姫君の願い
「家出ねぇ……同じ建物の中では、そうは言わないと思うけど……」
クーイは暖炉から焼けた炭を掬うと、鉄籠に囲まれた火鉢に移し、それをソロスコに手渡した。頬を擦り、ソロスコは受け取ったベッド・ワゴンを布団の中へ押し込んだ。これから益々冬は厳しくなるのに、もうベッド・ワゴン=籠付火鉢で布団を温めなくては寒くて眠るどころでは無い。暫く廊下に立っていただけで、がちがちと翼の先まで震えが来る。
「にしてもマジで助かったぜ~。お前ならまだ起きてるって信じてたよ。あ……けど、オレがベッド使っちまって良いのか?」
ベッドに枕とクッションで羽収めを拵えながら、ソロスコは今更気付き、慌てて問うた。
「いいよ。僕はまだやることがあるし、それにいつも長椅子で寝ているから、気にしないで」
クーイは火ばさみを薪入れに戻すと、暖炉際の小机に再び向かった。テーブルの上で、蝋燭の灯が開いたままの本を照らしている。遠目にもびっしりと字で埋められた本に、ソロスコは軽い眩暈を覚えた。
「……やることって何だよ。今日は宿題出てねーハズだぜ?」
「パージェ様のお世話で時々抜け出してる分、点を稼いでおきたいんだ。尤も個人的に調べていることをレポートに流用してるだけだけどね」
クーイはその本――『断罪史』という名の分厚い書物を捲った。
「そっかぁ。お前、入塔試験、次の夏だっけ。そう言やえれー悪趣味な塔受験するって噂だけど……あれ、マジなハナシ?」
ソロスコは本のタイトルをちらちらと盗み見ながら首を傾げた。
学長に医学生としての基礎教育を全て修了したと認定された者は、医者志望なら医師養成所に、医学者志望なら高名な学者の研究塔に入ることになる。クーイは秋の試験で認定され、来夏、塔主が発狂したという曰くつきの研究塔を受験することに決めていた。
「うん。リウー博士は間違いなくこの国屈指の実力者だもの。それに僕は博士の正気じゃなくて、研究に用があるの」
淡々とクーイは答えて羽ペンをインク壺に浸した。
やっぱ信じらんねー奴だぜ。ソロスコは半分は尊敬、残る半分は奇怪なものを見る目でクーイを見やった。普通は入塔資格っつーのは十年生くれーでやっと取れるもんなのに、四年生の前期に取っちまうんだもんな、コイツ。これでオレより半年くらい年下なんだぜ……あーあ、世の中って不公平だよな~。まぁコイツの頑張り方も尋常じゃねーんだけど。
ソロスコは不意に、クーイが転入して来た時のことを思い出した。あれは三年前、ソーレル卿がウェアル卿を破った戦いから半年ほど経った頃だった。初めて父に彼を紹介された時、いつもニコニコしているのに目だけが怯えているような感じで、何処となく怖い感じがした。そのうち何となく人に慣れていないのが分かって、ちょっと放っておけない気がした。もう少し経つと、何を考えているのかさっぱり掴めなくて、また分からなくなった。間に見えない壁のようなものを感じた。
クーイの印象が変わったのは最初の夏だ。どんなに暑くても絶対に長袖を着ている彼のことが不思議で、つい巫山戯てシャツを捲ってみたのである。服の下は包帯だらけだった。ちらりと見えた肌には黴みたいな色の痣が一面についていた。ソロスコはびっくりして泣いてしまった。その夜、クーイはソーレル卿に拾われた戦災孤児だと父に聞いた。ここに居るのは術医学関係者か金持ちの子供ばかりなのに、彼だけ違うのだ、と。それ以来ソロスコは彼を守ってやらなくちゃと思うようになった。
だよな。ソロスコは欠伸を噛み殺しつつ、布団の隙間からクーイを窺い見た。アイツぁソーレル様に見放されちまったら生きていけねーもんな。家族も親戚も居ねーんだもんな……紙をペンが滑る音に睡魔を覚え、ソロスコはもそもそと布団の奥に潜り込んだ。けど何だってクーイの奴、もうじき入塔試験だってのに、姫さんなんかを気にしてやがんだろ? それにアイツの方から構いに行くなんて、やっぱスッゲー珍しー……よな。多分姫さんが弱々し過ぎっからなんだろーけど、でもクーイはオレのダチなんだかんな、ちくしょー。
「……なあクーイ……あんま無理すんなよ。明日だって早ぇんだろ? 何なら姫さんの世話くれー他の奴に手ェ借りてさ……」
半ば無駄と知りつつも、ソロスコはそう言わずにおれなかった。
「心配してくれてありがとう。先に寝てていいからね」
クーイは振り返り、にこっと笑顔を作った。だがオレンジ色の光のせいか、その顔色は土気色に見えた。
かっち、こっち、かっち、こっち……耳の奥で音はまだ続いている。
ここへ来てから何日位経ったんだろう?――所在無くパージェは荒れたままの部屋を見回した。視線が無為に壁をなぞる。
