第四章 君はだあれ
入院病棟の小さな休憩スペースに僕は座っていた。窓の外ではもうすっかり日が暮れている。あれからどれくらい、いったい何時間経ったのだろう、と考える。まだ数時間しか経っていないのにまるで遠い昔のことのように思われた。
数時間前、壱原君は意識を失って倒れていて、ぼろぼろになった音草さんは動かない彼を見上げていた。目の前の光景はまるで荒唐無稽な夢を見ているようだった。
僕は音草さんを追ってきたのだ。突然公園から駆け出した彼女が気になって追いかけたのだけれども、途中で見失って到着が遅れた。現場に着いたときには全てが終わっていた。
何があったの? 当然の疑問を、呆然と立ち尽くす静江さんに発した。しかし、彼女は答えずに逃げ出した。
もちろん、彼女を追おうとしたのだ。でも、音草さんに先を越された。意識のない壱原君の下から這い出して、彼女は公園を飛び出したときと同じように走って行ってしまった。
その後、僕には駆け出していった二人を追う余裕が与えられなかった。騒ぎを聞きつけてきた大人たちが集まってきて、警察に連れていかれて事情を聴かれた。解放されると、今度は救急車で運ばれた壱原君の両親から電話がかかってきて、病院に呼ばれた。壱原君が目覚めた、というので会ってほしい、ということだった。
彼とはさっき病室で会ってきた。少しだけ話をして病室を出て、そのあとこうして休憩スペースで座り込んでいる。まっすぐ家に帰る気になれなかった。
僕の隣には恵さんが座っている。さっき壱原君の母親から手渡されたココアを一口飲んだきりで、紙コップの茶色い水面を眺めている。声を掛けても反応がない。
あの現場に僕がたどり着いたとき、恵さんは全てを見ていた。壱原君が静江さんに襲い掛かったこと、次に止めに入った音草さんの首を絞めたこと……そして突然、意識を失ったこと。目の前で起こった不可解な事件に恵さんはひどく取り乱していた。事情を聴きだすのだって、しばらく時間がかかった。
それでも、警察から解放された頃にはいくらか冷静さを取り戻していた。何の前触れもなく、錯乱した壱原君を不可解に思いつつも、意識を失った彼のことを心配していた。早く一目会って、無事を確認したいと何度も言っていた。そうでなければ安心できない、と繰り返していた。……が、実際に顔を合わせて病室を出ると、この通りだ。
「いーくん、どうしちゃったの……どうして、どうして……嘘だよ……あんなの、嘘だよ……」
壊れたレコーダーのように恵さんは繰り返す。
その痛々しい声はじくりと胸に染み入る。彼女のつぶやきは、僕だって言いたいことだった。彼の身に降りかかったあまりにも理不尽な出来事に、悲しみと怒りを抱かずにはいられない。
僕と恵さんが病室に足を踏み入れると同時に、ベッドの上で身を起こしていた壱原君は僕らを振り返った。怪我をした様子はなかった。振り返った顔も血色がよく、元気そうだった。彼は朗らかに微笑んで、僕らに呼び掛けた。
「やあ、こんばんは! ……どうも初めまして、ぼくは壱原元。ところで、君たちは?」
まったく彼らしくない愛想の良さで、まるで今日この場で初めて出会ったかのように僕らを出迎えてくれた。
冗談、と思いたかった。僕や恵さんを驚かそうと、壱原君が演技をしているのだと思いたかった。けれども、彼はいつまで経っても、お前たちを少しからかってやったのさ、と笑い出したりしなかった。最後まで見知らぬ赤の他人として礼儀正しく振舞った。
病室に招き入れられる前に彼の両親から聞いた通り、壱原君は全ての記憶を失っていた。今日何があったかはおろか、自分の名前も性格も、僕らのことも一つも覚えていないのだった。
顔も声も、確かに僕らが知っている壱原君だった。でも、何もかも違った。傲慢不遜な笑みは柔和な微笑みに代わり、荒々しい言葉遣いは物腰柔らかな丁寧な口調になっていた。別人だった。彼の双子の弟と言われれば、僕も恵さんも喜んで信じただろう。僕らが知る、あの壱原元がいなくなった事実を受け入れなくて済むから。
病室で、恵さんはほとんど話さなかった。僕と壱原君がぎこちなく、初めて出会った人間らしくやりとりするのを黙って見ていた。恵さんを責めようと思わない。僕だって、本当は逃げられるものなら逃げたかった。ただ僕は恵さんよりはいくらか冷静だったから、彼女の代わりに話をしたのだ。理由は僕と彼女の性格云々、ではない。頭にあるのは壱原君を失った悲しみばかりではないから、だ。
父と同じだ、と気付いた。……おとぎ話の謎が、ここにいない彼女たちが、僕の頭の大きな部分を占めていた。
翌日、朝の教室。朝早い時間帯で、教室にはまだ誰もいない。普段、こんな時間に教室に来ない。朝礼が始まる直前ぎりぎりの時間に席に着く。朝礼の時間より早くに来たって、話し相手になる友達一人僕にはいないからだ。
けど、今日は違った。どうしても話をしたい人がいた。だから、早くにやってきて待っている。人気のない教室で、落ち着きなく掛け時計を見上げながら、教室の引き戸を気に掛けながら待っていた。
待ち人がやってきたのは、朝礼十分前。……来た。教壇側の入り口から、彼女は姿を現した。亜麻色の髪を揺らしながら、増えてきた生徒の群れの隙間をまるで赤い絨毯の上を進むように歩き、小さな教室の女王様はやってきた。席から腰を浮かせた僕を目指して、まっすぐに。
教室中のクラスメイトたちはみんな、ざわめいた。音草乙葉の可憐な顔に惨たらしい殴打の跡が刻まれていることに、彼女の行き先がはぐれ者の僕の席であることに驚いている。しかし彼女は群衆たちの視線など意に介さない。彼女が口を開けば、鈴の音が鳴ったように教室中に凛と声が響く。
「安堂君、お昼休みあいてる? 君に少し、話があるんだけど」
音草乙葉は澄んだ声で告げる。お願いなんかじゃない、これは女王様の命令だ。僕に断る権利はない。それに、断ろうとも思わない。
「……分かった」
僕は彼女を待っていたのだ。
昼休み、僕と音草さんは理科室で向かい合った。周囲に人気はない。しん、と静まり返っている。
「単刀直入に言うよ。寧ちゃんは魔女として目覚めた。騎士だった元君の魂を食らい、人間の魂への食欲を抑えられない。もう人間として、彼女は生きられない。だから、あたしは聖者としての役割を果たす」
前置きの言葉一つなく、音草さんは淡々と言った。
「期限は三日後……金曜日。その夜、あたしは寧ちゃんに魂を捧げる。あたしは彼女に食われて死に、彼女はあたしを食らった悲しみにより死ぬ」
音草さんは小さくかぶりを振って、それから僕を見上げた。
「これは決定事項。あたしも、寧ちゃんも覚悟は決めているの。……誰にも邪魔はさせない」
僕を見据える眼差しには、彼女の言葉に見合うだけの決意が宿っている。安っぽい説得も、底の浅い哀願も彼女には通用しない。口にしたところで、どうせむなしいだけだ。
落ち着いていられるのは、予想がついていた、という事情もある。人目を誰よりも気にする彼女が、教室で堂々と僕に声を掛けてきた。あの時既に異様な眼差しには気付いていた。彼女が覚悟を決めることと言えば、候補は多くない。前日の事件について整理し、考えてみれば彼女たちの間に何が起こったのかだいたいの想像はつく。つまり、おとぎ話は、ただのおとぎ話で終わらず、この世に魔女と聖者は実在したのだ……と。
「静江さんは、今までずっと隠していたんだね。物語を知っている、ということ、彼女が本物の魔女だってこと……それから」
「小五の夏、君と手紙のやりとりをしたこと」
僕の言葉を引き取って、音草さんは言う。それから、くす、と声を弾ませて微笑んだ。
「勘違いしていたね。君がずっと探していたのは、あたしじゃない。あの子だったんだよ」
形は確かに華やかな微笑み。でも、その瞳は全く微笑んでなどいない。背筋に寒気が走るような冷たい敵意を放っている。なぜ気付かなかった、と僕を責め立てている。
「君は、僕が悪かった、と言いたいの……?」
「なら、君は彼女が悪かった、と?」
形ばかりの微笑は変わらない。朗らかに、彼女は言い返す。
僕は言い返せない。そりゃ、黙っていられちゃお手上げじゃないか……そう言いたいのだけれども、言えない。確かに、僕にいくつか非があるのは認めよう。最初から彼女に全てを話さなかった、小さな嘘をついた。おとぎ話をどこかの本で読んで知ったことにしたし、小五の夏に顔も知らない女の子と文通のやりとりをしておとぎ話の解釈を学んだことを言わなかった。けど、それぐらいじゃないか。静江さんは全てに対して……おとぎ話の存在さえ知らないふりをして、最初から全て嘘で塗り固めていたじゃないか。
僕は静江さんにちゃんと確かめた。おとぎ話を知っているか、と。彼女ははっきりと答えた。知らない、と。そう、知っているくせに大嘘をついたのは彼女じゃないか? どうして、音草さんは僕を責めるのだ? どうして、静江さんより僕が悪いのだ?
第一、三年前に手紙を途切れさせたのは誰だ? 心を込めて書いた僕の返事を黙殺したのは彼女じゃないか……そうだそうだ、やっぱり悪いのは静江さんじゃないか! 僕は純然たる被害者じゃないか。
僕が沈黙している間に、音草さんは小さく肩をすくめた。まるで試合時間の終わりを告げる審判のように、厳粛に。間もなく身をひるがえして、鍵が壊れた窓に向かって歩き出す。
「さようなら」
顔を合わせることさえ、もはや価値がない。徐々に遠ざかる小さな背中は冷ややかな声以上に、雄弁にそう語っている。進む足取りは淀みなく、彼女の行く手を遮る者がいれば容赦なく前へ進む足を振り下ろすだろう。
それでも、これが最後のチャンスだった。ここを出れば、音草さんはもう僕と『人食い魔女の死』をめぐる話をすることはないだろう。保健室で静江さんと巡り合った日よりも前に戻って、教室の女王様とはぐれものという別世界の住人として三日間を過ごし、永遠の別れを告げることになるだろう。
かえる公園で言葉を交わした彼女と話ができるのは、これが最後なのだ。……やるしかない、僕は決意する。
「ねえ、どうして、僕をここに呼んだの?」
声を振り絞って、遠ざかる背中に呼びかける。その足取りは止まらない。構わない、続ける。
「誰にも邪魔はさせない、と君は言った。なら、黙っておけばいいじゃないか。勝手に三日後、二人で心中すればいいじゃないか!」
足音は軽やかに窓へ、窓へ。僕の声なんて無視して彼女は前へ進むばかり。それでも僕は問い続けることしか出来ない。
「本当は、止めてほしいんでしょう! ……助けてほしいんでしょう?」
彼女の手は窓枠を掴む。そして掴んだまま、窓を開けなかった。
「よく言うよ」
苦みを帯びた声が聞こえてきた。
「君はなんにも知らない。あたしの想いも、あの子の願いも……みんなみんな、君は蚊帳の外だ」
亜麻色の頭部が小さくうなだれ、華奢な肩がぶるりと震える。
「助けられるものなら、助けてごらんよ」
がら、と音を立てて窓が開いた。音草さんが身を躍らせると、あっという間に足音は遠ざかり、理科室に残されたのは僕一人になった。
昼休みが終わり、授業が過ぎて、放課後が訪れた。音草さんは宣言通り、昼休み以降、同じ教室に僕がいることさえ気づいていないように振舞った。授業が終わると早々に教室を出て行き、姿を消した。
一方、僕はぐずぐずと教室に残っている。この後、一体どこに行くべきか決めかねていた。
助けられるものなら、助けてごらんよ。音草さんは言った。どうせ出来まい、という風に。その言葉に反発して、否定するならば相応の場所に行かなければならない。音草さんの後を追うか、あるいは静江さんの元へ行くか……いずれにしても、二人のどちらかに接触を試みるべきだろう。
音草さんも静江さんも、確かに助けたい。どうすべきかは分かっている。音草さんが指摘した通り、僕は何もかも知らない。だから知らなければならない。一つでも多くの情報を彼女たちから引き出さなければならない。そう、頭では分かっているのだ。……でも、足が全く動こうとしないのだ。
行ったところでどうせ、拒絶されるんだろうな。……頭の中で嫌に冷めた部分が囁きかける。
――彼女らが死を選ぶというのなら選ばせればいい、僕には関係のないことだ……だって、僕はおとぎ話の登場人物ではないんだ。魔女でもなければ、聖者でもない。放っておけばいいさ。
終礼が終わっても、自分の席に腰を下ろしたままだった。何かをするわけでもなく、ただぼんやりとしていた。ふいに近づいてくる人の気配がして顔をあげた。
「杏里君、このあと空いてる? 付き合ってくれない?」
僕を見下ろしているのは、恵さんだった。
恵さんに連れられて、近所のファーストフード店に入った。道中も、それから席についても僕と恵さんの間で会話は弾まなかった。突然誘ってごめんね、だとか、段々暑くなってきたね、だとかそんなことをぽつぽつと話して終わる……まるで初対面の人と話をしているみたいだった。深く考えなくても、理由は分かる。
「いーくん……きっと、良くなってくれるよね?」
恵さんがぽつりとつぶやく。僕は少しだけ考えて、答えた。
「そうだね……」
きっと無理だと思うよ、とは言えなかった。
彼の記憶喪失は一般的な記憶喪失とは違う。壱原君は騎士で、魔女の静江さんに魂を食われた。体の傷が癒えるように、食われた魂が癒えることはないだろう。むしろ、記憶だけで済めばいい、と僕は思う。
父の身に起きたのは、こういうことだった。担任をしている児童の中に魔女がいた。何かのきっかけで目覚めた魔女はクラスメイトの魂を残さず食らった。そこに担任教師だった父が現れ、騎士として魔女を殺害する。しかし魔女の反撃により、魂を食われ全ての記憶を失った。これと同じことが昨日、壱原君の身に起こった。事件後に僕の父と同じように、彼が自ら死を選ばないとどうして言えるだろう?
