを捕らえた。


「は……放せよっ……」


 声を震わせて精一杯身を引いた。ドクン、ドクンと心臓の音が耳を突き上げる。体の中にまだあの感覚が生々しく残っている。思い返すだけで身が竦むほどの苦痛が。


 そういうものには慣れていると思っていた。彼女の体は脆くて簡単に壊れた。しかし肉体感覚自体はさほど意識には上らなかった。激しく杖を振るわれた後も、夢心地めいた非現実感を漂いながらただ伯母を想うばかりだった。蟲のついた体は回復も異常に早かった。


 だから、尚更強烈だった。今まで感じていたものとは鮮明さにおいてまるで違っていた。少年に触れることすら今や恐ろしく思えた。


「如何なさったのですか、パージェ様?……」


「厭だ、触るなったら!」


 重ねて問うクーイを振り払おうとした。情けないほど小刻みに揺れる体を懸命によじった。彼はそんな彼女をじっと観察していたが、やがて静かな声で尋ねた。


「……私の中を御覧になったのですか?」


 ぞくっと戦慄が走り、パージェは思わず息を止めた。


「そうなのですね、パージェ様、御覧になったのですね……」


 声だけは非常に静かなまま、まるで獲物を追い詰めるように彼は冷徹に顔を寄せた。微かに息が耳元にかかる。


「そんなに怯えないで。お気になさらなくてよろしいのですよ。ですが、今暫くはお抑えになって下さいませ。この意味がお分かりになりますでしょう、パージェ様。思い出されませんか? 覚えておいでの筈ですよ……私の中で御覧になったものを、お感じになった――味を」


 急に喉が狭くなった。呼吸がつっかえる。どくん、どくん、パージェの心臓が激しく喚いている。先刻感じた味。確かに覚えがある。こってりとしょっぱい味の海。ゆるゆると思い出す。思い出す。かつて全く同じ味を全身いっぱいに感じたこと。


 そうだ。あの時、僕の体は母様の血をいっぱいに詰めた袋となって、どくどく脈打っていた。白いカーテンが揺れて、窓辺のヘスペラーの金色の花がさわさわとお辞儀をして、母様の腕がベッドから落ちて――その体が蟲に喰い破られて――薄っぺらく風に揺れて――


「パージェ様。もし貴女の渇きを少しでも癒せるのであれば、私は喜んで蟲にこの身を差し出しましょう。ですが、この通路は一種の迷宮。その直中で貴女をお独りにする訳には参りません。蟲が騒いでお辛いでしょうけれど、どうかもう暫くはお抑えになっていて下さいませ。お部屋に帰り着いた後でしたらお好きにして下さって構いませんから……」


 体温が下がってゆく。胸が冷えてゆく。寒さから逃れたくて、避難先を求めてどこかに手を伸ばす。母様。母様。ああ、どうしてなのだろう、母様の中に感じた甘い潮騒は決まってあの惨い記憶を呼び起こす。


「僕は……母様を蟲にくれてやる気なんて、絶対に無かった……」


 彼女はよろよろと膝をついた。


「ただ寒くて、とても寒くて……だから……だから母様の側に居たくて」


 あたたかく包まれていたかった。体の奥で冷たく強張っているものを溶かしたかった。あのやさしい波を、甘いぬくもりを、潮騒を一番近くで感じていたかった。誰よりも側に居たかった。もっと深く繋がっていたかった。望んでいたのはそれだけなのに。


「そうだったのですね、パージェ様。そうでございますよね。お母上様のお側にいらっしゃりたかったのですよね……」


 ふっと手があたたかくなった。


「少し震えていらっしゃいます……今もお寒いのですね。この通路を出るまでの僅かな間だけ蟲に私の体を与えずにおいて頂けるのでしたら、どうぞお好きなだけお近くにお寄りになって下さいませ」


 パージェは目を開けた。真っ暗で何も見えていない筈なのに、黒水晶の視線を痛いほど間近に感じた。抑えてはいるが隠し切れない乱れた息遣いを聞き取った。途端に先刻のあの感触がみるみる蘇る。体内に吹き荒ぶ、意識を裂かんばかりの強烈な苦痛の嵐。


 パシッと彼女はクーイの手を払った。


「君じゃ駄目だ。君じゃ駄目なんだ! だって君は……君の中は」


 堪えられない程、狂おしくなる程、痛過ぎるから。


 言葉の途中で不意に霧が晴れるようにはっきりと分かった。先刻自分は母の胎内では無く、確かに彼の中に居たのだと。先刻感じた熱は彼の体温。あの潮騒は彼の体内音。――理解っていた。ずっと前から気付いていた。彼の呼吸はずっと荒かった。彼の肌はずっと熱かった。さりげなく折れた腕を庇っていた。傷ついた脇腹を押さえていた。初めて触れた時から、彼を担いで勾配屋根をよじ登った時から、心の片隅で知っていた。だけど今の今まで全く気付くことが出来ずに居た。


「……っ」


 息と一緒に言葉を飲み込んだ。そして彼が居る辺りの闇をまじまじと見つめた。彼はあれほどの苦痛を抱えながら、ずっと彼女の手を引いて闇の中を先導していたのか。時折足を止めて彼女を気遣い、足場の悪い場所では手を貸しながら。どうして、どうしてそんなことが出来るのだろう。本当は闇の向こうで顔を歪めて堪えているのだろうか? 


