矛盾する心
時間は永遠の長さに引き伸ばされた。クーイの手がゆるゆると拡大し、彼女の視界を覆い尽くしてゆく。少年の手に密かに煌めく金属光は真っ直ぐに彼女の目を狙う鋭い尖端だった。そして指と指の隙間に彼は居た。黒水晶の瞳がひたとこちらを見据えている。その瞳には――明らかに彼女を通り抜けた先を見つめる視線には――穏やかな彼には似つかわしくない、疼くような迫力が揺らめいていた。
ああ。パージェは吐息を震わせて少年を見上げた。あの瞳も僕をすり抜けるんだ……伯母様と同じように。胸に蟠る馴染みの鈍痛が呼吸を押し上げ、肋膜を握り潰し、胃と肺を苦く酸っぱいもので満たす。痛みから逃れたいのにそのことにすら気付かなくて、ただ何かを求めて無心に手が伸びた。少年の手が、鋭い針が、灼けるような視線が彼女の視界をすっぽりと埋め尽くし、風圧が薄茶色の前髪を掠める――その時。
不意に黒い瞳が揺れた。否、クーイ自身が大きく揺らいだ。暗器の尖端は彼女の髪を僅かに攫っただけで、彼はうす緑い光の寝台へどうと倒れ込み、そして沈黙した。パージェは凍りついたように彼を見据えた。たった今見たものが瞼の裏に焼きついている。無理やり体勢を崩して倒れ込む直前に彼が見せた表情。黒い瞳が戸惑いの色に染まったその時、彼が彼女を発見した一瞬、彼女の全身の毛が逆立ったその瞬間を。
見ツカッタ――見ツケラレタ。
言葉にならない悲鳴が滝のように喉から迸り出た。何もかもがぐちゃぐちゃだった。このまま自分がどうにかなってしまいそうで、彼女は喉が裂けるほど叫び続けた。クーイが苦しそうに身を起こし、やがて掠れた声で何か言ったようだが、それも全く聞こえなかった。
「厭っ!!」
悲鳴がやっと言葉を見つけた。
「厭、厭、もう厭だっ!! 僕を部屋に返してよっ!!」
パージェは激しく咳き込み、空嘔吐を繰り返した。全身が小刻みに震えて止まらない。再びクーイの声が耳を掠めた。穏やかで優しげな、いつもと変わらない声……だが言葉の意味は彼女には全く届かなかった。まるで意味を成さぬ旋律に聞こえた。パージェはもう一度獣じみた声を上げて後退り、やおら身を翻した。
逃げ出したかった。この場から。この時間から。全てから。
少年が背後に遠ざかるにつれて淡い光も届かなくなり、いつしか周囲はすっぽりと闇に覆われていた。つと苔に足を取られて転倒した彼女は、そのままそこに蹲った。自分の中身を洗いざらい吐き出してしまいたくて、幾度となく空嘔吐と咳を繰り返す。実際に吐いたのは唾液をほんの少しだけだったが、それでも喉が痛み出すまで存分に嘔吐いたら少しだけ気が晴れた。彼女は手探りで壁を見つけて体を預け、自分自身の激しい息遣いにじっと耳を傾けた。
そうしてどのくらいの時間が過ぎただろうか。
静寂と闇に包まれて過ごすうち、荒かった息は徐々に鎮まり、胸の奥にトクトクと響くリズムが蘇ってきた。パージェは己の体内音に耳を澄ませた。麻痺していた感覚が少しずつ回復し、寒さが手足の先から体の芯に染みて来る。付け焼き刃の生活習慣はそれでも、食事の時間がとうに過ぎていることを弱々しく訴えていた。
……どうして彼は追って来ないのだろう。
パージェは緩慢に立ち上がった。闇を見渡す。だが自分が来た方角をすっかり見失っていた。ひたすら真っ直ぐ走ったのだろうか? それとも何処かで何度か曲がっただろうか? 分からない。思い出せない。彼は今頃僕を捜しているだろうか? 今どの辺りに居るのだろう。ここからすぐ近く? それとも……。
壁に手を触れながら、戻り道だと思う方角へ、一歩だけ踏み出した。僕はどれくらい走ったんだろう。淡緑色の光を期待して闇に目を凝らし、人間の気配を探して耳を澄ませる。見つけたのは、思い知るほどの静寂。まだ彼はあの場所に居るのだろうか。僕が部屋に帰ってしまったと思って、もうこの通路から出てしまっただろうか。そんな! 思わず自分の胸を掴む。僕には帰り道が分からないのに、僕はまだここに居るのに! 狂おしい気持ちに急かされ、闇を探りながら歩き始めた。うす緑い光の幻影が逃げ水のように誘っては消える。今度こそ気のせいじゃない、そう思う度に非情な現実が立ち塞がる。彼女は次第に歩調を早めた。