僕は人間を食らう魔女の実在を信じていなかったし、おとぎ話はしょせんおとぎ話でしかないと思っていた。でも今は全て信じている。昨日の事件は、僕と顔も知らない父を繋ぐ不思議なおとぎ話がただのおとぎ話ではない、と信じるための最後の一押しとなった。
「ねえ、どうしていーくんはあんなことになったんだろうね?」
途切れた会話の合間に、恵さんは言う。まるで独り言を聞かせるかのように。
恵さんは昨日から何度も同じ問いを繰り返している。彼女は『人食い魔女の死』を知らず、壱原君の身を襲った悲劇の真実に近づけない。僕よりもずっと彼のことを考えているのに、彼女は僕よりも真実から遠ざけられている。不憫だ、と思う。
「どうして、だろうね……」
でも、真実を話そうとは思わない。話すべきではないと思う。おとぎ話の魔女が実在していて壱原君はその犠牲になった、なんて話を聞いて、恵さんはどう思うだろう? 信じてくれるとは思えないし、仮に信じてくれたとしても彼女にとっていい影響を及ぼすとは思えない。
「それよりさ、壱原君はしばらく病院暮らしみたいだからさ。退屈してると思うんだよね……だから、またお見舞いに行ってあげよう?」
当たり障りのないことしか、僕には言えない。話してあげたくても、恵さんには大事なことを何一つ言えない。今日の妙な気づまりした雰囲気は、恵さんがひどく傷ついているばかりではなくて、口が重い僕の方にも原因があった。多分彼女も直接言葉にせずとも、僕の言葉がひどく空虚だということに気付いているのだろう。
「ああ、そうだね……」
テーブルに視線を落としたまま、ため息のような声で恵さんは相槌を打った。
碌な会話もないまま、二十分後には僕らは席を立った。帰り道は途中まで一緒のはずだけれども、このまま僕と過ごすことに何ら意味を見いだせなかったに違いない。
「今日はありがとう。わたし、買い物して帰るから……ここで」
そう言って、疲れた笑みと共に彼女は去っていった。
恵さんと別れた後、やはり僕はなかなか歩き出せないでいた。どこへ行くべきなのかやはり分からなかった。
壱原君の見舞いにでも行くか? いや、会ったところで彼は何も覚えていないようだし、あの事件に関して情報を得られるとは到底思えない。いつかは行くけれども、今日行かなければいけないところではない。
静江さんたちに関しては、三日後、と期限を切られている。時間は無駄に出来ない。短い時間を有効活用するために、行くべきところに行かなければならない。何も行動しないで無為に時間を過ごすことに耐えられそうになかった。
音草さんが教室を出た後、どこに行ったのか見当がつかない。習い事を大量に抱えているらしいので、探し出すのは難しい。一方、静江さんは魔女として目覚めた後、人間の魂への食欲を抑えられないでいる……ということだし、多分自宅にいるのだろう。とりあえず、静江さんのところに行ってみるか。……決めたはいいが、すぐに問題にあたった。静江さんの住所を僕は知らないのだった。静江さんの住所を知っている知り合いに心当たりはなく、手早く調べる方法も思い当たらなかった。
夕川先生なら知っているか。仕方なく、やってきた道を辿って学校に戻った。先生がいなかったら誰に聞こう……と悩んでいるうちに、学校についた。
保健室につくと、夕川先生はいた。杞憂で済んでよかった……とほっとしていると、僕よりも先に先生が話しかけてきた。
「静江さんを探しているのかな?」
夕川先生は穏やかに微笑んでいる。だが、心臓が飛び上がったみたいにどきりとした。
「そうです……彼女、家にいると思うんですけど、住所を……」
「半端な覚悟で行くのはお勧めしないよ」
穏やかな微笑を一欠けらも変えずに先生は言う。
「彼女に食われてもいい、ぐらいに思ってもらわないとね」
一瞬聞こえてきた言葉が聞き間違いだと思って、そしてやはり間違いなかったことを確かめた。
「なるほど。……ご存じだったんですね、先生?」
壱原君と同じく、僕には『人食い魔女の死』を知っていることを隠していた……というより言わずに来たわけだ。
「そうだよ、安堂君。私は生まれたときから『人食い魔女の死』を知っていたし、静江さんが魔女だということも出会ったときから知っていた。……改めて自己紹介するね、私は王様の夕川優里」
本物の王族らしく、夕川先生は白衣の上から胸に手を当てて小さく頭を下げる。顔を上げると、にっこりと僕に微笑みかける。
「ところで、君は何者なのかな? 『名無しの誰かの』安堂君?」
皮肉まじりの言葉に、僕はゆるゆると首を振った。
「僕も知りたいです」
切実な答えを返すと、先生は肩をすくめた。
「場所を変えようか。放課後のクラブ活動時はけっこう、邪魔が入るから」
先生は「不在中、用があったら職員室へ」の札を下げ、屋上に上がった。王様として知る限りのことを全てを話してくれたが、昨日の事件を通して推測できたこととそう大きく隔たりはなかった。知らないことも多少あったが、驚くに値するほどのことはなかった。
「僕が何者か、というのは先生もご存じないんですね?」
「うん。皆目見当がつかないね」
先生は屈託なく答えた。
「魔女聖者騎士王様……『人食い魔女の死』に出てくる主要な登場人物はすべて出そろった。残っているのは家臣だとか兵隊だとか、物語の進行に大して必要のない端役だけ。そんな役柄の人物が意味ありげに役をもらうことはあるかな?」
夕暮れ時の明るい空を眩しがるように、夕川先生は目を細めた。
「勘でしかないけど、君は何か大事な役割を背負っているのだと私は思う。騎士よりも、王様よりも……ひょっとしたら聖者よりも」
そうかも、しれない。僕自身も、先生の言葉をことさら否定しようと思えなかった。
おとぎ話を知る者はみんな、登場人物の魂を受け継いでいる。そして、何らかの役割を持っている。魔女は人の魂を食らい、騎士は魔女に仮初の死を与え、聖者は魔女に食われることで魔女に永久の眠りにつかせ、王様は魔女の死を看取る。では、僕は? 自分が何者かも分からない、名もなき誰かの僕は一体どんな役割を持っているのだろう?
「でも、さっき先生が言ったとおりです。物語に重要な役割を果たしそうな登場人物は残っていませんよ?」
「まだ登場していないだけなのかもしれない」
僕の言葉を遮って、夕川先生が言った。
「君の正体が分からない、というのもそう考えれば辻褄は遭うよ。だって、まだ出てきていないのだから名前がないのも当然の話でしょう?」
夕川先生はいかにも教師らしい口ぶりで言った。
「物語ってさ、直接描かれていることだけが全てではないでしょう? とある一つのエピソードとして文章だったり絵だったりで語られていなくても、確実に存在しているような話ってあるじゃない。……ほら、よくあるでしょ? 作中には書かれていないけど、きっとこんな話があったんだろうな……って想像がつく話。読者に想像させる結末とかさ、登場人物の垣間見える過去とかさ……」
「ああ……そういう」
意図的に話をぼかしたり、端折ったりすることで読者の想像を刺激して、より奥深い物語に仕上げる……という手法はありふれている。秘すれば花、という言葉だってある。要するに、先生はこう言っているのだ。『人食い魔女の死』には、僕たちは知らない隠れた物語があるかもしれない。そして、配役不明の僕はそこに登場する人物で、何か重要な役割を果たすのかもしれない。
かもしれない、ばかりで、断定できることは一つもない。示されたのは単なる仮説で、証拠はない。でも、一筋の希望の光であることに違いはない。蜘蛛の糸ほど細いけれども、希望を託すものがあるだけずっといい。
「なるほど。僕にはこんな発想、絶対出て来ませんね。さすが、です」
素直に僕は感心した。すると、先生はなぜか小さく肩をすくめて苦々しく笑った。
「ずっと考えてたからね。君が保健室で静江さんと出会ってから……いや、もっと前……ぼんやりとしたアイデアだけなら学生の時から、かな」
「随分、前ですね」
思わぬ答えに驚いてしまう。
「そのころは、こんな呪いはおかしい、って思ってたからね」
先生はやはり苦笑しながら、頷いた。
「どうしてこんな理不尽な呪いに人間は苦しめられなければならないの? 運命だか神様だか知らないけど、こんな腐った仕組みを作ったやつは……とんでもない屑だ、許しがたいカス野郎だ。……そう思ってたよ」
おっとりとした先生らしくない言葉に、言った本人も照れくさそうにはにかんだ。
「あの頃はね、ほんとうに色んな事を考えた。あらゆる手を使って、魔女も聖者もみんな救える方法を探していたの。王様として、ただ魔女の死を看取ることに反発していた」
僕を見つめる目には、懐かしさがあった。遠く、若かりし頃の未熟な、けれども誇らしい頃を振り返る目だ。
「これはその時の遺産でしかないの」
そう言って、先生は微笑む。ありし日を誇り、すっかり変わってしまった現在のわが身を嘆いて。
僕はじっと、彼女の誇らしさと悲しさが入り混じった微笑を見上げていた。そして、考えていた。この人が呪いに立ち向かう熱意を失って、ただただ時が流れていくに任せるようになるまでに一体何があったのだろう、と気にかかった。
「直接描かれない物語、ってきっと……先生のいう遺産みたいなものを言うんでしょうね。かつてあったもの……そうたやすくは見えてこないもの」
結局、ぎこちない相槌を打つに留めた。その意図を先生も汲んだのだろう、何も言わずに穏やかに頷いた。それから、僕の肩をぽんと叩いた。
「こうなってはいけないよ。遺産を持つには……大事なものを過去に流してしまうには、君はまだ若すぎる」
教師としてではない。一人の大人として、夕川先生は僕に言っているのだ。
僕はじっと、先生の顔を見ていた。頭には寝ぐせがついているし、服装は地味で華やかさとは無縁。話によれば、年齢は三十代手前。僕の年齢からすれば倍以上の年齢なのだけれども、世間的にはまだ年寄り扱いするには早すぎる。
「先生も、まだ若いと思いますよ。大事なものがあるなら、流さないように頑張らなきゃいけない年頃では?」
冗談をいう時の口調で、でもいつになく真面目に言ってみる。先生は僕の反応に驚いているらしかった。軽く目を見張って、それから苦笑いをした。
「生意気なことを言うね、君は。……あと、まだ、は余計だからね?」
からかうように言って、先生は僕の肩から手をどけた。
夕川先生と別れて、空を見上げた頃には随分暗くなっていた。放置していた携帯には、連絡もなしに遅くまで帰ってこない僕を心配した母から着信が二件入っていた。いい加減、今日は帰るか。母に折り返し電話をしてから、家路についた。
夕川先生との話を思い返していた。
大事なことを過去に流すには、君は若すぎる。……先生は僕にそう言った。そうだろうな、と思う。だって、生きている限りは大事なことを過去に流すには早すぎるのだろうから。いくつであっても関係なんかないのだ。
僕にとって、大事なことって何だろう? ただ手をこまねいていて、振り返って後悔することと言えばなんだろう? 月が煌々と輝く夜空を見上げながら、考える。たくさんあるに違いない、と漠然と思っていた。でも、案外きちんと真面目に考え始めるとなかなかぴたりとあてはまるものがなくて、一つしか見つからなかった。
あの子は、僕の手紙を……小説家になったら教えてほしい、その時にはきっと絵を描いて送るからと約束したあの手紙をどんな想いで読んだのだろう? 僕は知りたい一心で、その返事がほしくて、コンクールに『人食い魔女の死』のシーンを流用したし、物語を知る人たちに近づこうとした。けれども、僕の小さな努力は何の実も結ばなかった。
昨日、何も語らなかったのは、心の奥底から憎んでいたからだろうか? 直接、顔を合わせたとき、本当のことを語らなかったのは、やはり嫌われていたからだろうか? 小五の時、返事がなかった、ということは拒絶されていたからだろうか? 僕の願ったことは、どうしても彼女には受け入れがたいものだったのだろうか?
