4話
翌日、私はいつもより早く起きると、朝一番に図書館に向かった。
透に言われた「運命の人」の事が気になるのもあるけど、そうでなくても自宅に居場所を見出だせない私は、なるべく早くから図書館に出掛けるのが習慣になっていた。
特に、再婚相手の仕事が休みの土日は、早く家を出なければならない。
家の中でバッタリ会ってしまった時の、あの男の顔ったら、まさに苦虫を潰したようなのだ。
腹が立つけど、家は確かに彼の名義で購入したもので、しかも、私は母に付いて図々しくも乗り込んできた邪魔者なのだから、せめて休みくらいは顔を合わせないように出て行ってやるのが礼儀というものだ。
土曜日とは言え、午前9時の図書館はまだ閑散としていた。
少し冷たくなってきた秋風に、銀杏の葉がハラハラ落ちていくのを窓の外に見ながら、私はソファに腰を下ろした。
窓に面したこのソファは私のお気に入りの場所だった。
深々とソファに身体を埋めて、館内をグルリと観察してみるも、人もまばらでそれらしき男性は見当たらない。
お揃いのエプロンを掛けた職員らしき女性達が忙しそうに歩き回っている他は、特に運命を感じる人などいるように見えなかった。
「透にもっと詳しく聞いておけばよかったな……。せめて、何時頃に現れるのかくらいは教えてくれても良かったのに」
私はブツブツと口の中で文句を言った。
透に文句を言おうにも、いつものベンチに彼の姿は見えなかったから、連絡の取りようもない。
そもそも、彼の事も何も知らないのだ。
いつも見かけるのは夕方だから、もしかしたら、午前中はどこかでバイトでもしているのかもしれない。
心地よいソファでしばらくぼんやりと座っていたら、ふいに焙煎コーヒーの香ばしい香りがフワリと鼻をくすぐった。
図書館の入り口脇の一角に小さなカウンターカフェがあって、コーヒーやサンドイッチ等の軽食を出している。
本を読みながらコーヒーが楽しめるように、プラスティックの蓋がついた紙コップに熱いコーヒーを入れて持たせてくれる、読書愛好家には嬉しいカフェだ。
仄かなコーヒーの香りに私は朝食を食べていない事を思い出し、唐突に空腹感を覚えた。
ソファから立ち上がり、カフェカウンターに向かうと、メイド姿のお姉さんが会釈してくれた。
壁に無造作に貼ってあった手書きのメニュー表を眺めてから、マヨネーズと卵が入ったホットサンドとホットカフェラテを注文した。
図書館の中のこの小さなカフェには、私以外に客もいなければ、従業員もメイドのお姉さん以外に見当たらない。
カウンターの足の高い椅子に腰掛けて、お姉さんが手際よくコーヒーを入れるを眺めていたら、後ろからもう一人客らしき男性がやってきた。
一目見た途端、私の胸がドキンと高鳴る。
中肉中背の若い男性だ。
年は恐らく、20代半ばと言ったところか。
黒いTシャツの上からデニムのシャツをラフに羽織った姿が、若く見せているのかもしれない。
『運命の人』
透の言っていた本日のキーワードが脳裏に浮かんだ。
男性は、私の不躾なほどの率直な視線に気が付かない振りをしているのか、カウンターに向かうと「ホットコーヒーSサイズ」と言葉少なく注文した。
抑揚のない低い声だ。
「お席でお待ち下さい」とメイドのお姉さんに指示されて、彼は私の隣の椅子に浅く腰掛けた。
隣に座ろうとした訳ではなさそうだが、カウンターが狭い為に必然的に並ぶ事になってしまう。
男性は袈裟懸けにしていた革のショルダーバッグから文庫本を取り出し、パラパラとページを開いて読み始めた。
覗き見するつもりもなかったが、何となく本に視線を落として、私は思わず「あっ!」と声を上げた。
男性が読み始めた文庫本が、最近、読み終わったばかりの、冒頭から先が分かってしまうつまらないサスペンスだったのだ。
あらすじを読むとなかなか凝った設定で面白そうだったのに、連続殺人事件の犯人が主人公の同僚の警察官だったという、昔ながらの王道サスペンスドラマで、読み終えた時には、ストーリーが分かっている昔話を小説で読み直したような気分になった。
この本を読んだら、きっとこの人も同じ気持ちになるだろう。
できれば、止めてあげたい。
私が突然声を上げたので、男性は顔を上げて私を見た。
無造作に伸ばしたクセのある茶髪の下から、意思の強そうな茶色の瞳が怪訝そうに睨んでいる。
警戒心の強いノラ猫みたいな顔だ。
「どうかしました?」
低い声で男性は言った。
初対面の怪しい女にガン見されて、不信感を全身に漂わせている。
私は慌てて弁解した。
「すみません、変な声出しちゃって。その本、私も読んだばっかりだったから、偶然だなって思って」
男性は不審げに聞いていたが、やがて、少し表情を緩ませて言った。
「あなたも本好きなんですか?」
「えっ? ええ、まあ、多分。数だけは読んでます。暇なので……」
私がこの図書館で読書するのは人生を消費する為であって、本が好きだからではないのだけど、ここで初対面の男性に敢えて言う必要もない。
作り笑いをして、当たり障りのない返事をしてみた。
男性はようやく警戒を解いたのか、文庫本をパラパラ捲りながら話を続けた。
「この本、どうでした? 面白かったですか?」
「面白かったかって言われたら、ちょっと答え難いんですが……サスペンスを読んでる人に感想を言うのは反則だと思いますので……」
「つまらなかった」とは言えず、私は曖昧な返事をした。
私なりの精一杯の回答だったのだけど、男性はプッと吹き出して笑い出した。
笑うと目尻が下がって、意外にも優しそうな顔になる。
その顔に、私の緊張感も少し解れた。
「すみません。私、変な事、言いました?」
「だって、そんな事言われたら、つまらなかったんだろうなって誰でも分かりますよ」
「そうですよね……。正直言えば、つまらなかったです」
私と男性は顔を見合わせて、今度は声を上げて笑った。
やがて、私達の注文したホットサンドとカフェラテが出来上がり、「お待たせしました」とメイド姿のお姉さんが満面の笑顔でトレイを差し出す。
男性の注文したSサイズのコーヒーも一緒に載っていて、私は慌てて別のトレイを頼もうとした。
が、男性はそのトレイをヒョイと掴むと、「会計一緒で」サラリと言ってお姉さんに千円札を渡した。
どういうリアクションをしていいのか分からず、私は彼の一連の動作をオロオロしながら見つめる。
お釣りを受け取ると、彼は随分打ち解けた明るい表情になって椅子から立ち上がった。
「せっかくですから一緒に食べませんか? 図書館の敷地内にベンチがありますから」
「はっ、はい! でも、お金は払いますから」
「いいですよ。これも何かの縁ですし」
何かの縁……。
もしかしたら、これが透の言っていた『運命』なのだろうか。
私が何を考えているのか、無論、知る由もないであろう男性は、ウェイターのように器用にトレイを片手に載せると、ベンチに向かってさっさと歩き出した。




