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滑落

 この通路は壁の中にあるのだろうか。こんなに広い通路が隠されているなんて知らなかった。屋敷には他にどんな仕掛けがあるんだろう? こいつはその中の幾つ位を見つけたんだろう?


 隠し通路を手探りで進みながら、パージェは前にある筈の背中を見つめた。時折通風口から冷たい外気が忍び込んでくる。通路はやがて緩やかな坂道になり、狭い螺旋階段に繋がった。


「さあ、着きました。こちらですよ」


 階段を上り切った処で、またクーイが戸を開いた。眩しい光と冷気がどっとなだれ込み、パージェは思わず目を覆った。指の隙間からそっと外を覗き見る。


「えっ」


 何度も瞬いて目を慣らし、もう一度見る。一面の青――抜けるような空がぽっかりと頭上に広がっていた。きらきらと光の粒子がまばゆい。


「うわあ、魔法みたいですね。先程まであんなに曇っていたのに!」


 遠くからクーイの声が聞こえたようだが、すぐに冷たい風にかき消えてしまう。ふわりと体が浮き、全身が大空に投げ出されそうな気がした。両腕を広げればこのまま縹渺とした鮮やかな青の中を鳥のように飛び回れそうだ。だがパージェは戸口に必死にしがみついた。バルコニーとは名ばかりの屋上見晴台だ。下階の建物の屋根の上に平らに石を敷き詰めただけの空間で、如何にも心許無い。ここへ通じる戸口も大きめの屋根窓と言った外見だ。露台から下は勾配屋根になっており、屋根の端は武装した石魔像の棟飾りで縁取られていた。


「何て素晴らしい眺めなんでしょう! ここから見える森も小川も泉もお庭の一部だなんて、信じられない気が致しますよ。お屋敷だけでもこんなに広いのに、外の荘園までラアニ様のものなのですよ

ね?」


 平然と露台の半ばまで進み出て、クーイが朗らかに振り返った。


「荘園そのものが伯母様のものという訳じゃないさ。伯母様は管理を任されていらっしゃるだけで、ここは伯父様の御領だからね」


 パージェは頭上を覆い尽くす底無しの青から目を逸らし、おぼつかない足元に意識を向けた。


「このお屋敷を設計されたのも伯父上様なのですか? 川と泉と馬車道がお庭に模様のように張り巡らされていて、築山の上に新館が聳えているなんて、珍しい様式だと思います。空から見たらきっと美しい絵のように見えることでしょうね」


「さあ……そう言えば、お祖父様と伯父様が伯母様にお贈りになったお屋敷だったかも知れないね」


 答えながらパージェは懸命に爪先を見つめた。会話を続けているうちにゆるゆると現実感が戻って来る。やがて彼女は最初に感じた程この露台が狭くないことに気付いた。漸く息が楽になる。


「お二人とも、とても風雅な方でいらしたんですね。御覧下さい、このバルコニーは夕暮れをほぼ正面に眺めることが出来るんですよ」


 クーイは微笑み、そして顔を西に向けた。急速に天球の透明感が薄れてゆく。先程パージェを呑み込もうとした空はミルクを混ぜたように濁り、やがて菫色や紺色に色を変えた。遠くを漂う雲が紫色の光を放ち、雲間から金色の光がヴェールのように垂れ下がる。


「ヘスペラーの花の色だ……」


 パージェは我知らず呟いていた。クーイが眩しげに目を細める。


「天使の梯子……美しいですね……」

「天使の梯子?」

「ええ、雲間から薄く降りる光をそう呼ぶのです。亡くなられた方はあの光を上って天へ旅立つと言われております」


 なら母様もあの薄紗に包まれて旅立たれたのだろうか。そう思うと、光のカーテンの向こうに朱に染まった白い腕が見えるような気がした。まじまじと見つめ直すとそれはまあるい太陽に変わり、遠く棚引く雲の間に身を隠した。パージェは戸口から手を放し、そろそろと夕日に歩み寄った。露台の端には二隅に石魔像が飾られており、何故かどれもこちら側に牙を剥いていた。