きっと違うだろう、と僕は思っている。本当はそうじゃなくて、彼女は僕を拒絶なんかしていないし、願いを受け入れているのだ、と思っている。何の根拠もないのに、積みあがっていくのは反証ばかりなのに、確信している。……だって交流が途切れる前にはそんな素振り、微塵もなかったじゃないか。いつも同じ時間に律儀に返事をくれて、そもそも小説家になりたい、と言い出したのは君で、僕はただ……。
ふっと体が、奥底から熱くなってくる。蘇った懐かしい感覚を恐れ、振り払うように首を大きく振った。
これ以上、昔を振り返っても苦しくなるだけ。もう十分、苦しんだじゃないか。夏が終わって、秋が過ぎて……それでも小学校五年生の僕は夏に受けた傷の痛みに呻いていた。
だって、僕にとって夏に交わした手紙は、たった一つの生きる希望だった。人殺しの父との忌まわしい絆を否定してくれる唯一の縁で、手紙の向こうにいる女の子は、一人ぼっちの僕を理解してくれるかけがえのない存在だった。
手紙越しじゃなくて、君の目を見て、君の声を聞いて、本当に君がこの世に存在することを確かめたかった。僕はずっと、君に会いたかったんだ。会いたくて、たまらなかったんだ。……なのに、再び出会った君は。
抑えようとしたけれども、無駄だった。体の奥底から湧き上がる熱は、とめどなく溢れてくる。鍵を掛けたはずの記憶が奔流となって瞼の裏を流れ、嵐のように駆け抜けていく。
立ち止まって、僕は目頭を押さえる。瞼の裏で液体があふれ出ようとする嫌な感触をじっと堪えている。……まったく勘弁してくれよ、と笑いたくなる。母さんはこういうことにはとても敏感なのだ。痕跡を顔に残して家に戻ると、ひどく心配する。すぐに帰ると言ったのにこれじゃあ帰れないじゃないか。
鞄を探って、ハンカチとティッシュを見つけ出すことには成功した。けれども、目薬は見つけられなかった。しまった、と後悔した。去年から鞄に忍ばせつつも、未開封の新品を音草さんにあげてしまった。もう使わないだろう、と思って買い足さなかったのだけれども、まさかもう必要になるなんて。
がっくりと肩を落として、ため息をつく。どうしようもないのでハンカチで目元をぬぐって、ティッシュで鼻をかんで、立ち上がる。
過去を流してはいけない、と先生の言葉をもう一度頭の中で繰り返す。涙を流すこともこれで最後、と自分でもう一つ付け加えておく。
顔を見られないうちに、帰って速攻風呂に入って誤魔化した。夕食の場で母と顔を合わせたけど、特になにも言われなかった。
自室に戻ると、普段の癖で学習机に座る。でも座ったはいいけれど、何をするわけでもなく、電球の明かりをぼんやりと眺めている。だいたいの日は、食後から夜寝るまでほとんど絵を描いて過ごす。絵を描くのが好きだから、というわけではない。朝起きて顔を洗って歯を磨くように、夜眠る前に絵を描く。単にそれだけのこと。ずっと前から僕はそうしていた。ただ、今日はどうも気乗りしない。スケッチブックを開いて、鉛筆を握ったところでどうせ捗らないだろう。
何かすることはないかな、と思って部屋を見渡す。目に留まったのは、部屋の隅の小さな本棚。漫画や絵本、画集やデッサン集とは棚を分けて小説を並べてある。数はさほどでもない、読書家を名乗るにはかなり不足している。でも時々買いたくなって、年を追うごとに少しずつ増えている。
絵本はちょくちょく手に取っていたけれど、文字の本なんて昔は読んでいなかった。学校の読書の時間が苦痛で、夏休みの読書感想文の宿題は最後まで手が付けられなかった。けど、僕は変わった。……そう、小学校五年生の夏。同い年のくせにやたらと文章がうまい女の子から、文章が上手くなるには本を読むのがいい、と教わったのがきっかけだった。
ちょっとはましになっただろうか? 小学校低学年に間違えられる文章から、多少はうまくなっただろうか? 確かに国語の成績は目に見えて上がったし、先生から作文を褒められるようになった。けど、なんとなく他人事のようにしか思えず、進歩したとは思えないのだ。一番、見てもらいたい人は国語の教師ではないから、だろうな。
そこで、閃いた。……そうだ、手紙を書こう。夕川先生は生半可な覚悟で行くのは勧めない、と言っていたけど、手紙ならどうだろう? 僕に覚悟が備わっているか、正直なところ自信がない。なら直接会いにいくのはやめておいて、文章にしたためてポストに入れるのはどうだろう?
悪くないアイデアだ、と思った。すぐに机に向き直って、ボールペンを取り出す。便箋はどこにやっただろう? いい加減、破ったノートの切れ端では悪いと思ってあの夏の終わりに買ったのだけれど……机の引き出しを忙しく引っ掻き回しているときだった。
こんこん、と窓が叩かれる音がした。ドアじゃなくて、窓? 変なところから音が聞こえたものだ。マンションの一階に住んでいるので物理的に不可能ではないけれど、なぜそんなところから? ひょっとして泥棒? いや泥棒は入る前に窓なんか叩かないだろうし……警戒しつつも立ち上がって、窓のカーテンを引いた。
窓の外にいたのは、よく見知った顔……壱原君が立っていた。
「突然、どうしたの? ……病院は?」
窓を開けて、壱原君に尋ねる。期間は定まっていないが、しばらく入院するという話だったはずだ。
「抜け出してきた。悪いけど、内緒にしてくれる?」
僕の声に咎めるような響きを聞き取ったのか、彼は緊張した様子で言った。
「うん……まあ、分かった。上がって」
窓を全開にすると、壱原君はほっとして強ばった頬を緩めた。
「ありがとう。やっぱり、安堂君は優しいね」
彼はにっこりと微笑んだ。まだどんな穢れにも侵されていない純粋な笑みは、派手に染めた髪とそれに見合った服装にそぐわない。やっぱり、僕の知っていた壱原君はもういなくなってしまったんだな、と改めて思う。
「お茶でも持ってくるからさ。ちょっと待っててね」
生まれたての赤ん坊のような彼を、このまま放り出すわけにはいかない。帰りは病院まで送っていこう、と心に決めた。
隠し通せるはずがないので、居間にいた母に事情を話した。壱原君の両親に落ち着いた調子で電話をかけ始める母を尻目に、お茶とお菓子を盆にのせて自室に戻った。
部屋に戻ると、壱原君はきちんと足を揃えて座りながら、僕の部屋を興味深そうに見まわしていた。ドアを開けて、戻ってきたことに気付いた瞬間に慌てて居住まいを正した。
「いいよ、楽にしてて。そんな窮屈そうにしなくてもいいから」
言われたところで、壱原君の態度は変わらない。「いやいや、お気遣いなく……」すっかり縮こまって、正座しているし、持ってきたお茶とお菓子に手を触れようともしない。
押しかけてきた割に、壱原君はなかなか自分から話そうとしなかった。彼の緊張は手に取るように分かった。この様子では僕の方から話しかけたほうが早い。
「よく、ここまで来れたね。病院から遠かったでしょ?」
「なんとか迷わずに済んでびっくりしてる。……携帯がなかったら、来れなかったな」
彼のズボンのポケットから携帯がのぞいている。僕の住所をメールの履歴で調べて、地図に頼りながら来たのだろうな、と推測する。記憶が残っていたら、距離はあっても通いなれたこの家には楽に来れるはずだ。
「次からはこんなことしちゃだめだよ。病院は勝手に抜け出しちゃだめだし、真夜中に出歩くのもだめ」
「うん、しないよ。これで最後にする」
生真面目に壱原君が答える。記憶を失う前にはほぼ毎日のように夜間の外出を繰り返していたけれど、今の彼には危険すぎる。よく言って聞かせなければ。
「そうだよ、ご両親が心配するからね」
使い古された、ごくありきたりな言葉を何気なく口にした。僕にとってはその程度の意味合いしかなかったのだけれども、壱原君にとっては違ったらしい。急に、表情が曇った。
「あの人たちが心配しているのは、俺じゃないよ」
彼はそう言って、自分の胸に手を触れた。
「この体だよ。……この体に帰ってくるべき人だよ」
寂しげな微笑が浮かぶ。ここに同年代の女子たちがいたら、たちまち彼の憂いに満ちた横顔の虜になっただろう。同性の僕から見ても、はっとするほど惹きつけられる表情だった。
ああ、彼が訪ねてきた用件はこれだな。問いかけずとも、察した。案の定、話の糸口が掴めたところで、彼は堰を切ったように話し始めた。
彼の説明を要約すると、こういうことだ。……両親は、記憶のない壱原君を表立って責めたりはしない。過去を思い出すよう、強要することもない。ひたすら彼の体調を気遣い、足りないものがあるならなんでも持ってくると優しく言う。しかし、言葉と行動に出していなくても、彼らは暗にこう言っている。十四年間の人生を思い出してほしい、昨日までの壱原元に帰ってきてほしい。今日、ここにいる壱原元なんていらない……と。
「彼らが言うことは正しいと思うんだ。俺は全てを思い出して、元に戻らなきゃいけない。彼に体を返してあげなくちゃいけない……ここにいる俺は消えるべき存在なんだ」
壱原君は力なくうなだれた。
「いや、あの人たちだけじゃない。みんな、だ。壱原元を知る人たちは全員、彼の復活を願っていて、この俺が消え去ることを望んでいる」
彼はうなだれた首をわずかに持ち上げ、こぼれた前髪を掻きあげながら僕の目を見た。
「これは君にしか頼めないことだと思うんだ。……壱原元がどんな人物だったか、教えてほしい。できる限り、詳しく」
僕の目を射貫く視線の強さは、かつての彼を彷彿とさせた。否、という選択肢は僕にはない。
「僕が知る限りで、よければ」
いくら聞いても君はあの壱原元にはなれないよ、とは言えなかった。
どこから話をしたものか、と悩みながらも、思いつくままに壱原元について語った。まず彼の破天荒な性格について、荒々しい言葉遣いについて、学校内での地位について、そして僕が知る彼が関わる思い出について。目の前の彼は、熱心に僕の話に耳を傾けて相槌を打つ。メモこそ取っていないが、壱原元の情報を記憶に刻み付けるように聞いているのだろう。
「じゃ、あんど……いや、杏里とはどういう間柄? 友達? 単なるクラスメイト? それとも親友?」
昨日までは僕のことは呼び捨てだった、と告げると彼は途端に呼称を変えた。丁寧な口調もつっかえながらも荒々しい口調に置き換わっていく。
僕と壱原君の間柄、か。正面から聞かれると、案外迷う質問だった。単なるクラスメイト、ではないと思うのは確かだ。僕は少し悩んでから答えた。
「憧れの人、ではあるね。僕と正反対の人で、僕にはないものをたくさん持っていた。彼みたいになれたらな、ってよく思ってたよ。……でも、友達だったね。僕にとってはたった一人の、対等な友達だったよ」
「え、憧れの人? 対等な友達? どっちなの?」
形を整えた細い眉を寄せて、壱原君が唸る。どうやら彼の中では、憧れの人と対等な友達、という単語が上手く結びつかないのだろう。
「正しいことは正しい、間違っていることは間違っている、そう力強く言える強さはとても羨ましかったよ。でもね、僕は彼の強いところだけを知っているってわけじゃないのさ。……彼の弱いところも、情けないところも知っているんだよ」
「弱さって、具体的にはどういう?」
壱原君は、すかさず尋ね返してきた。ああ、それはね……と声が喉まで出かかったところで、はたと気づいた。その話をしようとしたら、避けてきたあの話をしなければいけないじゃないか。慌てて僕は別の話にすり替えた。
「何事につけても子供っぽいんだ。野菜は全部嫌いだし、怪獣映画で大はしゃぎするし、僕の部屋のベッドで飛び跳ねて遊びだしたときはもう、この人いくつなんだろうって……」
かつての壱原君の間抜けでおかしな一面をあげつらって、笑う。内心では話をすり替えたことがバレていないかひやひやしながら、目の前の壱原君の様子をうかがっている。……ちら、と確認すると、彼は口元を抑えてくすくす笑っている。
「なんだよ、それ。かっこわる。なんなの、前の俺って相当の馬鹿なの? や、髪とか服とか見てうすうす感じてはいたけどさ……?」
僕の隠し事に気付いた様子は感じられなかった。素直に僕の話を笑ってくれているようだ。……よかった、よかった。笑うふりをつづけながら、心の中だけでつぶやいた。
僕と壱原君の笑い声は、そう長くは続かなかった。笑い声の残滓が空気の中に紛れて、もう追いかけられなくなったとき、壱原君は息を吐いた。……さも、苛立たしげに。
「それで、杏里。……全然話そうとしないあの子のことについて、そろそろ教えてくれる?」
避けてきたあの話。彼はその存在にとっくに気付いていたのだった。
そりゃ、そうか。少し冷静になって考えてみれば、すぐに合点がいくことだ。彼は昨日、彼女に会っている。何の説明もなければ、不審に思うのは当然だろう。それに、もっと早く気付いておくべきことがあった。
昨日、目覚めたばかりの壱原君は、ぼく、と言っていた。しかし、今日は最初から、俺、と言っていた。なぜか? かつての壱原君の真似をしたのだ。僕はまだその時点で何も語っていないし、彼の両親は過去のことにあまり触れなかったみたいだから、情報源はまた別だ。答えはすでに僕の目に映っていた。過去にやり取りしたメールを開けば、僕の分だけではなくて、当然彼女の分まであっただろう。それから、メールだけじゃなくて写真もあったはずだ。
「昨日、杏里の後ろにいた女の子……あの子が恵美鈴……壱原元の彼女なんでしょ?」
「そうだよ」
もう誤魔化しようがない。僕は苦い声で肯定した。
「彼女の態度を気に病む必要はない。昨日の事件はあまりにも唐突すぎたんだ。彼女も……君も、まだ整理がついていないだけだよ」
「慰めなんていらない」
壱原君は乾いた声で笑った。昨日、彼は生まれたばかりなのに、もう何年と生きて疲れ切ったような声だった。
「ありがとうね、安堂君。やっぱり、繰り返しになるけど君は優しいよ。ぼくを傷つけまいと、わざと言わなかったんだね。このぼくを……壱原元のなりそこないを」
取り繕っていた口調があっさりと崩れて、元に戻る。かつての壱原元のふりをするのに疲れて、彼は彼自身の話し方に戻ってしまった。
できる限り触れたくなかった。だって、彼女の話は壱原君を傷つけることにしか繋がらないから。目覚めた壱原君に話しかけようともせず、見舞いに行こうと誘っても上の空の彼女は、今の壱原君を受け入れようとしていない。かつての壱原君の帰りを待ちわびている。今、生きている壱原君を壱原君だとは認めまいとしている。
いずれは話さなければならないことだっただろう。でも、今すぐ話すべきことだとは思えなかった。もっと余裕が出来てから、かつての壱原君が過去に流れて行ってからでいいと思ったのだ。あの壱原元の皮を被らなければ、生きていくことさえ許されていないと思い込んでいる彼にはまだ早すぎた。
話をしているうちに崩していた足を、壱原君はきちんと揃えて体育座りをする。そして、立てた膝がしらに額を埋めた。
「誰なんだよ、誰なんだよ……壱原元って、一体どこの誰なんだよ……?」
膝を抱く腕が震えている。つぶやく声は苦しみに満ちている。
こういうとき、友達として何をしてあげるのが正解なのだろう? 静かに肩を震わせる彼を遠巻きに眺めるのではなく、何かしてあげたいのだけれども、何も浮かばない。慰めの言葉はさっき拒絶されたし、もう一度繰り返すことに意味はないと思う。これは壱原君自身の戦いなのだ。僕に手助けできることなんて、あるのだろうか?