 つと裏庭で蟲に彼の首を締めさせた時を思い出した。あの時彼は全く苦痛など感じていないかのように、赤紫色に濁った顔に透明なまなざしを煌めかせていた。


「君は……何も感じないの……かい?」


 暫しの沈黙の後、パージェは呟くほどに小さく問うた。


「この体のことでございますか?」


 少し間を置いて少年は静かに答えた。


「感じない訳ではございません。耐える術を存じているだけでございます。うまくご説明出来るか自信はございませんが……自分自身を二つに別けてしまうのです。現実に直面している自分と、それを他人事のように観察しているもう一人の自分とに。そして感じているもの全てを『向こう側』に締め出してしまうのですよ。……パージェ様になら、何となくはお分かり頂けるのでは無いでしょうか」


 そうなのだろうか。目を瞑って想像してみる。半ば自分で無い自分が傷ついた自分を見下ろしている様子。意識から締め出される苦痛。ふと伯母に打たれた後に訪れる非現実感はやや似たような感じかも知れないと思った。


「パージェ様。パージェ様はとても心細くおなりだったのですよね。つい暖を求めて私の中へお入りになられたのでしょうね。先程申し上げた通り私は貴女をご案内し終わるまでは蟲に命を奪われる訳には参りませんが、それまで蟲を抑えて頂けるのでしたら、まだ私の中にとどまっていらしても構わないのですよ」


 ふっと少年の声がやさしく響いた。彼女は黙って俯いた。側に居たい、繋がっていたいという思いはまだ薄れては居なかった。自分でも気がつかないうちに、何時の間にかまた少年の服を握り締めていた。だがあの嵐を思うとやはり身が竦む。


「今恐れておいでのことにつきましては大丈夫、何もご心配は要りませんよ。貴女は蟲を制御することがお出来になるのですから、幾らでも手立てはございます。例えば……そうですね、蟲と私の神経を繋がなければよろしいのでは無いでしょうか。ほら、それなら私の感じているものが貴女の中に流れ込むことは無いとお思いになりませんか?」


 少年は彼女の葛藤を見透かしたように続け、神経と感覚についての簡単な説明を加えた。


「君は、……君は蟲が恐ろしくは無いのかい!?」


 パージェは動揺して尋ね返した。


「……きっと蟲は……蟲は君を喰い殺してしまうよ。あの時のように。母様の時と同じように……」


 暗闇に母の無残な最期がくっきりと浮かび上がって見えた。ぞくっと震えが走り、彼女は身を縮めた。


「何を仰るんです。パージェ様と蟲のどちらが主だとお思いになっていらっしゃるのですか?」


 クーイは静かに畳み掛けた。途端に顔にかぁっと血が集まった。そうだ、蟲の動向に怯えるなんて莫迦げている。僕が主なのだ。僕が蟲の主なのだ。皮膚の下で母の敵がざわざわと蠢いている気配をつぶさに感じ取る。蟲を指先に集め、波打たせ、霧散させ、また集める。ほら、僕は蟲を自由に操れる。多少蟲が暴走したとしても、今の僕には押さえ込むことが出来る。そうさ、二度と蟲なんかに勝手を許したりするものか! 彼女はきつく唇を噛んだ。


「ねえ、お前――君――えっと……」


 呼び掛けようとして指し示す言葉を思い出せなかった。彼の名は以前聞いた筈だ。殺風景な裏庭で彼が恭しく膝を折ったことを覚えている。だが当時は下民と思って彼の名前などその場で忘れてしまっていた。


「どうぞ私のことはクーイとお呼びになって下さいませ、パージェ様」


 察した少年が言葉を挟んだ。


「……クーイ。君の中の蟲は欠片も残さず全て呼び戻すと誓うよ。蟲なんかに君をほんのひと欠けだって喰わせるものか。だから――」


 もう絶対に蟲なんかに奪われたりしない。側に居るんだ。一緒に居るんだ。もうひとりじゃない。もうひとりにはならない。


「――だから」


 パージェは立ちあがり、闇から差し出された手に指を絡めた。


 誇リ高イ伯母様ガ知ッタラ何テ仰ルンダロウ。キット後悔スルヨ……彼女自身の心の奥で誰かがまた呟いたが、その声に背を向けた。

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