「母様が厭がって雲に隠れておいでじゃないか。石魔像が護るべき家を睨んでてどうするのさ」


 彼女は石魔像の頭を鷲掴みにすると、台座ごとくるりと回して外を向かせた。反対側の角に飾られている石魔像も同じようにする。と、突然背後から奇妙な音が轟いた。重たい機械音と同時に戸口の横の壁が割れ、中から天使を象った像が現れたのだ。


「こ……れは?」


 パージェは雷に打たれたように立ち尽くしていたが、やがておずおずと天使像に歩み寄った。玉髄の白くなめらかな表面にそっと手を触れる。像の台座の小さな引き出しを開けてみると、黄変した古い紙束がごっそりと出てきた。――それは何通もの未開封の手紙だった。封蝋にゲゼントラーレア家の紋章が浮き出している。


 母様だ!! 紋章だけでパージェには分かった。菱形の紋と第三子を表す星飾り。差出人は間違いなく彼女の母、エルギューヌだ。徐々に薄れゆく光の中で彼女は貪るように全ての手紙の封蝋を確認した。幾つかは母の婚家ラーベルトゥスの紋章も混ざっている。


 すぐに開封すべきかどうか、彼女は迷った。太陽は雲を薄桃色に染めて山の彼方に消えようとしている。深い菫色の薄明が大気を覆い、いつしか頭上には気の早い星達が煌めいている。彼女はぎゅっと手紙束を胸に抱いた。今は開けるのはよそう――母様が完全に見えなくなるまでは。



 どれ程の時間が過ぎたろうか。透き通る瑠璃色の空気に全身を浸しながら、彼女はいつまでも母の去りし方を見つめていた。夜の帳と共にひたひたと寒気が靴の裏から這い上がって来る。さわさわと枝の擦れる音。風が出てきたのだ。


「お母様のこと、今も大好きでいらっしゃるんですね」


 クーイは彼女が胸に抱いたままの手紙の束に目をやった。パージェが沈黙していると、やがて彼は頭を下げた。


「……失礼致しました。私には育て親と呼べる方が居りませんので……」


「居ない? ふうん、死んだのかい」


 返事などしないつもりだったのに、そんな言葉がふと口をついた。


「どう申し上げれば良いのか分かりません……ただ居ないのです」


 クーイは息と水蒸気を吐き出し、暗く煌めく空に顔を向けた。笑っていない彼を見るのは初めてだとパージェは不意に気付いた。だが薄闇の中で視線を感じたのか、クーイはすぐに明るい声を作る。


「パージェ様のお母様はどんなお方だったんですか?」


 急に問われて戸惑い、彼女はきゅっと手紙の束を握り締めた。冷えた指先は手袋を嵌めているように鈍感で、紙のかさかさした感触が分からない。濃さを増す闇の中、視界は急速に狭まってゆく――


「母様は……素敵な方さ。あたたかくて、お優しくて……伯母様にとても良く似ていらして……」


 ざわざわ、ざわざわ、ざわざわ。


 風が鳴る音だけが通り過ぎ、走り寄る雲が頭上の星を隠した。視覚が失われるにつれて記憶の欠片が鮮やかさを取り戻してゆく。風に揺れる白いカーテン、柱時計の音、穏やかな微笑み、口紅の匂い、胴色のふわふわとした髪、胸の奥でくぐもった音が潮騒のように寄せては返していたこと……