やはり、そっとしておくしかないのだろうか? 壱原君の正面に座っていたけれども、腰をあげる。……席を少し外そう。やることなんてない、そう思って腰を浮かせた。そう、その瞬間だった。思い出したのだ。
――いつでもいい、どこでもいい。それにあんたが何をしたってかまわない。ずっと一緒にいてあげる。絶対、私はあんたを見捨てない。
公園で盗み聞きした声だった。己を曝け出して黙り込んだ音草乙葉に掛けた、彼女の声。
浮かした腰がすとんと床に落ちた。それから、足を揃える。揃えた足を腕で抑える。首を立てたまま、膝がしらに頭を載せる。そして、彼を見る。うなだれていることを除けばおそろいの格好をしている彼をじっと見る。
友達にできることは、たった一つ。傍にいてあげること、彼が話を始めたら、きちんと耳を傾けてあげること。彼女に教えられて、僕はここにいる。
壱原君の嗚咽が聞こえる。僕は黙って座っている。置物にだってできることだけれど、僕がやらなきゃ意味がない。僕にとって壱原君はたった一人の友達だったけれども、彼もそうなのだ。
どれほど時間が経ったのか、よく分からない。部屋に潮騒のように響いていた壱原君の声は、いつの間にか止んでいた。わずかにあげた顔からは真っ赤に腫らした目が見えた。こりゃ目薬どころではどうしようもない。
「ひどい顔してるよ。どんなに元がよかろうと、そこまで泣いたら形無しだ」
「泣くまでもなく、安堂君は形無しだけど」
ぼそ、と低い声で壱原君が言う。ひどい顔して、ひどいことを言ってくれる。そもそも嫌味の言い方を生まれたてのくせにどこで教わってきたのやら。……べえ、と舌を突き出して見せる。
「残念でした。僕も今日泣いちゃったよ。だから形無しなのは、元が悪いわけじゃない」
「え、マジで? それじゃあ、君は相当……ぼくよりよっぽどひどく泣いたんだな?」
腫れた目を見張って、壱原君が言う。口調は前より丁寧だけど、口の悪さはあんまり変わってないな。僕は肩をすくめる。
「まあね。……好きな女の子に拒絶されて、泣かない男がいるかよ?」
家路につくまでの間のことが頭をよぎる。それだけで、もう瞼の裏が熱くなってくる。なんとか笑ってみせたけど、ちょっとした衝撃で今にも割れて砕け散ってしまいそうなぐらい、もろい。
突然、壱原君が黙り込んでしまった。甲羅の中に引きこもった亀みたいに、無表情にじっとしている。まさか、顔に似合わない格好つけた台詞吐きやがって……とでも気味悪がっているのだろうか? ちょっと怖くなって、僕もつられて黙り込んでしまった。沈黙の時間があって、破ったのは壱原君だった。
「なあんだ、一緒か。安堂君も……ぼくと一緒だったんだ」
はあ、と壱原君は深々と息を吐いた。
「どうして、彼女らはそんなひどいことをするんだろうね? ぼくたちはとても……それはとても傷つきやすくて、もろい生物だっていうのにさ、少しぐらいいたわってほしいよね……?」
気落ちした様子で、再び膝小僧に顔を埋めている。もう顔を上げる元気も残っていない様子だった。僕はきょとんとして、それから苦笑した。
「全くだね」
彼の言葉には同感だった。僕たちは必死になって彼女らのことを求めているのに、あるいは傷つけまいと頑張っているのに全然分かってくれない。そう、だからとても腹立たしいし、苦しい。けど、それでも離れたいとか、捨ててしまいたいとは思わないし、思えない。
僕は目を閉じる。もう目の前にいる壱原君から、少しぐらい目を離しても大丈夫だと思ったから。そして呼びかける。今はいなくなってしまった、あの壱原君に呼びかける。
――大丈夫。君は生きてるよ。……だって彼はやっぱり、君なんだよ。裏切られても、傷つけられても、彼女から離れられないんだから……。
届いているかは分からない。それでも、言わずにはいられない。ただ一人の友達に。
僕も壱原君も床で寝入りこんでしまい、二人そろって母に起されてしまった。いい加減、夜も遅くなったので、壱原君は泊っていくことになった。僕のベッドの下に布団を敷いて潜り込むと、ほとんど間をおかずに健やかな寝息が聞こえてきた。病院から歩いてきたし、散々泣きじゃくったのもあるだろう。彼にはほとほと疲れる日だっただろう。
だが、僕にとって今日はまだ終わっていない。ベッドに横たわって目を瞑っている。それでも、眠気は一向に訪れる気配がない。
結局、便箋は見つからなかった。もういいか、と思った。手紙はもう何度も交わしたじゃないか。食われようが、なんだろうが、とにかく会いに行こう。あのわからずやには一度、言って聞かせないといけない。
そう、明日だ。明日、彼女に会いに行こう。いつか、じゃ遅すぎる。でも、今すぐというのは早すぎる。まずはゆっくり考えよう。彼女に何を言うべきか、どうすればいいか、もう一度整理してみよう。
最初に思い付いたのは、早まるな、ということ。まだ人としての生を諦めるには早いんだ、と伝える。魔女の呪いを解く術があるかもしれない。諦めるのは手を尽くしてからでいいじゃないか、三日後じゃなくて、本当に手遅れになる前まで待ってくれたっていいんじゃないか?
ただ、これは僕の一方的な意見だ。僕は言うだけで済むけれど、実際に行動するのは彼女だ。逃げることなど許されず、化け物になってしまった己と向き合い、それでも生き抜く辛さと戦わなければならないのは彼女なのだ。
特に彼女は既に壱原君を食らっている。命こそ落としていないが、彼の魂の一部を食らい、記憶を奪ったことは事実。犠牲者を出した、と彼女は深く後悔しているかもしれない。もう自分は引き返せないところまで来てしまった、と思っているかもしれない。
だから、次に伝えることは、壱原君の無事を伝えることだ。彼はちゃんと生きている。確かに記憶を失った、でもそれだけだ。命は落とさずにいるから、やり直しができる。時間が経てば、彼の傷は癒える。取り返しのつかない犠牲ではない。
後は何を伝えるべきだろう……と考えて、出てきたのは一つだけだった。どうか僕を信じてくれ。僕が君の呪いをなんとかして解いてみせるから。
言いたいことは決まった。手元の目覚まし時計を見ると、考え始めてから大して時間は進んでいなかった。どれほど悩むだろうと思っていたけれど、終わってから振り返ってみれば、簡単なことだった。
伝えたいことがさらりと出てきたのは、今このベッドの中だけで考えたことではないからだろう。これまでの出来事全ての中で、少しずつ考えてきたことだからだろう。記憶をなくした壱原君に、運命に抗おうとした過去を語った夕川先生に、壱原君を探し求める恵さんに、真実を伝えに来た音草さんに……彼らと話をしてきて、ようやく次に会う人を決めた。あの子に……僕はどうしても伝えたいことがあるのだ。
やるべきことを終えたせいか、明瞭だった意識が急に霞がかってくる。今日はもう、ここまでにしよう。休んで明日に備えよう。夜の闇に溶けていくように、眠りが訪れようとしていた。眠りに落ちきる寸前に、ドアの蝶番がきいと音を立てた。
何事、と閉じた瞼を開ける。ドアの隙間から廊下の光が差し込み、部屋に満ちた暗闇を鋭く切り取る。
「杏里。ここに来てるのは、壱原君だけよね?」
母の声が聞こえた。眠っている壱原君にはばかるように、小さな声だった。
「そうだよ。……どうしたの?」
僕もまた、声をひそめて聞き返す。母は一瞬黙って、それから口を開いた。
「担任の先生から電話。杏里、恵さんって子と一緒に教室を出ていったでしょう? 彼女、行方不明らしいんだけど……何か知らないか、って」
恵さんが行方不明? 何で、突然? 脳裏を疑問が埋め尽くす。
突如、携帯が鳴り始めた。僕の携帯だった。まさかと思って手に取ると、電話の着信画面だった。表示されている名前は――恵美鈴ではない。音草乙葉の名前だった。
思わぬ名前に、ど動揺しつつも、通話開始のボタンを押す。通話が繋がると同時に、電話口の相手に呼びかけようとして、先を越された。電話口から声がした。
「あなたが犯人でしょう?」
携帯からやや距離を感じる。氷のように冷たい声は、すぐに誰と判別できなかった。
「ならば、語りなさい。……音草乙葉をわたしに殺されたくなければ、お前は真実を語らなければならない」
声が一度、ぷつりと糸が途切れたように途切れる。
「静江寧。彼を……あの人を殺したお前を、わたしは絶対に許さない」
ここまで聞いて、恵美鈴の声、とようやく判別がついた。
一人の少女が、正面に立っています。静江寧という名の同級生です。わたしは今、この女の家の散らかったリビングにやってきて、目の前の女と向かい合っています。
わたしの足元には音草乙葉が転がっています。喋れないように口に布をかませて、両手両足を縛った状態で死んだ芋虫のように身動きしないで横たわっています。この女の塾の帰り道に襲い掛かって、ここまで連れてくるのは大変でした。そのうなじに家から持ち出してきた包丁を突き付けてやりながら、目の前の女に言います。
「わたし、昨日、何が起こったか、さっぱりなのよ。目の前で起こっていたことだけど、全然分からなかった。突然、彼があんたに掴みかかって、それから音草乙葉が現れて、そっちに標的が移って……わたしはもう、怖くて怖くて。わけわかんない、って顔して腰を抜かすことしかできなかった」
目の前の女は顔色一つ変えません。まるで人形みたいにだんまりを決め込んでいて、ぴくりとも動きません。こいつに罪悪感はあるのでしょうか? 人を一人殺しているのに、ほんとうに人間なのでしょうか? ……いいえ、構いやしません。わたしは先を続けます。
「わたし、あのときのこと、何もかも分かんなかった。でもね、一個だけ分かった。お前が彼を止めようと取りすがって、それから……急に離れて、口を開いて……がぶり。そして、彼は……ぱたり。……あっ、こいつだ、って思ったわ。彼を殺したのはお前だ、ってことだけ、わたしには分かった」
わたしには、という言葉に力を入れました。それから、じろ、と足元に転がる音草乙葉を睨みます。
「わたし以外の人間には、何があったか、理解できたみたいだけどね」
この家に乗り込む前に、音草乙葉には包丁を突き付けながら問い詰めました。あの場でいったい何があったのか、説明しろと。ですが、奴は答えませんでした。にやっと腹黒く笑って、こう言っただけです。
「恵美鈴、君は部外者なんだ。知る必要は欠片もない」
その場で刺し殺すところでした。包丁を持っていない手で引っぱたいた程度で済ませた自分を褒めてあげたいです。
止めに入った音草乙葉だけでなく、全てが終わった後に現れた安堂杏里も許せません。今日の帰り、ファーストフード店での彼とのやりとりはとても不愉快でした。いかにも口が重たそうで、お前には事の真相を絶対に打ち明けてやるものか、という態度でしたから。役立たずのウジ虫です。顔を合わせている間、死ね、と心の中でずっと念じていました。
どいつもこいつも、まともなやつがいません。わたしは怒っています。彼が死んだというのに、みんな冷たすぎます。彼が死んだ理由をきちんと明らかにして、その死を悼むのが人としての正しい行いではありませんか? だというのに、真実を知っている奴らは誰一人として語ろうとしないのです。
まあ、音草乙葉の態度はいいでしょう。あいつの性根が腐っているのはよく分かってますし、彼の死を大して悲しまないのも、仕方ないことでしょう。あいつにまともな神経を要求したって、ただむなしいことです。
おかしいのは、安堂杏里です。だって、音草乙葉と違って彼の友達なのです。友達が友達の死を悲しまない、ということがありましょうか? あいつは全然、彼の死を悲しんでいません。だから、ほんとうは友達なんかじゃなかったのです。そのふりをしていただけなんです。恥知らず、死んで罪を償え!
