微睡む心
まだ頭の芯が朦朧としている。脇腹を押さえ、肩で息をしながらクーイは壁にもたれかかった。パージェが走り去ったことは朧気に知覚していたが、どうすることも出来なかった。クーイは暫く休息を取りながら努めて冷静に状況を確認した。
露台から落ちたところで記憶は途切れているが、現在地は間違いなくあの隠し通路だ。淡いうす緑い光に石壁や苔の歪な影が照らし出されている。その形と苔の厚みから、露台から戻ってすぐの場所に居るのだと見当をつけた。淡い光に阻まれて暗視力が利かず、頭の中に地図を思い浮かべる。露台に向かって左側に往きしに使用した螺旋階段がある筈だ。ここへ通じる隠し扉は内側からは開けられないため、別途復路が用意されている。螺旋階段の手前で分かれる緩やかな下り坂、パージェが喚きながら走り去った通路である。
彼女を追わなければ。あの復路は決して出口にだけ続いている訳では無い。変な場所に入り込んだら彼女の身が危ない。だが軽く身動いだだけで苦痛に息が詰まる。彼は自分自身の体に意識を向けた。左手上腕部の骨折、脇腹の浅い裂傷。大した怪我では無い――彼自身の基準よりは。脇腹の出血は一度は止まったようだが、先程動いた所為か少々傷口が開いている。心臓の位置を守る石膏の封印が割れ、上着についた苔が反応して薄い煙のような光を放っていた。頭痛と寒気は相変わらずしつこいが、それでも外気に晒されていた時よりは大分回復している。
やっぱりこんな体調の時に来るべきでは無かった。彼はポケットから丸薬を探り出し、噛み砕いた。体調の悪さは以前から自覚していた。タルヴァッカの件が無ければここまでの無茶も失敗もしなかったと思う。よもやパージェ様の前で意識を失うなんて。封印を失い、条件反射的に暗器を抜いてしまうなんて。彼女を脅かすつもりなど無かったのに……。自然に手が心臓に触れた。その下にあるものは彼自身を縛る桎梏。
苔の絨毯に落ちた視線が足元のパージェの外套を捕らえた。彼は外套を拾い上げ、丁寧に汚れを払った。温かく滑らかな布地の一部に、糊が固まったようにべったりと血がこびりついている。自分の血だろうか、それとも――ふと手が止まった。そろそろと外套を脇腹にあてがってみる。二つの血の染みは同じ大きさだった。急に心臓が落ち着きを無くす。獣めいた彼女の咆哮が耳の奥に鮮やかに蘇り、その意味を突然悟った。
追わなくちゃ。彼はよろよろと立ち上がった。あの方をこんなに寒い、寂しい中に置き去りにしてはいけない。クーイはパージェの姿を求めて彼方の闇に目を凝らした。
歩き始めてどのくらい経ったのだろう。パージェは幾度目かの休息を取った。ずっと壁を辿っていた腕が鉛のように重たい。濡れて凍えた指先を擦り合わせ、体を出来るだけ小さく丸めて寒さに耐える。全身が小刻みに震えて止まらない。しまった。あの少年の元に外套を置いて来てしまったのだ。
彼は今何処に居るのだろう? 暗闇に少年の姿を、淡くうす緑い光をつい探してしまう。だが虚しい結果が寒さを増す。溜め息を手に吹きかけ、彼女は自分の膝に顔を埋めた。これからどうしたらいいんだろう。
そうだ。使用人に迎えに来させれば良い。でも……如何やって? それ以前に彼等はこの通路の存在を知っているのだろうか。僕にすら知らされていない屋敷の秘密を――知る筈がない。知らされている訳が無い。伯母様が、この僕を差し置いて、下男どもに秘密を明かされるものか! パージェは首を振り、つと露台で少年と交わした会話を思い出した。そうさ、もしかしたら伯母様ご本人だってご存知ないかも知れないんだ。このお屋敷は伯父様とお祖父様がお造りになったものなのだから……。
……どうして彼には分かったんだろう? あんなに複雑な仕掛けだったのに。ほんの数時間前の回廊での出来事が鮮明に思い出され、同時にすぐ側に彼が居た感覚が、気配が鮮やかに蘇る。恭しく差し延べられた指先の感触。殴りつけた時に感じた頬の弾力。あの時はちょっと手を伸ばせばすぐ届く距離に居たのに、今は。今は……。
