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3話

 自宅に着くなり、私は息せき切ったままリビングに直行した。

 7才になる弟の啓太けいたが勢い良く飛び込んできた私を見て、ポカンと口を開けている。

 恵太の周りにはチョコレートの紙包みが散らかっていて、汚い手であちこち触ったのか、そこら中にチョコの染みが付いている。

 もうすぐ小学校に入学する子供とは思えないだらしのなさだ。

 躾に厳しかった母は、私が小さかった頃はチョコレートなんか食べさせてくれなかったのに、再婚相手との間にできた啓太けいたは、好き放題させて甘やかしている。

 父親が違うとは言え、こんな汚い子供が私の弟だなんて今でも認めたくない。

 再びチョコレートを貪り始めた啓太を一瞥して、私はキッチンに立っている母に向かって突進した。


「お母さん! ちょっと聞きたい事があるんだけど!」

「あら、今日は早かったのね。もうすぐご飯にするわよ」


 血相変えた飛び込んできた私に、母は穏やかな口調で的外れな返事をした。

 その血色の良い丸い顔には緊張感の欠片もない。

 こんな人でも、母娘二人で生活していた時はキャリアウーマンで、体型だってスレンダーでカッコ良かった。

 母は私が物心ついた頃には既に離婚していたが、まだまだ若くて綺麗だったのだ。

 それが、再婚した途端に仕事を辞めて、専業主婦になった途端、子供ができた。

 金銭的にも精神的にもゆとりができて安心したのだろう。

 啓太を出産してから、今では20Kgくらい太ってしまった。

 全体的に丸みを帯びた身体を持て余しながら、ゆっくりとした口調でどうでもいい話をし、世間の喧騒など、どこ吹く風といった感じだ。

 今の母にとって一番大切なのは、再婚相手との第二の人生をいかに穏便に過ごすかという事だけで、私の事なんか既に眼中にないのだ。

 尤も、二十歳になる連れ子がいまだに無職のまま家でのさばっているなんて、母も再婚相手も想定してなかっただろうけど。


「お母さん、私、聞きたい事があるんだけど、隠さないで答えてくれる?」

「まあ、なあに? 改まって。もうすぐパパも帰ってくるからご飯の用意するわよ」

「そんなこと、どうでもいいんだって! 私の本当のお父さんの事、聞きたいんだけど」


 呆けていた母の顔が、私の言葉で少し引き攣った。

 まだ母の思考回路は稼働しているらしい。

 畳み掛けるように、私は早口で問いただした。


「ねえ、離婚した私の本当のお父さんって、どこにいるの? まだ生きてるの?」

「……由梨絵、どうしたの? 今更、そんな事……」

「お父さんがどうなっていようが、今更、どうする気もないの。でも、ひとつだけ聞かせて? もしかしたら、お父さんは交通事故で亡くなってるの? それだけを確かめたいの」


 私の必死の形相に、母の顔は凍りついていた。

 無理もない。

 今朝まで鬱状態で、口もろくに聞かなかった引き篭もりの娘が、突然、興奮状態で飛び込んできて、変な事言いだすんだから。

 母はしばらく沈黙していたが、やがて、ボソっと重い返事をした。


「……別れてから連絡取ってなかったから、よく知らないの。向こうも別の方と再婚して家庭を持ってたし。でも、交通事故で亡くなったって話は聞いたことあるわ」

「いつ? いつ亡くなったの?」

「別れてから音信不通だったから、本当によくは知らないのよ。でも、亡くなっている事は確かみたい……由梨絵、あんた、それをどこで聞いたの? どうして今更……」


 母が私に詰め寄ってきた時、玄関のドアが開く音がして「ただいま~」と間延びした声が聞こえた。

 再婚相手が帰ってきたのだ。

「パパ~!お帰り~!」と、両手にチョコレートを握り締めたまま、啓太が玄関に向かって飛び出していく。

 その途端、母はハッとした顔で、慌てて口を噤んだ。

 昔の男の話なんか、今更、蒸し返したくもないだろう。

 ましてや、再婚相手の男に聞かせたい訳がない。


「ありがとう! でも、本当に何でもないの。聞いてみたかっただけだから、もう忘れて!」


 再婚相手がリビングに入ってくる前に退散したかった私は、一方的に話を切り上げると、玄関とは別のドアから廊下に出て、二階に駆け上がった。



 遮光カーテンを閉め切った部屋に入って、私はベッドに倒れ込んだ。

 自称『未来から来た男』、透が言う通り、私の本当の父は交通事故で既に亡くなっているらしい。

 私は長袖のブラウスの袖を少し上げて、青白い左腕を見つめた。

 そこには、何回も死のうとして死に切れなかった傷跡が無数に残っている。

 中学校に入ったくらいから、私は生きるのが辛かった。

 元から内向的な性格だった私は、中学校に入ってからすぐにイジメの対象になり、やがて、不登校になった。

 今まで二人で頑張って生きてきた母は、時を同じくして今の再婚相手と結婚し、少しずつ私から離れていった。

 啓太が生まれてから更に忙しくなった母は、私が学校に行ったふりをして公園や図書館で時間を潰していた事になかなか気が付かなかった。

 出席日数が足りなくて卒業が危ういと学校から連絡があった時、初めて、娘が不登校だった事を知ったくらいだ。

 何とか中学校は卒業させてもらえたものの、その後は、地元じゃ有名な最低レベルの高校に裏口入学で入れてもらうしかなかった。

 1ヶ月もしない間に、行かなくなった。

 それから、引き篭もりが始まり、何もしないまま時だけが流れて、もうすぐ二十歳になる。

 私が高校に入学したのを機に、今住んでいる建売住宅に引っ越し、私にはこの部屋が与えられた。

 世間体の悪いニートの娘を外に出さない為の座敷牢みたいなものだ。

 この家で、私の時間だけが止まっている。

 母は新しい子供ができてから、そちらの育児で忙しくて、私に対しては今までにも増して放任になった。

 再婚相手は、私がいようがいまいが、存在すら目に入らないといった感じだ。

 この家では、もう私を除いた3人の核家族が成立してしまっていて、私が入る隙間はどこにもないのだ。

 潰されてしまいそうな孤独感と、立っているのも苦しいほどの倦怠感が襲ってきて、私は思わず左手の手首を握り締めた。


「運命の人と出会うよ」


 その時、さっきの透の言葉が脳裏に浮かんだ。

 明日、図書館で、私と同じ傷がある男性を探せ……って、透はそう言ったのだ。

 

 限りなく怪しい透だけど、彼の言った事は確かに当たっていた。

 明日、図書館で出会う筈の「運命の人」が、もしかしたら何かを変えてくれるかもしれない。

 僅かな期待の光が真っ暗だった胸の中に、ぽっかり灯った気がした。



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