彼の死を悲しんでいるのは、わたしだけです。わたしだけが、彼を正しく悼んでいるのです。
わたしだけが、彼を愛していたのです。彼の優しさと強さを知り、尊んでいるのはわたしだけだったのです。
彼と付き合い始めたのは、去年の年末ごろのことです。声を掛けたのはわたしの方からでした。背も高くてしなやかな体つきで、しかも顔も綺麗な男の子。校内では札付きの不良と恐れられ、暴力沙汰も頻繁に起こしています。見た目はいいし、たまには不良というのも刺激があっておもしろい。そう思って色々と誘ってみたのですが、さほど手間も時間もかからないうちに彼の方から告白させることが出来ました。
わたしは彼に刺激を期待していたのです。きっと誰もが恐れる彼なら、暴力的で支配的な振る舞いで楽しませてくれると思っていたのです。ですが、期待外れでした。何を考えているか分からない問題児、と同級生たちは評価していましたけれど、わたしに言わせれば思春期にありがちな初心な男の子でしかありませんでした。たちまち、わたしは彼に飽きてしまいました。だって彼みたいな男の子は今まで掃いて捨てるほどにいましたから。彼との関係をどうやって切ろうか考えているうちに、ちょうどいい次のターゲットを見つけたのでついつい手を出してしまいました。大丈夫大丈夫、よっぽど運が悪くなければバレやしないだろう、と思っていました。
そう、わたしはよっぽど運が悪かったのです。ターゲットと腕を組んで歩いているときに、あの人に見られたのです。横断歩道を待っているときに、対抗する人の群れの中に彼を見つけてしまいました。かちり、と目が合いました。わたしと彼との間にはずいぶん距離がありました。表情を見分けられるほど近くありませんでした。でも、確信しました。あの姿は間違いなく彼で、わたしの方を見て途端にぴたりと動きを止めたのです。
全身に冷や水を掛けられたような寒気が走りました。殺される、と冗談抜きに思いました。信号が青に変わっても、わたしは歩けませんでした。何も気づいていない様子のターゲットに腕を引かれて、半ば引きずられるようにして横断歩道を渡りました。渡り切って、まだ命があることにわたしは驚いてしまいました。しばらくしてから後ろを振り返りましたが、彼の姿はありませんでした。
その後、わたしは恐ろしくなってターゲットとのデートをさっさと切り上げて家に帰りました。今付き合っている相手が誰だったか、どんな人だったか思い出して、自分の行動の愚かさをひたすら悔いていたのです。
彼は……壱原元は、確かにわたしの前では平凡な男の子でした。例えば、初めて手を繋いだとき、とても照れくさそうにこわごわとわたしの手を握ったことだったり、告白の時は目を逸らしながら、おまけにしどろもどろになって告げて来たり……不器用な人、といっても良かったでしょう。わたしと二人でいるとき、彼はとても優しかったのです。好意を向ける女の子に対して他の多くの男の子たちと同じように振舞いました。
けれども、普段の彼は違います。わたしと二人でいるとき以外の彼は、噂通りの人でした。学校の規則や周囲の目、なんてあってないようなものです。彼は正しいと思うことだけを行い、正しいと思わないものを憎みました。そして憎んだものに対しては、まったく容赦しませんでした。
安堂杏里とその周囲に対する仕打ちを思い返せば、彼の苛烈さがよく分かります。彼は哀れな安堂杏里に対しては極めて同情的で気を配っていたようでしたが、その敵対者に対しては慈悲の欠片もありません。安堂杏里に手を出そうとする彼らの前に立ちはだかり、制裁を加えてきました。
その矛先がわたしに向くかもしれない。純粋な彼の気持ちを裏切った悪女がどうして彼の制裁の対象にならないと言えるのでしょう? 安堂杏里に手を出した連中より、なぜ軽い復讐で済むと思えるでしょう? わたしは脅えました。壱原元を恐れました。こんな危険な男にちょっかいを掛けるなんて馬鹿な真似をしなければ、と軽率な自分の行為を深く悔いたのです。
次の日、学校に行くのがとても怖かったのです。彼の姿にびくびくと怯えながら、その日を過ごしていました。幸いクラスは違っていたので、全ての授業が終わるまで彼と顔を合わせる機会はありませんでした。ですが、放課後に教室を出たところで会ってしまいました。彼がわたしの教室の前に立っていたのです。
彼の姿を見るなり、わたしは凍り付いてしまいました。一緒に帰ろうなんて約束はしていません。彼はわざわざ、わたしを待ち伏せていたのです。ただでは済まないでしょう、安堂杏里の他人事にさえあれほど苛烈に振舞う彼ですから、ましてや彼自身の純情な想いを踏みにじったわたしに対しては……首を絞められる? あるいは窓から突き落とされる? それとも、ポケットから取り出したナイフで刺される? いずれにせよ、無事では済まないでしょう。
わたしを見つけた彼はゆっくりと近づいてきました。わたしはまるで死神を前にしたかのように、恐怖で立ちすくみました。彼が手を伸ばしたとき、もうだめだ、と思ってぎゅっと目を瞑りました。殺したければ殺せばいい、と内心で叫びました。そのとき、彼の手が私の手首を掴みました。
「よう、美鈴。今日は一緒に帰ろうぜ」
真綿を掴むような、柔らかな手つきでした。
振り払うことは容易でした。逃げ出すことは難しくなかったでしょう。でも、わたしはそうしませんでした。彼の柔らかい手つきに、少し緊張した様子の声に、なぜだか捕らえられて動けなかったのです。
彼と一緒に通学路を歩きました。普段なら私の方から彼に腕を絡めるのですが、その日は違いました。彼の方からわたしの手を取り、そして握りしめていました。もう二度と離すまい、とするかのように。
彼は一言も前日のわたしの行動について話しませんでした。これまでのように、テレビの話題やクラスの話など刺激の少ない当たり障りのない話ばかりをして、何事も起きないうちに分かれ道に差し掛かりました。彼は名残おしそうにわたしの手を離しました。
「昨日、いーくんは……」
わたしは思わず、言いかけてしまいました。ですが、最後まで言えませんでした。
「俺は、何も見ていない」
強い口調で、彼が遮ったからです。
嘘だ、と言い返すことは簡単だったでしょう。本当は見たんでしょう、と詰め寄ることも出来たでしょう。けど、わたしは何もしませんでした。黙って、彼の遠ざかっていく後姿を見送っていました。出会ったときから、彼は背が高かったと思います。でも、最近また伸びたのかな……そんなことを思いました。
それから、です。わたしが、彼以外の男の子たちとの関係を断ち切って、本当の意味で彼と付き合い始めたのです。もう彼を二度と裏切るまい、と決めたのは。彼を最期まで愛しよう、と誓ったのは。
「なるほどね。あんたの目的はただ一つ。事件の真相を知りたいわけだ」
今まで黙り込んでいた静江寧が口を開きました。鋼のように硬く、冷たい声でした。
「そうよ」
まるで石像が突然話し始めたようで、わたしは驚きが声に出るのを隠せませんでした。
「それで、警察に事情を話すの。あんたが彼を殺したって証言と証拠を揃えて捕まえてもらう。それで罪を償わせる」
驚きを押し殺しながら、わたしは言いました。
「そのときはわたしも道連れだけどね。こんなもの、持ち出してしまったから」
ちら、と右手に握った包丁に目をやりました。覚悟の上でわたしはここまでやってきたのです。
静江寧はわたしの言葉など気に留めた様子はまるでありません。つかつかと歩き出して、リビングに並んだ本棚からファイルを一つ取り出しました。
「いいわよ。知りたきゃいくらでも教えてあげるわよ」
ばさ、と音を立てて、静江寧が投げたクリアファイルがわたしの足元に落ちました。中には何やら紙束が入っているようです。
「それは『人食い魔女の死』という物語。ただのおとぎ話じゃない。人々の中で何世代と引き継がれた、現実に存在する呪いなのよ」
静江寧は顔色一つ変えず、眉一つ動かさずに言いました。
「……は?」
何を突然言い出すのだろう、と思いました。おとぎ話? 呪い? それが今、どうしてこの場で話す必要が? わたしの困惑を静江寧はやはり省みることはありません。むしろ楽しんでいるかのように、その唇に薄い笑みを刻みました。
「私は人食い魔女。人を食べる悪い魔女。……人間の魂を食らい、命を啜る化け物なのよ」
それから、静江寧は肩をすくめます。ちょっとした冗談をいうときのように。
「そして、あなたの彼は騎士だった。おとぎ話では魔女を何度も殺し、そしてその度蘇り、最後には食われる運命の悲しい騎士……」
ふふふ、と静江寧は笑い声をあげます。おかしくて笑う、というより笑うのをこらえようとして、失敗したようです。腹を抱えて笑い出しました。
「ああ、おっかしい! バカみたい! 私、どうしてこんな頭のおかしいことを真面目な顔して語ってるんでしょうね? おとぎ話? 人を食べる魔女? 魔女に食われて死んだ騎士? これが真相? ああ、やっぱりダメだわ! どこの出来の悪い小説の話よ、クソつまんないわね! それを真面目に語るなんて……私は疲れてるのよ、そう、頭がいかれてるのよ! 狂ってる、そう、狂ってるのよ!」
壊れたオルゴールのように、調子はずれの声で静江寧は笑っています。
「でも本当なのよ、笑っちゃうことに! 私は魔女なの! 人を食べる悪い魔女なの! それであんたの彼氏は哀れな騎士! 魔女に食われた可哀そうな騎士! これが真相なのよ! あんたが追い求めた真相とやらは、この通りなのよ!」
「てめえ、ふざけんな!」
わたしは腹の底から声を絞り出して、叫びました。
「これが真相? 彼は悪い魔女に食われて死んだ? 冗談も休み休み言え! おとぎ話で人が死ぬか! 本気で聞いてんだよ、イカれたてめえの寝言を聞きに来たんじゃねえんだよ!」
床に振り下ろした足がじんと痛みました、思わず蹲りたくなるほど痛かったのです。けど、構いません。わたしはむしろその痛みが心地よくすら感じました。
「誰がそんな話、信じるか! い―君がそんなふざけた理由で死んだ、なんて誰が納得するか!」
喉が裂けそうなぐらい、痛みました。いっそ裂けてしまえ、と思いました。そうすれば、こんな現実から逃れられるからです。おとぎ話の魔女がいて、そいつに食われて死んだ……なんて、許しがたいことをほざく輩がいる世界なんていたくありません。そんな頭のおかしいやつらと同じ空気を吸っている、というだけでもう死にたくなります。
でも、頭の隅にある冷ややかな部分がこう言っているのです。……彼が死んだときのことを思い出してごらん、と。実際に、常識で説明できない死を遂げてしまったじゃないか、と。
わたしは何を信じればいいのですか? わたしはただ彼の死を悼みたかっただけなのに、どうしてこんな理不尽な、意味の分からない話など聞かされなければならないのですか?
助けてよ、い―君。わたしは今、死ぬほど困ってる。君はわたしのことを好きなんでしょう? じゃあ、助けてよ。助けに来てよ! ぎゅっと拳を握りました。彼の手を握れないか、指が長くて細くて意外と華奢なあの手に縋りたくて、もしかしたらここにあるんじゃないかと期待さえして握ったのです。
ですが実際に握れたのは、もちろん彼の手ではありません。左手は空気を掴んだだけで、右手は固い柄を握りしめていました。そのことに気付いた瞬間、はっとしたのです。わたしは今、右手に何を持っているのか思い出したのです。
彼のために、わたしは何が出来るでしょう? 一度裏切ってしまった彼に、わたしはどう償ったらいいでしょう? 真実は得られませんでした。なら、出来ることはもう一つあるじゃありませんか。
包丁の刃を向ける先を変えました。床下に転がる音草乙葉から、まっすぐに立つ静江寧の方へ。突きつけられた刃を目にすると、静江寧の壊れた笑い声はぴたりと止みました。
「私を殺したいの?」
歌うような、どこか楽しげな口調でした。
「そうよ」
わたしは迷わず答えました。
「だって、お前に真相なんか尋ねても無駄だと分かった。お前だけじゃない。誰も本当のことなんて語ろうとしない」
構えた包丁を、わたしはもう一度握り直します。
「だったらわたしはもう、満足すべきなのよ。あんたが犯人だってことが分かれば、それだけでいい」
切っ先は静江寧の胸に、その心臓に向いています。やつが魔女だか、人間だか知ったことではありませんし、どうでもいいのです。いずれにしても、心臓を刺せば死ぬでしょうから。
「殺せるものなら、殺してみなさい。だってねえ、私の正体を考えてみなさいよ?」
そういって、静江寧はぺろりと舌を唇から突き出してみせました。
「乙葉に今まで手を出さなくて、正解だったわね。その瞬間、腹をすかせた魔女に食われるところだったのよ?」
突き出された舌は、鮮やかな紅の色をしていました。まるで染めたばかりのように……昨日食い殺したばかりの、彼の血で。
意識がふっと軽くなるのを感じました。あ、もうだめだ、と分かりました。殺さなきゃ、と思いました。
腕は筋肉が強ばるほどに強く力が入っています。絡みついてもう取れないのではないかと思うほど、指は包丁の柄を握りしめています。
棒のように強ばっていた足が一歩、踏み出しました。震えていて、今にも崩れ落ちてしまいそうなほど頼りない歩みでした。でも、確かに一歩でした。静江寧を殺すためにわたしは歩み出したのです。
一歩踏み出せば、あとはベルトコンベアーで運ばれていくも同然でした。一歩、二歩、三歩、四歩……もう止まりません。弱弱しい足取りで、でも確かにわたしは前へ前へ、静江寧を殺すために進んでいました。
腕を伸ばせば、刃が届く距離まであと一歩。そこに至って、静江寧は声を掛けてきました。
「忠告してあげる。私を殺したって、あんたには一つもいいことなんてない」
別人のような声でした。狂気を端々から感じさせる先ほどまでの声とは違い、澄んだ水のような声でした。淀みなく進んでいた足が止まりました。進め、と念じましたが、ぴくりとも動こうとしません。
「得られる成果はただ一つ。あんたは人殺しになる。人殺しとして、今後の人生を生きることになる。私を殺したって、彼の供養にはならない」
そこまで言って、静江寧は小さく頭を振りました。
「だから、やめておきなさい。人殺しは、私一人で十分だから」
静江寧は苦々しく、微笑みました。先ほどの壊れた笑いなんて嘘のように、きちんと理性を取り戻しています。
何が魔女だよ、お前、ただの人間じゃねーか。心の中でつぶやきました。自分の罪は認めたうえで、自分を殺そうとしている人間の将来を慮ってやめておけと説教するなんて、大した人間じゃねーか。
包丁を握った手がぶるぶると震えだします。固く握っているはずなのに、指に力が入らなくて今にも取り落としてしまいそうです。わたしは必死で腕の震えを鎮めようと、力が入らない指に力を入れようとします。けど、全然上手くいきません。
逃げるな、逃げるんじゃない、恵美鈴! お前が逃げたら、誰があの人の死を悲しむの? みんなが彼の死をうやむやにしているのに、わたしだけでも彼に寄り添わなければいけないでしょう? 上手くいかない自分に言い聞かせます――お前はもう一度、あの人を裏切るのか? お前は三度もあの人を裏切るのか?