きゅっ。我が身を抱く腕に力を込める。息をかけても擦っても、体は内側からしんしんと冷たく冷えてゆく。ああ、寒い。パージェは目を閉じた。頭の奥がゆるやかに痺れ、徐々に寒さが眠気へと変わる。現実と微睡みの狭間、ふと以前にも何度かこんな風に暗い廊下に蹲っていたことを思い出した。いつも彼女は堅く閉ざされた扉を見上げていた。
『お母様はお亡くなりになったのです、パージェ様、もうこのお部屋にはお戻りにはならないのですよ』
『この先は新館、ラアニ様のお住まいでございます。パージェ様は旧館へお戻り下さいませ。こちらへいらっしゃってはなりません』
使用人の注意など無くても、扉が二度と彼女のために開かれることは無いと理解っていた。でも今にもその扉が開いて母が――伯母がいつも通りに現れるような気がして、待たずにはいられなかった。パージェは膝を抱えて待ち続けた。時間感覚は無く、ただとても寒かった。絨毯は柔らかくてあたたかいのに、寒くて寒くて体が芯から凍りついた。ふと扉の開く音が聞こえた気がして顔を上げる度に、決まって目の前の光景は彼女を欺いた。次第に時折の空耳にも注意を払わなくなった。
だから今、衣擦れの音がすぐ耳元で聞こえたのも気のせいだと思った。だが空耳にしては気配が明瞭だ。きっと母様だ。現実と夢の堺で彼女は思った。僕に気付いて、扉から出て来て下さったんだ。母様が僕の身に手を回して、僕を毛布で包んで下さろうとしている。凍え切った体は毛布を巻いてもすぐにはあたたまらないのに、母に触れられた途端に皮膚の内側がじわりと熱くなる。パージェは母にしがみついた。頭の片隅で誰かが叫んでいる。騙されるな、これは夢だ。現実じゃない! 母様はずっと昔に亡くなられたんだから!……なのに母の腕は温かく、少し重たく、現実感があった。本当に夢なのだろうか? 彼女は目が醒めても母が消えてしまわないように、腕の存在をもう一度確かめた。
目覚めた瞬間、下からの光に目を射られた。彼女は咄嗟に母の気配に顔を埋めた。だが目が慣れると周囲は意外に暗かった。闇に足元がぼんやりと光っているだけだ。こんな弱い光に眩んでしまうほど長く闇をさ迷っていたのか。
「良かった、気がつかれたのですね……大丈夫でいらっしゃいますか、パージェ様?」
聞き慣れた声がした。幼い声質なのに穏やかで大人びた印象。出来れば顔を合わせたくなくて、凄く凄く苦手で、恐ろしくて、なのにずっと捜していた相手の声。足元から照らす淡い光だけでは彼が何をしているのか良く見えない。だがパージェはすぐに悟った。やはりあれは母では無かった。外套を着せかけてくれていたのは彼だったのだ。
「とても恐ろしい、寂しい思いをさせてしまいました……御免なさい。本当に御免なさい……」
自分の怪我を庇いながら少年は作業を終え、そっと手を放した。急に寒さが募ったように感じて彼女は咄嗟に彼の腕を掴まえた。ビクリと腕が震えたのに気付いてそろそろとクーイを窺うと、淡い光の色に染まった瞳がパージェを出迎えた。驚いた顔がやわらかく緩んで、労るような申し訳なさそうな表情を作る。その瞳いっぱいに自分の影が映り込んでいた。泣き出しそうな顔で心細げに体を縮めている彼女自身の姿。
ああ、僕はとうとう彼に見つかってしまったんだ――不思議なくらい静かに彼女は納得した。もう僕は、彼の前では僕自身を護れなくなってしまった。どんな時でも笑顔で居ることを母様と約束したけれど、きっと彼にはもう見抜かれてしまう。僕が笑顔の後ろに隠れて身を縮めていることを。僕は……僕がこうなってしまうのが堪らなかったのに、……なのにどうして、今、こんな気持ちになってしまうんだろう。
彼女は少年にしがみついた。訳が分からないくらいただ涙が零れた。




