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第二書庫にて

 離れは、そもそも遠方から来た客人を宿泊させるために造られた別館である。従って彼女には殆ど建物内の土地勘が無い。伯母の住む新館に劣らず豪華な廊下が延々と続く中、彼女は周囲を窺いながらゆっくりと足を進めた。ひんやりした空気は吸い込むと軽い味がする。静寂の中で単身華美な装飾に囲まれていると、背中が心許無いような感覚と同時に、真っさらな新雪に足跡をつける時の、もしくは未踏地を探索する時の高揚感が湧き上がってくる。


 ぐるりとフロアを巡るとやがて吹き抜けを取り巻く回廊に出た。階段が紗のように織りなされ、幾つもの絵が壁を飾っている。パージェは絵を眺めながら回廊を一周した。ニーユルとウデイという恋人同士が禁を犯して永遠に引き裂かれるという伝承を題材にした絵画ばかりだ。但し一枚だけヘスペラーの花の静物画が飾られている。母様のお好きな花だ、とパージェは思い出した。何らかの理由で絵が足りなくなって飾ったのだろうか。さして気に留めずに彼女は階段を下りた。


 踊り場で交わった階段は二つに分かれ、象牙と金で作られた巨大な柱時計を挟んで同じフロアに達していた。時計の傍を通過する際、彼女は僅かに身を堅くした。だがその時計は沈黙していた――機能を完全に停止していたのだ。パージェは少しホッとして柱時計を見上げた。通常振り子が収められている場所は飾り戸棚になっており、やはりヘスペラーの花をあしらった茶器がセンスよく並べられていた。


 下階も無人だったため、パージェはずんずんと階段を下りた。やがて微かに喧騒が近付いてくる。どうやら彼女は最上階に滞在していたようだ。医学生達が暮らすフロアはその三階下、即ち一階と二階だけらしい。道理でパージェの部屋まで人の気配が届かない訳である。階段を一段ずつ踏みしめ、とうとう彼女は医学生と同じ床に靴を触れた。


 折しも医学生達は授業を終えた処である。食事当番は厨房に集まり、他の者は自習を続けたり、風呂に入ったり、休憩したり、友人と巫山戯あったりと、概ね自由に過ごしていた。その騒々しさにパージェは眉寝を寄せ、ついと足を静かな方角へ向けた。書庫と思しき扉を引き開けると、中に居た医学生兄妹とばったり視線が出会う。


「……黒髪の生意気な下民は何処だい?」


 短い逡巡の後、パージェはつんと顎をあげてにこやかに尋ねた。


挿絵(By みてみん)


 ベフェ・ツィックは分厚い眼鏡を重そうに指で持ち上げ、軽く小首を傾げた。横にいた兄タルヴァッカ・ツィックも首を捻る。彼等は現れたパージェを不審そうに眺め、年少組の医学生の一人だと考えた。二人ともここに十三歳の姪姫が運び込まれたことは知っていたが、あどけない笑顔を浮かべたこの子が気狂い姪姫本人だとは思いもよらなかったのだ。発育不全のパージェは精々七歳位にしか見えないのだから。


「黒髪? 誰のことかしら」

「結構多いよ、黒髪なんてさ。生意気なやつねぇ……誰だろ?」


 兄妹はひそひそと言葉を交わし、やがて妹がパージェに向き直った。


「悪いけど、誰を捜しているのか分からないわ。お夕飯まで待ってから大食堂へ行けば会えるんじゃない?」


 ベフェは素っ気なく答えると、すっかりパージェのことなど忘れたかのように、兄と小声で別の話題について話し始めた。


 下民のくせにいい態度を取るじゃないか。パージェの中に不快感が押し寄せ、皮膚の下で蟲の気配が粟立った。どろどろした粘液質のものがみぞおちに溜まってゆく。ここ久しく感じていなかった残忍な高揚感が次第に彼女をチリチリと刺激し始めた。


「随分と礼儀を知らない虫だね。同じ空気を吸うだけで胸が悪くなるよ」


 パージェは笑顔を崩さずに二人を金色の瞳で威圧した。兄妹はぽかんと彼女を見つめ、やがて兄の方がケラケラと笑い出した。


「随分と礼儀を知らない虫だね。同じ空気を吸うだけで胸が悪くなるよ」


 タルヴァッカは器用に彼女の声色を真似てみせる。


「あっはははは、それってこないだの礼法の講話もじってんの? そーゆうドぎつ~い台詞をキミみたいな年少組にあどけな~く言わすなんて、キミに入れ知恵した奴、めっぽーセンスいーじゃん!」


 そばかすの浮いた顔を人参のように真っ赤に染め、タルヴァッカは体を二つに折って笑い続けた。


「ねえアンタ、気をつけなよ。礼法の先生にばれたら大変だよ。あの先生、怒らせるともっの凄ーく怖いんだから。ね?」


 お姉さんぶって窘めながらベフェもクスクス笑っている。パージェがにこやかな表情を崩さないため、一瞬だけ書庫は笑顔で満たされた。


 だが、次の瞬間、白く湧いた無数の糸がタルヴァッカ少年を絡めとり、彼を廊下へと引きずり出した。


「愚鈍な下民だね。僕を誰だと思っているのさ?」


 パージェはにこやかに少年を見下ろした。金色の瞳に残忍な光が浮かび、蟲がざらざらと波打ってタルヴァッカの四肢に絡みつく。


「えっ、何だよこの玩具、マジで動いてん……!?」


 きょとんとしたタルヴァッカの顔からみるみる血の気が引き、壮絶な音が空気を裂いた。



「な、何だぁ、今の音!? ケンカかよ!?」


 セール・ソロスコは思わず立ち竦んだ。再び上がる長い悲鳴がその予想に否と答える。嘘だ、そんなのありえねー、そう内心で懸命に否定しても、凍りつくような恐怖に襲われて、動くことも息をすることさえも出来ない。


「パージェ様が第二書庫にいらっしゃってる!! あそこにはツィック兄妹が居るって……。ソロスコ、すぐに廊下を封鎖して、皆を避難させるんだ! このままじゃまずいよ。僕もまさかパージェ様がご自分からお部屋を出られるなんて考えていなかった!」


「な……何だってぇ!? マ……マジかよソレー!!」


 冷静なクーイの声が凍えた時間を溶かした。ソロスコは水を浴びせられたように我に返り、真顔のクーイを見つめ、思わず涙声で喚いた。


「オ、オ、オレやだよー! あんなバケモンに近付きたかねーって!」


「パージェ様のことは僕に任せてくれていいよ。そうじゃなくて、君は早く廊下を封じるんだ。それからハリー先生を呼んどいて! あと……もし僕が上手くツィック兄妹を助けられたら、二人にごめんねって伝えといてね。頼んだよ!」


「え、お、おい……!?」


 ソロスコは呆然としたまま、遠のいてゆくクーイの背中を見送った。

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