腕の震えは収まりません、指も全然だめです。でも、足だけはなんとか動かせそうです。鉛のように重たいのですが、動かせないことはありません。
さあ、行くんだ。さあ、殺すんだ。彼の死を悲しもう、彼を裏切ってはいけない!
静江寧はもう目の前でした。腕を伸ばせば、その胸に包丁の切っ先が触れます。震える腕を突き出して、その切っ先を埋め込もうとして――後ろから、腕を掴まれました。
誰? と思いました。でも、すぐに分かりました。私の腕を掴んでいる手を見れば、一目瞭然でした。指が長くて細くて意外と華奢なあの手。
「美鈴、ぼくは生きてるよ」
二人でいるときの優しい声が頭上から降り注いでいます。俺、とは言っていません。けれども、間違いなく彼の声でした。
嘘、と声を上げる暇もありません。肩を引っ張られバランスを崩したところで、背後からぎゅっと抱きすくめられました。耳元を彼の吐息がくすぐります。
「確かに、色々思い出せないことがある。でもそんなもの、これから埋め合わせていけばいい。……それじゃあ、だめかな?」
わたしの腕はだらりと下がり、指はもう動かすことさえ出来ません。からん、と音を立て右手から包丁が滑り落ち、床に落ちました。
「でも、わたし、あなたを拒絶したよ? 記憶のないあなたを……裏切ったよ?」
震える声でわたしは自分の罪を告白しました。記憶を失った彼を、彼と認められませんでした。知らない話し方をする彼が、どうしても受け入れられませんでした。彼は死んだと言って、逃げ出しました。向かい合おうとせずに、全く別の方法で彼との愛を埋め合わせようとしました。そう、一度目の裏切りは年末、二度目は昨日、そして三度目を犯そうとしていました。
彼は……い―君は、しばらく黙りました。ゆっくり言うべきことを選んで、口を開きました。
「俺は、何も見ていない」
あの日とまったく同じ答えを口にしました。やっぱり、不器用なところは変わらないのね。ぎこちないけれど、それでもなんとかわたしは笑いました。
「ごめんね、勝手に殺しちゃってごめんね……」
自分が犯した罪の重さに、涙がぽろぽろとこぼれ出てきたのです。わたしは泣きながら、微笑みました。
静江家の廊下に立っている僕と、部屋の中にいた壱原君と恵さんがすれ違って出てきた。ドアがぴったりと閉まっていたので、部屋の中の声は聞こえなかった。しかし手元にある携帯を通して中でのやりとりを余さず聞いていた。泣き崩れる恵さんを支えながら、壱原君は僕に向かって頷きかけて去っていった。ひとまず、一段落というところだろうか。
だが、安心してほっと胸をなでおろすには早い。むしろこれからが本番、と言うべきなのだ。込み上げてきた緊張を握りつぶすかのように、封筒を握る右手に力が入る。くしゃ、と音がして、握りつぶしそうになっていることに気付いて、慌てて力を抜いた。
音草さんから僕の携帯に着信があって、僕と壱原君は大いに慌てた。恵さんと音草さん二人の状況を把握し、彼女らの元にすぐに駆け付けなければという話になった。でも肝心の彼女らの居場所が分からない。僕にしても、当然ながら壱原君も、静江さんの自宅の場所など知るわけがない。母の制止を振り切って、考えなしに夜の街に飛び出そうとした僕ら二人を拾ってくれたのは夕川先生だった。何故、そんな都合の良い偶然が起きたかと言えば、夕川先生は僕の自宅のインターホンをちょうど鳴らそうとしていたところだったのだ。
音草さんの着信の話をすると、先生は車で静江さん宅へ連れてきてくれた。おまけに静江さんの父親から預かったという静江家の合鍵まで所持していた。そのおかげで、車内で音草さんとの通話を通してリビングでのやりとりを余さず知ることが出来たし、突入にも手間取らずに済んだ。
車に乗り込む際、先生は僕に一通の封筒を差し出した。事務用のそっけない茶封筒ではなくて、文房具屋に売っているような綺麗な封筒と便箋だった。先生はほのかに微笑して言った。
「私にも……出来ることがあるかと思って、ね」
それ以上のことは語らなかった。訝りながらも封筒を受けとり、僕は中身に目を通した。
車の中で、何度も読み返した。静江家までの大したことのない距離ですら何度も読めるような短い手紙だった。難しい手紙なんかじゃない。意味は明快で、一度読めば十分すぎるぐらい単純な内容だった。でも、僕は繰り返し繰り返し読み直した。車を下りて壱原君が駆けていっても、中々手紙を手放せなかった。携帯から聞こえるやり取りに耳を傾けながらも、僕は車から降りられなかった。
ようやく車から降りて、ついさっきリビングのドアの前にたどり着いた。封筒を潰さないように握って、廊下に立っている。片手は空いている。その手をドアノブに伸ばすが、ひどくゆっくりとした動きにしかならなかった。……突如、ぷつりと僕の携帯が通話を終えた。驚いた僕がドアノブに伸ばした手をひっこめたとき、向こう側からドアが引かれた。
立っていたのは、音草さんだった。彼女は華奢なあごをしゃくって、奥を示した。
「入りなよ」
僕は、動けなかった。彼女の鋭い視線に射すくめられて、床に縫い付けられたかのように立ちすくんだ。
奥に誰がいるのか? 僕はもう当然、知っている。
「やめてよ。……追い払って」
かすれた低いつぶやきが、聞こえてきた。小さな声から染み出るような嫌悪感を漂わせている。音草さんはゆったりと頭を振った。
「何を言ってるの? 彼はあたしが呼んだの。追い払うわけないでしょ?」
音草さんは後ろ……部屋の奥にいる人物を振り返った。
「だめだよ。ちゃんと話し合って。……ねえ、寧ちゃん」
奥にいるのは、静江寧。眼鏡の奥の瞳を赤く腫らせて、音草乙葉を睨んでいる。
静江さんは答えない。音草さんも答えなんて待っていない。さっと身を翻し、僕の脇をすり抜けていく。すれ違いざまに、僕の肩をぽんと小さな手が叩く。
「頑張れ」
とてもそっけない声だった。でも、どんなに言葉を尽くしても彼女の短い激励には到底及ばないだろう。僕は小さく頷き返した。見届けてくれたかは分からない、音草さんは歩みを緩めることなく立ち去った。
この場に残されたのは、僕と静江さんの二人になった。
開けっ放しのドアを通って、リビングに足を踏み入れる。お世辞にも片付いているとは言えない部屋だった。テーブルには空になった弁当やカップラーメンの容器が並んでいて、床にはチラシや雑誌や書籍が雑多にバラまかれている。
投げ捨てられたクリアファイルが一つ、落ちている。中に入っているのは原稿用紙の束だ。タイトルを見なくても中身は推測がつく。先ほどの恵さんとのやり取りを聞いていれば分かることだし、何よりも何度も読み返していたから、用紙を見ただけで分かる。
僕らを結びつけた物語の原稿用紙を挟んで向かい合うように、僕は彼女の正面に立った。僕に向けられる視線はひどく刺々しい。それでも、僕は彼女に微笑みかける。
「久しぶりだね、静江さん」
いつ振り、とは言わない。昨日ではないことは多分察してくれているだろう。彼女の目は僕が握る封筒を睨んでいる。けれども、物言わずに唇を噛みしめている。
聞かずとも、彼女が言いたいことは分かる。何故なら彼女はこの封筒を知っているから。そして僕がこの封筒を持っている姿を見て、何を思うかだって容易く想像はつく。だから、最初に何を言うべきか、僕は精一杯考えてきたのだ。
「君はこの手紙の返事をずっと待っていたんだよね? 待たせて悪かった。ごめんね、謝っても謝り切れないよ」
静江さんは微動だにしない。僕の謝罪なんて、蠅の羽音を聞くようなものだろう。
そりゃあそうだろう、と思う。彼女は小学校五年生の夏から、今に至るまで待っていたのだ。三年近く待たされて、誰が怒らずにいられるだろう? 怒るのは当然だ。再会したというのに、知らんぷりを決め込むぐらい当然のこと。だからこそ、僕はちゃんと説明しなければならない。
「ただね、見苦しいけれど一つだけ言い訳を許してほしい。……この手紙を見たのはついさっきなんだ」
「つい、さっき……?」
眼鏡の奥の瞳が、驚きに見開かれる。僕は頷く。そう、僕ら二人とも誤解していたのだ。
「三年前、夕川先生はあの図書館に通っていた。僕らの『人食い魔女の死』の物語と手紙のやり取りをたまたま発見して、それから毎日見ていたんだ。君の正体も知っていた。君がやがて魔女として目覚め、そう遠くない日に人としての死を迎えることも分かっていた」
静江家に至るまでの車中で、夕川先生は語った。かつて流してしまった過去を、もう一度手繰り寄せて語ってくれた。
「夕川先生は君に未来を見せたくなかった。輝かしい未来を、希望溢れる将来を見せて、魔女として目覚めたときの絶望を大きくしたくなかった。あの人はあの人なりの誠意をもって、君が僕に宛てた最後の手紙を抜き取った」
最低限のことしか先生は語らなかった。何をしたかはきちんと語ったけれども、心情についてはそう詳しく語らなかった。しかし言葉をそう多く費やさなくたって、先生の心情は十分に伝わった。
「今は後悔している、って言っていたよ」
彼女が話を締めくくる際にぽつりと漏らした一言は、その苦みを帯びた声色まではっきりと覚えている。
「……そう。やっぱりあいつは、余計なおせっかい焼きよ。下手くそなくせにね」
静江さんは穏やかな顔をしていた。憎んでもいいはず事をした先生を、心の底から恐れた音草さんを受け入れたように、己を殺そうとした恵さんを引き留めたように、静江さんは責めない。ただあるがままに受け入れる。
僕は彼女のようにはいかなかった。何故そんなことを、と夕川先生の前で責めるように一言、こぼしてしまった。今は後悔している、と苦しげに言わせたのは実は僕なのだ。
静江さんは複雑な魔女の物語を読み解いて、分かりやすく語る賢さだけじゃなくて、人並み外れてあたたかくて優しい心を持っている。やっぱり君はすごい人だよ、と心の中でつぶやく。早々、真似できることではない。
手に持った封筒を開ける。何度も読み返したので、もう見なくても中身は覚えている。だが、それでももう一度手紙に視線を走らせる。手紙はかわいらしい丸文字でこう、綴られている。
『お手紙ありがとう。あなたのまっすぐな応援の言葉が私にはとても嬉しかったです。でも、もうお手紙は終わりにしましょう。もう、苦しいのです。もどかしすぎて、手紙はこれ以上続けられないのです。
ですから、会いましょう。今度は文字のやり取りではなくて、おしゃべりをして、それから一緒に笑いあったりしましょう。手紙では伝えきれないことをたくさんやり取りしましょう。
一番最初、あなたから会いたいという誘いをもらったとき、私は君を怖がって逃げてしまいました。大変申し訳なく思っています。でも、もう逃げません。私も君に会いたいです。……一度断っておきながら自分勝手なお願いをしている、と分かっています。けど、だめでしょうか? 君は許してくれますか? 私の身勝手な願いを聞いてくれますか?
