薔薇のサシェ
ハリー教授の部屋は凄まじいことになっていた。噎せかえる程濃厚な薔薇の芳香が立ち込めている。扉を開けたままの姿勢でクーイは思わず固まった。教授はと言えば、何やら端切れの山に埋もれて作業中である。
「うわあ……ソロスコが逃げ出すのも尤もだね、これじゃ」
クーイは口の中で呟き、気を取り直してハリー教授を覗き込んだ。教授は危なっかしい手つきで餃子型のものをせっせと縫っている処だった。
「あのう……何をなさっているんですか、先生?」
「サシェだよ。サシェを拵えておるのだ」
「……サシェって……確かポプリを詰めた袋のことですよね?」
「うむ。先日お前が持ってきた血液から、薔薇の芳香成分に似た物質が検出されてな……あ痛ッ!」
ハリー教授は頷き、次の瞬間指に針を刺して悲鳴を上げた。慌てて指を口に持ってゆく。出来上がったサシェにも茶色い染みが無数についており、その苦戦ぶりが窺える。
「あの血、パージェ様がご自身の意思で蟲を操られた時に採取したものだと言っていたろう? だが以前の血液検査では何も出とらん。これだけではパージェ様が本当にご自分の意思で蟲を操れるのかどうかは分からんが、少なくともこの成分が何か重要な意味を持っているのは確かだ」
急に教授は言葉を切り、顔をしかめて再び血の滲んだ指を銜えた。
「ほこでふひに気ぶいはのはが……このお屋敷の庭園は何処も手入れが行き届いとる。立派な薔薇園もおありだ。なのに、パージェ様の私庭と旧館の周囲にだけ花壇の類が一切無いのだよ」
「あっ」
クーイは目をパチパチさせた。越冬に備えて藁が巻かれた木々、剪定された花壇、それとは対照的に殺風景な裏庭の様子が脳裏に浮かぶ。
「成程、それを確かめるために薔薇のサシェを用意されている訳ですね」
「相変わらず察しが良いな。一応、もしやと思ってね……悪いが頼めるかな?」
ハリー教授は苦笑し、クーイはにこやかに頷いた。
「分かりました。パージェ様が薔薇の香りにどのように反応されるのか、後程まとめてご報告致します」
彼女が部屋に戻ると、柱時計は約束通り然るべき位置に届いていた。パージェは満足げにそれを見つめ、濡れ髪をもう一度乱暴に拭いてバスタオルをソファに放り投げ、それから時計に近付いた。
かっち、こっち、かっち、こっち……。
荒らしっぱなしの部屋に訪れた音の秩序。暖炉のあたたかい光が揺らいで透ける。手を触れると硝子窓が湯上がりの体温を感じて曇り、振り子がうっすら輪郭を失う。
かっち、こっち、かっち、こっち。
目を瞑ると鮮やかに蘇る風景。白いカーテンを透かして忍び込む斜陽。窓辺に飾られたプランターから花の香りが風に溶ける――薔薇だ。伯母様の一番お好きなお花……――母様のお部屋に? 変だ。母様はいつも薔薇ではなく、物憂げな黄金色のヘスペラーという花をお飾りになっていたのに。
かっち、こっち、かっち、こっち。
違和感を覚えてパージェは目を開いた。懐かしい幻は遠のき、なのに何故か薔薇の芳香はより鮮明になってゆく。
かっち、こっち、かっち、こっち。
身体が重く澱んでゆく。どうしてこんなに薔薇が香るんだろう? 急に時計が背伸びをした……否、自分が座り込んだのだ。
かっち、こっち、かっち、こっち。
足腰がだるい。自分の体が自分の体であることを拒絶している。空気の代わりに溶けた鉛を吸い込んでいる感覚。あんなに恋しくて仕方が無かった音なのに、今は潮騒のように押し寄せてパージェを追い詰めている。彼女は鈍る腕を必死に持ち上げて両耳を覆った。
かっち、こっち、かっち、こっち……やがてカチリと微かな音がして、ゴーン、ゴーンと重たい金属音が部屋中に響いた。耳を塞いでいても尚彼女の中に浸入してくる音。パージェはぎゅっと目を瞑った。時報が鳴り終わると、再び時計は微かなリズムを紡ぎ出した。規則正しい音が苛立ちをかき立てる。
かっち、こっち、かっち、こっち。
しゅるり。湯上がりのまだあたたかいパージェの肌が粟立ち、白い糸がざらりと絨毯に流れ落ちた。普段より大儀そうに鞭を綯う。しかし柱時計に絡みついた途端、蟲はびくりと身を引いた。彼女の中に一層強く薔薇の芳香と酩酊感が満ちる。
「え……?」
視界が揺れた。上下左右の感覚が麻痺し、彼女は偶然手に触れたベッドの足にすがった。意識の焦点がぼやけ、くらくらと視覚が渦を描く。皮膚感覚が薄れ、視界が鮮明さを欠き、確かなものが世界から消失する。不快感は無いものの、無防備になってゆく自分が無性に怖い。
「……も……戻れっ!」
そう念じるのが精一杯だった。蟲は魔法のようにパージェの中に吸い込まれ、やがて眩暈が和らぎ、世界が実体感を取り戻し、そして内臓に重だるい倦怠感が残った。
「あいつ……っ」
パージェは唇を噛んだ。あの髪の黒い下民が何か時計に仕組んだに違いない。彼女はベッドによじ登り、破れた天蓋の隙間から時計を窺った。
背の高い、どっしりとした柱時計。上部には月と太陽の運行を示す窓がついているようだが、暖炉の薄明かりが反って時計全体を闇に沈めていた。暗がりから音だけが零れ落ち、揺らぐ火をそのリズムに踊らせる。
呼びつけるべきだろうか。今すぐ、ここに。
白い鞭がしなって少年を引き裂くイメージを浮かべてみる。だが皮膚の下の従僕達はピクリとも反応しない。
いいや。わざわざ呼ばなくても、そのうち食事を運びに来るさ。パージェは枕に顔を埋め、瞳だけを動かして音の源を睨んだ。
今日は柱時計搬入のため、午後のお茶がいつもより早かった。その為湯浴みにあれだけ時間を費やしたというのに、のろまな針があと二周は走らないと夕食の時間にならない。幾ら睨みつけてもちっとも針が速くならないのに嫌気が差し、パージェは諦めて毛布に潜り込んだ。最も効率的な暇潰しは寝ることだ。
かっち、こっち、かっち、こっち……
だが時計の音は容赦なくパージェをかき乱した。彼女は毛布に深く体を埋め、目を瞑り、枕で両耳を塞ぎ、それでも耐え切れずに結局半身を起こして時計を睨み据えた。悔しいことに針は全然動いていない。意識すればするほど針の歩みは遅くなるのだろうか。
苛立ちの余り彼女は飛び起きた。散乱したままの部屋をうろうろと歩き回る。何処にも使用人を呼ぶベルがないと分かると、服を着込んで外套を羽織り、生乾きの髪を指でザッとかき上げた。靴紐を何度も確かめ、そして勢い良く廊下へ至る扉を開く。
寒い!! 彼女は驚いて外套の前をきつく合わせた。暖かい部屋に長く閉じこもっていた体は、何時の間にか寒さに弱くなっていた。
パージェは今年の冬が異様に寒いのだと決めつけ、音高く扉を閉めた。