「あたたかくて、お優しい……素敵なお母様だったのですね。もう一度お会いになりたいとお思いになることもおありなのですか?」


 その声に、パージェは思わず手で闇を凪いだ。


「母様は亡くなられたんだ。もうお会いすることなんて絶対に無いよ。それに僕には伯母様がいらっしゃるもの!!」


「そうですね。ラアニ様もいらっしゃいます。パージェ様は、ラアニ様のこともお好きでいらっしゃるんですね」


 闇に包まれて少年の顔はもう見えない。パージェはふんと鼻を鳴らし、暗闇を睨みつけた。


「当たり前じゃないか、僕のたった一人の伯母様だもの。身寄りのない君なんかには分からないだろうけどね。伯母様は足はお悪いけれど、本当にお美しくて、母様にそっくりなんだ。優しくお笑いになった時なんて僕でも見間違う位だよ。も」


 もう何年も見ていないけど――言いかけた台詞を彼女は口の中で噛み潰した。視線が自然に足元へ落ちる。靴がある筈の場所には黒々とした虚無だけが口を開けていた。


「本当に素敵なお方なのですね。パージェ様がお慕いされるお気持ち、分かる気が致します。ラアニ様がお戻りになる春がさぞ待ち遠しくていらっしゃいますでしょう。この広いお屋敷にひとりっきりでいらっしゃるなんて、とてもお寂しいことですもの」


 その言葉が聞こえた途端、急に息が苦しくなった。紡ごうとした言葉が喉につっかえ、パージェは必死に声を絞り出す。


「ひとりで居るのは嫌いじゃないさ」


「え、ですが、伯母上様を好いていらっしゃるのでしょう?」


 畳み掛けられた問いが痛みを呼び起こした。伯母の冷たい面差し、掴まえられなかった銅色の瞳。『お前のせいで妹は死んだのよ』――耳の奥に響き続けるあの言葉……


「だって、……だって伯母様は僕のことをお嫌いだもの。お許しになる筈がない……僕は、母様の敵なんだから」


 ぶるぶると語尾が震えた。闇が重く体の中で蹲る。


「夜中に母様の悲鳴で目が醒めて……横を向いたら、母様のお体は紙のようにぺらぺらになっていた。真っ赤に染まった母様の白い腕がベッドの下に落ちて、髪がざわざわ鳴って、僕の……僕の中に母様の血の味が……いっぱいに」


 パージェはぎゅっと胸を掴んだ。


「母様を喰べた日から僕は悪魔になった。薬も侍医も要らなくなったし、伯母様が何度も僕をやっつけようとなさったけど、駄目だった! 僕は……僕は」


 絞り出した声は濃厚な暗闇に吸い込まれ、闇は沈黙した。パージェは懸命に息を吸い、そして懸命に息を吐き出した。苛立ちとは違う、馴染みのある閉塞感で呼吸がしんどい。荒い息遣いが漆黒の風に溶けてゆく。


「お辛かったのですね、パージェ様」


 湿った聞き覚えのある声が木々のざわめきに混じった。パージェの体に電気が走る。自己の内部に沈んでいた意識が一気に浮上し、現実が鋭敏さを取り戻す。母の手紙がはらはらと零れ落ちた。


「私には何と申し上げていいか分かりませんが……とても、とてもお辛かったのですね。そんなお辛いお気持ちにずっと耐え続けていらしたなんて、胸が詰まります」


 ぐすん、と鼻をすする音が微かに耳に届く。いつの間に他者の気配を見失っていたんだろう。冷たいような熱いような痺れた感触が腹の底から湧き上がってくる。僕を見ないで、僕に入って来ないでくれ!!