どうしても、君に見せたいものがあるんです。どうしても、伝えたいことがあるんです。ですから、どうかお願いします……』
全て目を通して、便箋を封筒に入れなおす。三年前の静江寧の想いをもう一度噛みしめて、正面に立つ少女を見やる。三年後の静江寧を。
「ねえ、僕は君に会いに来たよ。だから、教えてくれる? 君は、僕に何を見せようとしたの? 一体何を伝えたかったの?」
静江さんは瞬き一つしないで、僕を見返した。夕川先生の行為に見せた穏やかな表情を消し去って、唇を歪めた。
「今更、遅いわよ」
悲しい微笑を湛えて、静江さんは言った。
「あなたが三年前に会いに来てくれたなら、良かった。そうすれば、私は屈託なく見せたいものも伝えたいことも打ち明けられた。……でも、今はもう手遅れなの」
彼女は力なく、首を横に振った。
「だって、私は魔女になってしまったから」
声はほとんど掠れていた。耳を澄ませなければ聞こえないような、弱弱しい声だった。けれども、その声が持つ意味はとてつもなく、重い。
静江さんは顔を上げて、再び僕を見た。笑っていた。彼女は今にも泣きそうな顔をして、笑っている。
「だって、あなたの顔ももう分からないの。美味しそうな肉の……いいえ、美味しそうな魂と命の塊にしか、今の私にはあなたの姿は映っていない」
くすくす、と甲高い笑い声が彼女の唇から零れ落ちる。
「ねえ、人間だって肉の塊に何かを見せたり、語り掛けたりなんてしないでしょう? 魔女だって、同じことなのよ?」
赤い舌がぺろりと突き出される。おどけた道化の表情で、静江さんは僕を見た。
さあ、僕はどう答えるべきなんだろう? 静江さんの挑発的な視線を受け止め、考える。
彼女に食われてもいい、ぐらいに思ってもらわないとね、と夕川先生は言った。その通りだった。下手な受け答えは許されない。生半可な覚悟で言葉を発すれば、食われる。
鼓動が自然と早くなる。さて、どうしてだろう? と僕は思う。食われるのが怖いからか? 命の危機に対して、本能的に怯えているからか? いいや、違う。そんなことは大したことじゃない。僕が本当に怖いのは、怯えているのは、もっと別のことだ。
深々と息を吐く。言いたいことはずっと考えてきた。覚悟だって決まってる。だから、迷うことなんてない。
「構わないよ。君が人間だろうが、魔女だろうが、僕の知ったことじゃない」
足が震えている。僕は怖いのだ。でも、静江さんに向ける眼差しを揺るがせてはならない。語り掛ける声を詰まらせてはいけない。己を励まし、先を続ける。
「大事なのは、君が静江寧ということ。僕が三年前、手紙をやり取りした女の子だってことだけなんだ」
心臓が悲鳴を上げている。今にも破裂して粉々に砕け散ってしまいそうなほど、痛みを発している。それでも、続けなければならない。……僕は深々と息を吸い込んだ。
「君が魔女ならば、人間に戻ればいい。僕がきっと呪いを解いてみせるか……」
「勝手なこと、言わないでよ!」
静江さんの叫び声が僕の声を遮った。
「他人事だと思って適当なこと抜かすんじゃないわよ! 呪いを解く? どうやって? 答えてみなさいよ!」
かっと見開かれた瞳に睨まれる。
体はまるで金縛りにあったかのように動かない。ただ頭の中で、ああ、とため息をついている。恐れていたことが起きようとしている、とぼんやりと思いながら目の前を眺めていた。
どん、と静江さんの足元の床が鳴る。髪を振り乱し、彼女は声を張り上げた。
「とっとと出て行って! 魔女に食われて死なない内にね!」
リビングに彼女の声が響き渡りそれから、しん、と静寂が訪れた。
僕は何も口がきけなかった。まるで、命を失って石になったような心地がした。
何でそんなことを言うの? 一瞬、手放した思考が戻ってきて真っ先に考えた。どうして、僕が一番恐れていることを言うの? 肩をいからせ、睥睨する彼女を見ながら、声に出せないままにつぶやく。どうして、君は僕をそこまで拒絶するの?
いや、全く分からないわけじゃないのだ。むしろ、ちゃんと分かっている。彼女は魔女になってしまった己を許せない。己を人を食べる恐ろしい化け物として忌み嫌っている。過去の思い出を投げ捨て、未来を諦め、ただ安らかな死だけを望んでいる。完全な人食い魔女になる前に全てを断とうとしている。
そう、彼女は優しいのだ。人並み外れて優しく、あたたかい。出来る限り他人を巻き込むまいとして、僕を遠ざけようとする。彼女はその優しさゆえに、僕を拒絶しようとしている。
許せない。
腹の中に火をともしたかのように、ふっと熱が体の奥から染み出してきた。腹の中の炎と一緒に、感情が泡のように弾けた。
「……だったら、好きにしろよ」
唇からこぼれだしたのは、腹の中で燃える炎の欠片だった。
きっ、と静江さんを睨む。ありったけの敵意を、あるいは憎しみさえ込めて。
「君は僕の話なんて聞こうともしない。……ああ、そうさ。愛想が尽きたよ。君みたいな分からず屋には語り掛けるだけ無駄なんだな」
皮肉をたっぷりと含ませ、唇が半月の笑みをかたどる。
「要するに、君は僕のことなんかどうでもいいんだろ」
血を吐くように、言葉を絞り出す。すると、静江さんははっとして表情を変える。瞳に灯った怒りはたちまち静まる。
「ちが……」
「そんなに僕を食いたきゃ、食えばいいさ」
声を大きくして、僕は彼女の声を遮った。
「その代わり、一つだけ注文を付ける。僕の魂と命を一欠片だけでいい、残してくれ。全てを食らいつくさないでほしい」
静江さんの目が驚きに見開かれている。あなたは何を言っているの、何を言おうとしているの……そう問いかけている。問われるまでもない。例え遮られたって、例え食われてしまっても僕は最後まで言う。
「一欠片でも魂と命がある限り、僕は君を忘れたりなんかしない。……君の呪いを解くよ。その手段を探しに出かけるよ」
壱原君だって、恵さんを忘れなかった。なら僕が、三年近く彼女を探し続けた僕がどうして忘れることがあるだろう?
「なんで?」
彼女の唇が小さく動く。信じられないといった面もちで問いかけてくる。
僕は微笑した。とても簡単で、他愛もない質問だったからだ。
「君のことが、好きだからだよ」
声と同時に歩み出す。僕の正面に立つ女の子に向かって、足元も見ずに。
彼女は己の身を守るように抱きしめている。恐ろしい魔女ではなくて、か弱い一人の少女として。来ないで、と彼女は言った。でも、僕は聞かない。足を止めない。好きな女の子の元に進むことの、一体何が悪いのだろう?
一歩踏み出すごとに、足の裏にフローリングの床の堅い感触が返ってくる。一歩、二歩と確かに彼女との距離が詰まっていくことを僕に教えてくれる。やめて、と叫ぶ声が聞こえる。けど、聞かない。聞くつもりなんかない。床に画鋲がばらまかれていたって、僕は進むだろう。
また一歩、僕はまっすぐに足を踏み出す。そう、そのときだ。足の裏の感触に違和感を覚えたのは。フローリングの床の堅い感触ではなくて、薄いプラスチックの膜がぐにゃりと弛んだ感触で――床に落ちていたクリアファイルを踏んづけて、強かに尻を打ち付けた。……いってえ、と口から情けない悲鳴が漏れる。
大した痛みではない。けれども、立ち上がれなかった。あんまりにも無様で、格好悪くて顔さえ上げられなかった。……何やってんだよ自分、しょんぼりと肩を落としていると頭上に影が差した。
「……大丈夫?」
僕の接近を恐れていたはずなのに、静江さんがおそるおそる、といった様子で僕を覗き込んでいた。
「大丈夫……」
気恥ずかしさをこらえながら、身を起こす。顔を上げると、静江さんの口元がちょっと笑っていた。
「ばかねえ?」
しみじみと彼女が言う。
「本当にね?」
もっともだ、と僕も頷く。
言葉が途切れる。嫌な沈黙ではなかった。僕と静江さんは無言で優しい微笑を交わしあっている。いつまでも浸っていたいような温かい沈黙だった。
手紙ではもどかしい、と三年前の彼女は言っていた。こういうことなのだろう。言葉では語りきれないことを、顔を合わせなければ語れないからこそ、手紙を終わりにしようと彼女は言ったのだ。
会えて良かった、と僕は思った。彼女と笑いあう時間がとれて良かった。だって、これが最初で最後かもしれないから。
呪いを解く方法を探す、と僕は息撒いた。無論、そのつもりでいる。でも、必ず見つけ出せるとは言えない。だから、この時間は貴重なのだ。静江さんと笑い合える最後のチャンスかもしれない、ということは否定しようがないのだから。
どれほどの時間、見つめ合っていたのだろう。とてつもなく長い時間だったような気もするし、瞬きのように短い時間だったような気もする。ただ、どんな時間にも終わりは訪れる。
先に目をそらしたのは、静江さんだった。
「あなたと会えるのは、これが最後かもしれない」
静江さんが、ぽつりとつぶやいた。
「そうだね」
多分、僕と同じ想いなのだろう。最後になるかもしれない時間を互いに惜しんでいる。わざわざ確認せずとも、そうであろうと信じている。だから尋ねなかった。
僕が何か言うのか、静江さんは試していたみたいだった。しばらく間を空けてから、彼女は軽やかな口振りで言った。
「私だって、魔女になり果てたってあなたのことを忘れたりなんかしない」
もう一度僕を振り返って、彼女はにっこりと笑った。
「あなたのこと、私も好きよ」
彼女の穏やかな微笑を見て、確信した。……ああ、これは三年越しの告白なのだ、と。
頬がかっと熱くなるのを感じた。ずっと待っていた言葉のはずなのに、いざもらってみると気恥ずかしくて仕方ない。……何を言っていいか分からなくて、黙り込む。目を合わせられなくて、うつむく。
静江さんの微笑が視界から消えて、散らかったフローリングの床が映り込む。雑誌や書籍が乱雑に積みあがっている中に、踏んづけたクリアファイルから紙束が飛び出して、散乱していた。
その内の一枚の原稿が目に入った。てっきり『人喰い魔女の死』だと思っていたのだけれども、その文章に眼を走らせると違った。
見たことがない作品の一ページ目だった。その一行目には聞き覚えのない、けれども不思議となじみ深いタイトルが書かれている。
タイトルは『人喰い魔女の誕生』だった。
今から遠い昔のことです。小さな村に一人の少女がいました。彼女はどこにでもいるような平凡な娘でした。今は両親を助けて畑を耕し、家畜の世話をしていますが、いつかは誰かの元へ嫁いでいくことでしょう。愛する誰かの子供を産み、そして子供や孫に囲まれて幸せな死を遂げることでしょう。周りのみんなも少女自身も、よくある幸せな人生を信じて疑っていませんでした。
そんな少女の人生を変えたのは、とある雨風の激しい夜でした。雨は槍のように降り注ぎ、雷が獣の鳴き声ように響きわたっています。
村人たちはみんな雨や雷を恐れて、家から一歩も出ません。ただただ、この恐ろしい天気が過ぎ去るのを待っていました。ところが少女は外へ飛び出しました。というのも、響きわたる雨や雷の中に助けを求める人の声を聞いたからなのです。両親や兄弟たちに言いましたが、彼らは外に出てはいけないと言うばかり。仕方なく、少女はこっそりと家を抜け出しました。
外に出てみると、確かに声が聞こえてきました。降り注ぐ雨を受けて、荒れ狂う川の中に少年の姿がありました。川縁にかかった橋にしがみついていたのです。
見知らぬ少年ではありません。周りの大人たちから関わってはいけない、と言われていた人でした。彼は親のいない孤児でした。店の商品を盗み、畑の小麦を荒らしては鞭で追い払われるような少年でした。
ですが、少女は迷いませんでした。自分の身の危険もかえりみずに溺れそうな彼の手を取り、苦労の末、助け出すことができました。
少年は冷たい川の水で凍えきっていました。このまま雨の下に放り出していれば、きっと死んでしまうでしょう。かといって、少女の家に連れて行くこともできません。両親がたちまち雷が響きわたる野外へ放りだしてしまうでしょう。
悩んだ少女は少年を彼の粗末なねぐらに連れて行き、世話をしてやりました。火を起こし、家から兄弟の服を持って行って着替えさせ、食べるものも与えてやりました。
少女の看病を受けて、翌日には元気を取り戻しました。命を救ってくれた少女に、丁寧にお礼を言いました。村ではあまり評判の良くない少年でしたが、根は素直で優しい人でした。
雨が晴れても、少年と少女は人目を忍んで、会い続けました。楽しく語り合って、二人の時間を何度も過ごしました。そうしている間に、少女はいつしか少年に淡い恋心を抱くようになりました。
けれども想いを少年に伝えるべきか、少女は大いに悩みました。だって、彼との恋は誰も祝福してくれないでしょう。これ以上、彼を愛しても良いものでしょうか? 定まっている幸せな将来を投げ捨てて、彼の元へ行くべきなのでしょうか?
