教授の葛藤
扉の開閉音が静かな部屋にひときわ重たく響いた。少女は毛布を堅く堅く体に巻きつけて身を縮め、まだ小刻みに震えていた。ベッドサイドに用意された飲み物は手つかずのままだ。ハリー・ソロスコ教授は気付かれないように溜め息をつくと、ベッド横の椅子に腰を下ろしてベフェ・ツィックに具合を尋ねた。彼女は蟲に脅かされただけで外傷は殆ど無い。転倒した際に軽い掠り傷を負っただけだ。だが事件のショックは大きかった。
「先生……兄さんはどうなるの? どうなっちゃうの?」
真っ赤に泣き腫らした目を擦り、ベフェは震える声で尋ねた。
「大丈夫だ。少し時間はかかるがちゃんと治るよ。安心しなさい」
「本当? ソロスコ先生、本当に本当?」
「本当だとも」
ハリー教授は出来るだけ自信たっぷりに頷いてみせた。だがベフェに薬を与えて寝かしつけ、部屋を出ると、つい表情が厳しくなる。嘘では無いが、残念ながら全くの真実と言う訳でも無かった。
パージェに右腕を潰されたタルヴァッカの治療にはかなり大掛かりで面倒な手術が必要だ。それもただ治せば良いのでは無く、もう一度腕を使えるようにしなくてはならない。でなければ、ソーレル卿に託された大切な『人財』の一人を永遠に失ってしまうことになる……。
幸いにも術医学施設ゆえ、細々とした用具や薬、そして専門家はかなり質の良いものが揃っている。だがよもや出先で大手術を行うことになるとは誰も予想していなかった。従って必要なものが色々と足りない。果たしてこんな状況下でどれだけのことが出来るのであろうか。
今更ながら後悔が波のように押し寄せてくる。何故あの時止めなかったのだろう。息子に指摘された通り、ハリー教授は物陰から事件をただ呆然と見守ってしまった。勇気さえあれば自分にも止められた筈だ。保護責任者として、大人として、あの時パージェをすぐに止めるべきだった。
恐ろしかったのだ。残忍な悦びに煌めく金色の瞳、対照的に無邪気すぎる彼女の笑顔。噂通りに皮膚から露出して這い回る白い器換蟲。そして、そんな相手に平然と対峙していたクーイ。あの場に居たのは二人の子供では無く、まるで子供の外見をした二人のバケモノだった。
否、否! 突然我に返り、ハリー教授は自分を叱咤した。教育者たる身で私は何と言うことを考えているのだ! 器換蟲を操るパージェ様はともかく、クーイのことまでそら恐ろしく感じてしまうなんて。確かに彼には感情の露出が極端に少ない。驚きも喜びも怒りも悲しみも恐怖も、苦痛すらもあの子は殆ど表に出さない。その所為か、時にはそそけ立つほど冷酷にも見える。自分が愛情を注いで育ててきた動物であっても、平然と殺せてしまう子供なのだ。実際ソロスコ父子がパージェの蟲に襲われた時、そのようにして二人を救ってくれた。だが普段の様子を見る限り、クーイは決して感情に乏しい訳では無いとハリー教授は信じていた。恐らく戦災時の体験が未だに響いているのだ。あの子がソーレル卿に保護されてからもう三年は経つというのに……。
――許されるのであればこのまま彼等を見守っていたい。教授は軽く首を振った。パージェ様は残す食事の量が徐々に減ってきた。クーイは彼女の世話を始めて少し表情が豊かになってきた。まだ極めて微かな兆候だが、二人の中で確かに何かが変わり始めている。
だがタルヴァッカの事件がある。そしてハリー教授は責任者なのだ。教授は唇を噛んだ。同じような事態は二度と招いてはならない。