「だっ、黙れ!!」


 パージェは闇を凪いだ。凍えて感覚の麻痺した腕に微かに手応えを感じる。ぶつかった相手を手探りで組み敷き、彼女はめちゃくちゃに腕を打ち下ろした。


「黙れ!! 黙れ!! 黙れ!!」


 どうしようもない何かにつき動かされるまま、腕を振り回す。何かの割れる音が微かに響いた。その音に無意識に手を止め、彼女は無抵抗の黒い塊を見下ろした。


 景色が膠着して見えた。動いているのは、激しく肩を上下させている自分だけだった。凍りついた瞬間に足を取られ、彼女は身を竦ませた。何処にも行き場が無かった。何処にも出口が無かった。何処にも――


 微かな布擦れの音が耳に届いた。頬に布を感じ、彼女は我に返った。足元から腕が伸びて、彼女の頬にハンカチのようなものを当てている。闇を透かして見下ろすと、パージェに組み敷かれたままの少年が、同情とも憐憫ともとれる微笑みを浮かべているように見えた。


 ――覚えがある。この表情、差し延べられた腕。既視感よりももっと確かで、しかし朧気な記憶がパージェの中をよぎった。そう言えば以前、裏庭でクーイを組み敷いたことがあった。あの時も彼はこうだった。蟲に首を締められ、顔に血管を浮かびあがらせながら……微笑っていた。


「やめろ!!」


パージェは呻き、彼の腕を撥ね除けた。パシッ! 平たい音を立て、はね飛ばされたハンカチが闇に弧を描く。


「どうしてそんな風に僕を責めるのさ! どうして放っておいてくれないのさ!!」


 引きつれた声を上げて、彼女は再び少年を打った。何かが目茶苦茶に壊れてゆく。殴り疲れてふと力が抜けたその時、それまで無抵抗だったクーイが突然彼女の手首を掴まえた。


「お聞き下さい、パージェ様。私は貴女のお力になりたいのです」


 黒い瞳に目を覗き込まれている、そんな気配がして皮膚がぞくりと粟立った。凍えた花のように、触れられた場所から脆く儚く砕けてゆく。パージェは少年の手を振り解いた。


「だったら、今すぐに僕を殺してみせろよ!!」


 弾かれるように立ち上がり、彼女は露台の隅の石魔像へ駆け寄った。下から吹き上げる冷風が激しく外套の裾を弄ぶ。


「そんな端にいらっしゃっては危のうございます、パージェ様!」


 追い寄る声に逆らい、彼女は石魔像から手を離した。風に体があおられる。落ちればきっと楽になれる――蟲に体を再生されて、再び目が覚めなければ。彼女は目を閉じ、勢い良く虚無の中へ踏み出した。


 闇が両手を伸ばして全身を包み込んだ。束の間の浮揚感は、だがずしりとした重たい錨によって遮断された。体が半回転する。風が唸る。振動と布の擦れる音が耳元で渦を描く。


 錨の正体がクーイだと気付くのにさほど時間はかからなかった。彼は身を挺してパージェを滑落の衝撃から守っていた。やがてずぶりという微かな音がして、突然静寂が蘇った。勾配屋根の縁を飾る棟飾りに抱きとめられたのだ。


「どうして邪魔するのさ!!」


 パージェは身を起こし、クーイに噛みついた。


「だって……貴女を失いたくございません。やっと見つけましたのに。やっとお会い出来ましたのに」


 違和感を覚えるほど荒い息遣いで少年は呻いた。夜光を受けて、屋根の端は露台よりも仄かに明るい。色のない世界で間近に彼の顔を見つめ、パージェは息を飲んだ。この顔には見覚えがある。見覚えがあるどころではない。それは確かに……彼女がよく知っている、誰かの顔だ。


「どういう意味……っ」


 問おうとしたその時、不意にクーイの顔から表情が消えた。パージェを庇っていた腕がぐにゃりと力を失い、武装した石魔像が並ぶ棟飾りから零れ落ちる。彼女は少年の腕を危うく掴まえ、それが奇妙な方向に曲がっているのに気付いた。滑落の衝撃で二の腕を骨折していたのだ。そのせいなのだろうか、彼の顔も手も痺れるほど熱い。


「起きろよ!! 誤魔化そうったって、そうは……」


 言いかけて、パージェの喉がきゅうっと締まった。

 少年の脇腹から棟飾りが――石魔像の白い槍先が生えていたのだ。


挿絵(By みてみん)

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