蟲を飼っている身体は常人よりも遥かに回復が早い。十分な栄養と休息を得て、体調はもう完全と言えた。ここを出たければいつでも出られる……のに。何故だろう、そんな気になれない。
きっと暖炉があるせいだ。この部屋に居ると暖かくてつい眠たくなる。窓から見える空は真っ白く濁っていて、骨だけになった木々が震えていて、でもそれは窓枠という額に収められた写実画みたいで。
旧館の僕の部屋はこんなじゃなかった。空と同じ色に煙る息。刺すような空気が窓から漏れてカーテンを揺らす。僕は冷たいベッドの上でこわ張った手足を縮め……どうだったかな。あれれ? あんまりよく思い出せないや。何でだろう? 伯母様が僕に下さったお部屋、伯母様から賜った僕だけの館。不満を漏らせばすぐに庭師が入る僕の私庭。他にも沢山のものを伯母様は僕に下さった。クッションにカーテン、男ものの洋服、そして……あの壁には。アノ壁ニハ――
急に胸の辺りが重くなって動悸がしてくる。パージェは怯えたように窓から後じさった。救いを求めて彼女はオレンジ色の光に歩み寄る。
パチリ。大きく音を立て薪が弾けた。踊る炎に手を伸ばすと、無意識に握り締めていたハンカチーフがぢりぢりと燻り始めた。熱が見えない膜となってパージェの手をそっと押し戻す。ハンカチーフが黒く縮んでやがてボロボロと崩れ始める。暖色の温もりが照らすのは、ひたひたと寄せくる筈のあの音だけが欠落した部屋。
……かっち、こっち、かっち、こっち……
彼女はつと振り返り、しんとしたままの扉を見つめた。指を滑り、薪の上で黒く身を縮めた布端は、やがて赤い光に溶けた。
暇をみつけて研究室に引き籠ったハリー教授は、薔薇色の試験管を窓に透かして溜め息をついた。
「……組成は違うが、確かに酷似している……」
茶色く乾いた花びらを詰めた硝子瓶の横には、様々な色の試験紙が並べられている。教授は分析結果を記録すると息をついた。
「柱時計……ですか? 今、そう仰いましたよね」
パージェの思いがけない要望に、クーイは黒い瞳をしばたかせた。その視線が部屋へ流れる。引き倒されて散らばったままの調度品、硝子の破片、引き裂かれた天蓋やタペストリー、布団から零れたままの羽毛。こんな部屋に何を飾ると言うのか、そう問われた気がしてパージェは身を縮めた。顔を背け、もういいと吐き捨てようとした瞬間、少年は屈託なく微笑んだ。
「分かりました。明日中にお持ち致しますね。大きくて重たくて壊れやすい調度ですから少々人足が入りますが、構いませんでしょうか?」
朗らかに許可を得るとクーイは再び仕事に戻った。相変わらず理由を問う気配は無い。パージェは漸く胸いっぱいの息を吐き出した。食事を続けながらいつものように黒い背中を目で追う。
「うわっ!」
と、突然少年の体が揺れた。床に散乱したままの家具の破片に足を取られたのだ。危うく転倒は免れたものの、火鉢の灰を絨毯にばら撒いてしまった。クーイは丁重に詫び、即座に床掃除を始めた。
「珍しいね。君でも失敗をやらかすことがあるのかい?」
半ば胸のすく思いでパージェが陰険に微笑むが、彼の反応は無い。視線を合わせないようにそっと窺うと、クーイだと思っていたものは泥で出来た人形だった。
「本当にごめんなさい。以後気をつけます」
泥人形は不意にこちらを向くと、また礼儀正しく頭を下げた。眼窩に嵌め込まれた黒水晶の視線が柔らかく彼女を射抜く。
パージェは息を呑んだ。驚愕はしかし意識にのぼる前に薄れてゆく。たった今感じた筈の何かが指の間をすり抜けて零れ落ち、意識の片鱗に残されたのは既視感と奇妙な……初めてでは無い感覚……――これは?
人形は背中を向けた途端、黒髪の少年に戻った。
「漸くパージェ様がご自分の希望をお申し付け下さったね」
部屋を出たクーイはしかしすぐに真顔に返る。
「けど意外と難問だなあ。ハリー先生が研究室として使ってらっしゃるお部屋の柱時計を移動すれば済むとは言え、こればっかりは何としても壊される訳にはいかないもの。予防策を考えないと……」
時計――一日を細かく刻む道具。それは庶民には無縁のものだ。砂時計の類なら日常的に使われているが、普段人々は天体や動植物の変化、或いは定期的に鳴らされる鐘の音で時を知る。時計を所有するのは貴族か精霊社――精霊信仰の寺院――だけだ。精霊社には一日を地水火風陽月の六精霊に応じて分割するための水時計がある。しかしこれも一日を大まかに六分割するだけで、正確に時を刻むものではない。
柱時計。パージェが何気なく欲したそれは日用品に非ず、荘園館の中でしかお目にかかれない贅沢な調度品、精霊科学の最先端技術を駆使した高価且つ繊細な芸術品であった。
「如何にラアニ様がお留守でも、あんまり派手なことはしたく無いなあ……うーん」
クーイはワゴンを片付け、悩み悩みハリー教授の部屋へ向かった。