長い間、少女は悩みました。そして、ついに決めたのです。少年に想いを打ち明けよう、そしてそれを周りの大人たちにも伝えよう、と。
覚悟を決めて、少女は少年に会いに行きました。始まりとなった彼のねぐらで二人はいつも会っていたのです。普段通り足を向けると、人気のないこの場所になぜだか大人たちがたくさんいました。
大人たちは、みんな怖い顔をしていました。倉庫で眠っているはずの槍や剣を持って集まっていました。少女はとても嫌な予感がしました。大人たちをかき分け、少年のねぐらに足を踏み入れました。果たして少年の姿はそこにありました。首から血を流して、瞼を堅く閉ざして永遠の眠りについていました。
そのとき、少女の想いは死を迎えたのです。伝えるべき人を失ってしまった想いはもう、少女の中から消え去ることはありません。
死んでしまった恋心は少女を蝕みました。彼女の日々から喜びや悲しみ、笑顔や涙を奪い去りました。幸せな未来を失い、彼女に残っているのは砂漠よりも乾いた日々しかありませんでした。
少女は川に身を投げました。少年の手を取り救ったあの川で、少女は命を自ら手放しました。
この村に住む人々が、人を食う恐ろしい魔女によって滅ぼされたのは少女の死から少し先のことになります。
◆エピローグ 魔女なき世界へ
昼休みの時間が来たので、僕は例の中庭のベンチに一人で来ている。母が作った弁当を膝の上に置いて、足下には水筒を置いている。
昼前の授業は体育だったので、お腹が空いている。早く開けたいのは山々なのだけれども、誰もいない内から食べ始めると後でうるさい人がいるので我慢しておく。が、僕がベンチに着いてから五分経っても誰も姿を現さない。全く、女子は何事につけても遅いな、とぼやきたくなってくる。
体育の授業は男女別で、隣のクラスと合同でやっている。男子は体育館でバスケット、女子はグランドでソフトボール。僕はさっさと着替えてベンチに座っているけど、待ち人たちは何をだらだらやっているのやら。
いい加減待ちくたびれたし、さすがに卵焼きの一切れぐらいつまんでもいいだろう。弁当のふたを開けて、箸を持つ。
まさにその瞬間だった。ベンチに腰掛けた僕の頭上に、影が差した。顔を上げると、唇を尖らせて彼女がむくれている。
「こーら。早弁禁止って言ったの忘れたの?」
体育の授業を終えてやってきた静江寧が、僕を見下ろしている。
やっぱり怒られたか。僕は苦笑いを浮かべながら、一旦箸を置いた。
「じゃあ遅着替えも禁止にしてくれる?」
かつて、人を食う恐ろしい魔女だった少女を振り返った。
静江さんを苛んでいた魔女の呪いが解けてから、一月が経とうとしていた。
僕が床に散らかっていた『人喰い魔女の誕生』をかき集め、全て読み切ったときにはもう解けていたらしい。静江さんによると、憑き物が落ちたように魂や命を貪りたい欲求が消え去り、呪いが解けたことを理解したのだ、という。どの瞬間に魔女の呪いが解けたのか、彼女もはっきりとは分からないらしい。
だが、そんなことは今更どうでもいい。魔女はもういない。僕たちにとって大事なことはそれだけだ。
なぜ、呪いが突然解けたのか? 訳知り顔で解説してくれる都合のいい登場人物は誰もいないので、僕らは推測するしかない。僕らの推測は、こうだ。……人喰い魔女は死んだのではない。そもそも生まれなかったことになった。
夕川先生は、『名もなき誰か』の僕は隠された物語に登場する人物の役割を振られており、魔女の呪いを解く鍵になるのではないか、と言った。恐らくその仮説が当たっていたのだ。隠された物語、というのが、三年前に寧さんが僕に会うときに備えて執筆した『人喰い魔女の誕生』で、僕は『少年』の役割を背負っていたのだ。
要するに、魔女は『少年』への想いを満たすことが出来ずに死んだ『少女』の生まれ変わりだった。恋心とともに全ての感情を失った『少女』の無念を晴らすべく、魔女は人々の魂を食らう。化け物となった魔女は聖者の死によって、人間らしい感情を取り戻して死に至る、というわけだ。ならば、物語の発端……『少女』が『少年』への恋心を満たすことが出来たなら、魔女は生まれない。魔女は死なずとも、最初から存在しなかったことになる。
『人喰い魔女の死』は登場人物たちに代々受け継がれてきた。しかし、『人喰魔女の誕生』はあくまで静江さんの創作だ。『人喰い魔女の死』を書き、僕と議論をしている内にその出生についてアイデアを膨らませた。明示されている魔女と聖者の物語さえ、現世で達成されてこなかったというのに、呪いを解く鍵が今回見つかったのは奇跡としか言いようがないだろう。
「私がもっと早くから動いていれば、あるいは余計なことをしなければ、魔女の呪いはもっと早く解けたかもしれない。……と後悔するのは簡単だけど、こんなこと千里眼でもなければ前もって気づくのは無理ね」
魔女の呪いが解けたことを知った夕川先生はそう言って、苦笑いをしていた。僕もその通りだと思うし、おとぎ話に関わった皆も同じ思いだ。後からたらればの話をしたって、仕方ない。もう今となっては、昔の話になったのだから。
呪いが解けた夜、後始末は大変だった。僕らは必死で静江家で起こった事件を隠した。恵さんは塾帰りの音草さんと夜遅くまで遊んでいたことになって、双方盛大に親や先生に叱られた。病院を抜け出した壱原君も後でこってり両親に絞られたらしい。それから、静江さんのリビングの割れたガラスはどこかの誰かの悪戯になった。
あの夜、大した被害を被らなかったのは僕だけだった。僕と壱原君、それから夕川先生の不審な行動を見届けていたはずの母は、真夜中に帰ってきた僕を叱らなかった。ただ、翌朝、一言ぽつりと僕に言った。
「杏里、近いうちに父さんの墓参りに行こうか」
僕は一瞬、耳を疑った。母の発言がただの偶然とは思えなかった。
朝食をつまむ箸が一度止まって、再び何事もなかったかのように動き出すまでに時間がかかった。
「うん」
その週末、物心着いてから初めて父の墓参りに行った。
静江さんが来たけれど、僕はやっぱりまだ弁当の蓋を閉めさせられた。理由は簡単。彼女は自分の弁当なんて持っていないから、僕一人で弁当を開けるのは許されない。そういうわけで、しばらくもう一人の人物の到着を待たなければならなかった。
「やあ、お待たせ。……さあ、安藤君、あたしに席を空けてくれるかな?」
二人分のお弁当を抱えて、音草乙葉がやってきた。にっこり笑っているが、目だけが笑っていない。僕と静江さんの間に立って、無理矢理間に割り込んで座った。
「はーい、寧ちゃん、これ今日のお弁当。今日の目玉は甘辛照り焼きチキンだよ」
「さすが乙葉! 私の好物ではないか! 誉めてつかわす!」
どこぞの殿様のように静江さんが尊大に言う。すると音草さんはでれでれと相好を崩す。
「やったー! では寧様お上がりなさーい」
箸を取り出し、照り焼きチキンをつまむ。それから小鳥に餌でもやるような手つきで、寧の口元に運ぶ。彼女がぱくりと食らいつくと、黄色い声をあげて喜んでいる……教室の女王様、というあだ名は、静江寧の下僕に変えた方がいい頃だろうか?
あの夜を境に変わったことはたくさんある。まず、静江さんが保健室登校をやめて教室に通い始めたこと。一年以上のブランクなんてなかったかのように、彼女はあっさりと教室に馴染んだ。元から人見知りしない性格だということも大きいけれど、教室を支配する音草乙葉と大層仲が良いことも無視できないだろう。
誰の前であっても一定の距離を保っていた音草さんが、静江寧にだけは特別な好意を見せている。誰が見ていようが、静江さんに対する態度を取り繕う気は全くない。教室の誰もが、音草乙葉の変貌ぶりに驚いていた。そりゃあそうだろう、あの優雅な教室の女王様がまるで飼い主にじゃれる子犬のように振る舞っているのだから。
音草さんは静江さんと出会って大きく変わった。その変化を僕は歓迎している。完璧だけれども孤高の人だった彼女よりも、今のちょっと変人じみた彼女の方が親しみやすい。
「ねえ……僕にも一個ちょうだい?」
あんまりにも美味しそうなので、僕も欲しくなってきた。おずおずと切り出すと、音草さんが振り返る。静江さんに向けていたとろけるような表情はどこへやら、まるでお面を付け替えたみたいに切り替わる。
「君にあげるぐらいなら、鳩に食わせる」
みよ、態度のこの違いを。
何事もなかったかのように、音草さんは再び寧に向き直る。耳が痛くなるような甲高い声のやりとりに辟易しながら、僕はしょんぼりとお弁当の箸を進める。
と、ベンチの端っこに追いやられた僕の脇に人の気配がした。顔を上げると、彼女はにっこり微笑んでいる。
「静江さんを取られて悲しくないの、杏里君?」
恵さんである。妖艶な笑みを湛えて、僕を見下ろしている。
「……別に?」
生ぬるい笑みで答えると、彼女はふんと鼻を鳴らす。それから、腕を絡めた隣の人物を振り返る。
「だってさ。いー君、彼女持ちの先輩として何か言ってあげたら?」
「え……?」
よそ見していたところを困惑した様子で振り返ったのは、もちろん壱原君だ。ただし以前と違って髪は黒く染め直し、派手なアクセサリーも全て取り払い、服装も校則通りになっている。顔の作りは変わっていないけれど、まとう雰囲気は全く別人。
「え、えっと……うん、なんか頑張れ……?」
このおどおどした子犬風の態度が女子の間で大受けして、今やクラスの乱暴者から人気者だとか。それが恵さんは気にくわない。群がる女子をなぎ倒すことに毎日を費やしている。
ぷう、と頬を膨らませて恵さんは壱原君を睨む。壱原君は「え、え……美鈴こわいって」と震えている。……と思ったら、恵さんはぎゅっと壱原君を抱きしめる。
「そういうところが可愛いんだから!」
こっちも幸せそうで何よりだよな、とやっぱり寂しい気持ちでお弁当を食べる。二組のバカップルに挟まれて食べるご飯のなんと味気ないことよ。
なんで僕はここにいるんだろう、と哲学的な問いかけが頭を過ぎる。もういっそ一人で昼食を取った方が寂しくないのではないか? 明日からそうしようかな……なんて考えていると、肩を叩かれた。
「今日の放課後、暇?」
声をかけてきたのは静江さんだった。あんまり、想いが通じる前と雰囲気は変わらない。言いたいことはずばりと言う、口調も恵さんのような甘さはなくて、さばさばしている。
「暇だよ」
「じゃあ、はいこれ」
鞄から寧は紙束を取り出した。
「次の授業、つまんない国語でしょ? 書いたから読んでおいて」
寧の手が眼鏡のフレームを触る。そして、ちらと視線を僕から逸らす。
「放課後、感想聞かせて。……二人でね」
最後の一言を周囲に……というか、とある人物にはばかって声を落とす。
きょとん、として気恥ずかしそうな顔を見つめる。二人で、という言葉の声色がもう一度頭の中でリフレインする。僕も恥ずかしくなってきて、目をそらす。
「あ、うん……」
なんとも味気ない返事だが、僕にはこれが精一杯だった。黙らなかっただけ褒めてほしい。
微妙な沈黙が僕と静江さんの間に流れる。何を喋っていいか、どれぐらい距離を縮めていいのか、分からない。名目上、僕らは付き合い始めた、ということになっている。週末、二人で遊びに行ったりもした。でも、まだ恥じらいが抜けきらなくて、こうしてなんとも言えない空気が時々漂う。
「二人とも、何、黙ってんの? あたしに聞こえない電波でも受信中?」
とてもいい笑顔で、音草さんが割り込んできた。びく、と僕と静江さんの肩が同時に震える。静江さんがすばらしい速度で音草さんを振り返る。
「そうねえ、空気中の分子がぶつかり合う音に耳を澄ませていたぐらいで」
「へー。寧ちゃんと安藤君には聞こえるんだ? あたしにはちっとも聞こえないんだけど」
「それはあんたの修行が足りないのよ修行が」
「へー……」
音草さんがジト目で静江さんを見る。寧はおそらく内心では冷や汗をかいているだろうが、颯爽と身を翻す。
「あっ、ちょっとお腹痛くなってきた! お手洗い行くわ!」
一人でずんずんと歩き出す。まるで……というか、明らかに面倒くさい音草さんから逃げる気だ。となれば、残るのは僕。ぎろ、と音草さんの物騒な視線が飛んできた。
「あたしは全然、君のこと認めてないからね?」
はは、と僕は乾いた笑みをこぼす。寧の実父よりよっぽど手強そうな。そろりと目をそらす。
「……はーい」
まあ、こんな日常でも悪くはない。人喰い魔女が生まれなかったこの世界を、僕はとても気に入っているのだから。
あとがき
以上で『人食い魔女の死』は完結です。以前、2章の途中までなろうにアップしていたのですが、某大賞に応募する間は掲載を止めていたのです。で、落選決まって堂々と上げなおしたところです。
色々と思い入れがある作品なので、もしかするとまた改稿して賞に応募するために削除するかもしれませんが、今はまた別の作品に取り掛かっているところなので、しばらくはこのままです。
ここまでお読みいただいた方、ありがとうございます。もしよかったら、今後もまた次回作でお会いしましょう。
おまけ
本編で登場人物のルビを振る余裕がなかったので、ここに書いておきます。多分、全員ドンピシャで読める人はいないと思うので。寧は十中八九「ねい」としか読めないですよね。
安堂 杏里
音草 乙葉
静江 寧
壱原 元
恵 美鈴
夕川 優里
安堂 保