後編
夫の腕の中で目覚める朝は初めてではない。けれど、素肌が密着したままの状態は初めてだ。というより、人生初だ。
照れ臭くて布団に潜り込むと、夫に小さく笑われた。
「おはよう」
「…おはよ」
恥ずかしくて顔を見ることができない。そんな私を夫は抱き締め直す。
触れ合う熱に、昨日のことを思い出して顔が火照ってしまう。大切にされてるって、愛されてるって伝わってきて。痛みさえ、愛おしいと思えた。
「体、大丈夫?キツくない?」
気遣わしげに夫は訊ねた後、私の旋毛にキスを落とした。
「ん…」
意図せず鼻にかかった声が洩れると、夫の腕に力が入った。
「ヤバい…」
落とされた呟きは艶っぽい。
私は顔を布団から出し、夫を見た。髪には寝癖がついていて普段より幼く見える。
どうしたの?
私は唇を動かしたが、声がほとんど出なくて、囁きに近い声になる。びっくりして喉を押さえると、夫が笑った。
「昨日、俺が無理させたから。しばらく声出ないよ、きっと」
言われて、昨夜のことを思い出す。
優しく、長い時間をかけて触れた長くて繊細な指や唇、肌に落ちる柔らかな髪。言葉はほとんどなかったけれど、行為の一つ一つが慈しみに溢れていて。初めてで怖いはずのものが、ただ嬉しかった。泣きたいくらい幸せで。何度も何度も、夫の名を呼んでいた。
今考えれば、恥ずかしくて堪らない。顔が火照ってきた。
「可愛いな…今日は休みだし、もう一回…」
え?
よく分からなくて首を傾げると、意味深な笑みを見せて夫がキスをした。
じゃれあうようなキスに、体が熱をもっていく。
夫の手がもどかしげに肌を撫でる。その感触に驚いて夫の胸を押すと、名残惜しそうに体が離れる。
「なに」
何、じゃないでしょ。朝だよ、今。
抗議の目で見ると、仕方ないなぁ…と夫が私の横にごろんと寝転がった。
「ま、時間はあるもんな。がっつきすぎだな、俺」
ガキみたいだ、なんて呟いている。その横顔が少年みたいで、私はくすりと笑ってしまった。
「何だよ」
不服そうにこちらを見た夫がたまらなく可愛い。
「可愛い…」
やっと出るようになった声で囁けば、夫の顔が更にしかめられる。拗ねてるのかな。
「大好き、忠博さん」
「え?うわっ」
前触れもなく、私は夫に抱きついた。夫はびっくりしたようだったが、しっかりと受け止めてくれる。
肌が触れるのが、こんなに嬉しいことだなんて知らなかった。互いを知ることが幸せで、心を満たしてくれるなんて知らなかった。
「俺を試してるの?」
「ん?」
「こんなことされたら、我慢できなくなる」
ベッドが軋んだと思ったら、夫が私を組敷いていた。突然のことに慌てる私に、夫は不敵な笑みを浮かべる。
「…子ども、欲しくない?」
唐突すぎて、頭が理解しない。
…子ども?
「俺は三人欲しいんだけど」
二人の顔が一気に近づく。夫の唇が耳に触れた。
「ね、欲しくない?」
低くて柔らかな声が、耳に注がれる。体が、熱い。きっと、顔は真っ赤だ。
もう、何も考えられない。
「ほ、欲しい」
「じゃあ、子作り、する?」
吐息が熱い。思考も体も蕩けていきそう。
私は何と答えたんだろう。
結局流されて、ベッドを出たのは昼過ぎだった。
「機嫌直してくれよ」
恥ずかしさから膨れっ面になって洗濯物を畳む私の隣で、満足げな夫が座っている。
「…怒ってはないけど」
「でも、眉間にしわ」
「これは元々です」
「昨日まではなかったって」
今日は始終べったりで、正直うっとおしさ満点だ。今まで、私に関心を示さなかったのが嘘みたい。甘すぎて、胸焼けしそう。
本当は今まで我慢してたのかも、なんて思う。気持ちが通じ合えたことで、箍が外れてしまったのかもしれない。
「過去に付き合ってきた人にも、こんなにべったりだった?」
つい考えていたことを口にして、私ははっとした。お互いにいい大人だ。恋愛くらいしてきている。そんなこと、気にしちゃいけないし、詮索してはいけない。
私の気まずさを察知したのか、夫はおどけた表情を見せる。
「いや、全然。寧ろ放っておいてキレられてた。…何?やきもち?」
「…っ!知らない!」
「沙耶さんは可愛いな〜。妬いてくれるんだ」
そう言うと、ぎゅっと私を抱き締めた。
「沙耶さんが、初めて。一緒にいたいって思うの」
「うん…」
「子どもできてもいいなと思えたのも、沙耶さんが初めて」
「うん」
分かってる。ただ、向けられる愛情に戸惑ってるだけ。
「沙耶さん…」
そう名を呼ばれるのも、本当は嬉しい。
まだ慣れないけど、確かに愛しいと思ってる。
「…忠博さんに似たら、美人な女の子になるね」
「俺は沙耶さんに似てくれた方がいい」
「ううん。忠博さんに似ている方がいい。忠博さんに似た子、欲しいな…」
そんな会話ができる。未来を見ていられる。今が幸せ。
「どんな子でもいいよ。沙耶さんが俺の子、生んでくれるなら」
見上げた先に、穏やかな表情で私を見つめる夫がいる。
願わくばその瞳にずっと、映っていられるように。
「当たり前よ」
弛んでいく口許。赤みの注した頬。
この人の色んな表情をこれからも見ていたい。
溢れる想いに包まれて、私は密かに願ったのだった。




